好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

光 監督:河瀨直美


河瀬直美監督×永瀬正敏主演!映画『光』予告編

 

最近、邦画をチェックしていなかったなぁとしみじみ思いながら見ていた。

橋口亮輔監督や西川美和監督のような、純文学っぽい作風の邦画は、けっこう重いので、気力のある時にしか見ない。

20代の頃は、むしろそういう作風が好きで、「あ~ヒリヒリする~!」と思いながら見ていたのに、いったいどういうことなんだろう。歳を取るって、こんなことにも影響するのかと驚く。

最後に見たのは、濱口竜介監督の「寝ても覚めても」なので、かれこれ1年近く邦画は見ていなかったようだ。

 

そんなわけで、河瀨直美監督作品「光」。

河瀨直美監督の作品は、おそらく初めて。「萌の朱雀」は見たような気もするけどまったく覚えていない。

 

この「光」という作品は、映画の音声ガイドを作成する女性が主人公だ。目が見えない人に向けてのガイドを作っていくなかで、言葉を使って映像を伝えるという難しさや、感性の違い、言葉そのものへの言及などがあって、前半は見応えがあった。

冒頭、ヒロインが街行く人々に対して、心の中でガイドをつけていく。彼女が音声ガイドの練習をしているシーンだ。

次々に現れる人物の背格好や雰囲気、表情をせわしなく説明していく。そのシーンだけで、自分がいかに無自覚に映画を見ていたのかを自覚させられた。何の事前情報もなしに見たが、これほど引きのある冒頭も珍しい。俄然、興味がわいた。

 

目で見たものを見たままに感じることと、それを言語化することの間には、ずいぶんと隔たりがある。目で認識することや、そこから何かを感じることというのは、自分だけがわかっていればそれでいい。けれど、言語化は常に他者を想定したものだ。他者を想定するという作業には客観視が必要で、それはただ「感じている」だけではできない。

ヒロインの音声ガイド作成にも、その葛藤が現れている。ヒロインが一生懸命に作成した文章に対して、「主観が混じっている」「押し付けではないか」という注文がつくが、彼女はそれをうまく修正することができない。主観を消そうとすると、文章をまるごと削ることになってしまう。客観的であり、想像力をかきたてるような、まさにガイドのような文章がうまくつくれないでいる。

彼女がどのような文章を作り上げるのか、それがラストで明かされる。この大筋はとても良くて、そこだけで十分見応えがあった。

 

ただ、後半の恋愛物語の部分は、あまり共感できず、唐突に恋愛が始まる感じがしておもしろくなかった。時間を半分にして、音声ガイドの話だけで十分だったように思う。それはあまりに野暮な注文だろうか。

 

映像は、極端に寄りのシーンが多く、圧迫感があった。ほとんど引きの画がなく、擬似的に視覚障害を体感させる映像になっていて、アイデアがすごい。

映像の枠の外が見たい、全体像が見たいと、何度も何度も思わされた。でも見ることができない。このもどかしさ、もっといえば苦しさのようなものが、視覚が失われている感覚に近い。画面に映像を映しながらも、視覚の不自由さを見せるなんて、とんでもない発想だ。

 

私自身も、およそ3年ほど、視覚が不自由だった時期がある。半年ごとに片目の手術を行い、両方があまり見えない状態だった時期を、ほんの数ヶ月だが経験している。あの時のもどかしさや、不安感が蘇ってきて、映像を見ているだけで息苦しくなってしまった。

永瀬正敏演じるカメラマンが、徐々に視覚を失っていく時の視野の映像は、とてもリアルで、私もあんな風に視覚が極端に狭まったりしていた。そんな個人的事情もあって、身につまされる内容だった。

 

そういえば、「京都人の密かな愉しみ」などを撮影している源孝志監督も、去年「わたしだけのアイリス」という小説で、色彩が失われていくカメラマンを描いていた。

 

映画監督にとって、カメラは体の一部、目と同じようなものだからこそ、こういうモチーフが描きやすいのかと、勝手に推測している。

2019年7月のあれこれまとめ。

今月の読書。

・歌舞伎のびっくり満喫図鑑 君野倫子
・恋と歌舞伎と女の事情 仲野マリ
ちゃぶ台返しの歌舞伎入門 矢内賢二
・歌舞伎手帖 渡辺保

 

今月はあまり本が読めなかった。

近代文学のアンソロジー的な本も買ったけれど、まだ読めていない。

歌舞伎関連の本を、七月大歌舞伎の予習がてら読んだぐらいに終わった。

 

先月末に読み始めたマイケル・オンダーチェ著「映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話」は、なかなかのボリュームだったけれど、とても興味深い話が多かった。

映像編集者であり音響監督も兼任するウォルター・マーチの話だ。これまで映像編集者を、ただのフィルムカットする人だと思い込んでいた自分の認識が、どれほど間違っていたのか、この本を読んで驚かされた。

特に印象深いエピソードは、マーチが言及した「楽譜」の発明についてだ。音符や楽譜など、音を書き記す記号を手に入れたからこそ、音楽が発展していったという説。そこから、もしも映像を楽譜のように書き記すことができるようになれば、映像もまた飛躍的な発展を遂げるのではないか、と彼は言っていた。

映像を記号化する、という発想はとても不思議でおもしろい。私にはアイデアも浮かばないが、記号化・均一化されることで見えてくるものは多いのかもしれない。それはおそらく、概念の抽出や、形式の成立を意味するんだろう。

映像は、平面と時間という立体構造になっているので、人間の脳で映像そのものを扱うのには限界があるのだろう。簡略化された記号によって、時間だけ、平面の画像だけ、また両方をあわせた場合など、自由自在に行き来できる「楽譜」が存在すれば、いったいどんなものが生まれるのだろうか。想像するだけでワクワクするが、同時に脳みそもねじれそうだ。

 

今月の映画。

個別に感想を書こうと思って伸ばし伸ばしになっている作品がいくつかある。

中でも特に良かった作品が「Love, サイモン 17歳の告白」だ。

ゲイの高校生男子が、さまざまな要因でカミングアウトするまでを描く青春劇なのだが、ゲイをことさら珍しいことと捉えない脚本に、とても素晴らしいものを感じた。

これまでは、悲劇的な作品や、偉人の話、もしくはコメディで扱われるステレオタイプのゲイ描写が多く、どこか異世界のものとして描かれていたと思う。

けれど、この作品に登場するサイモンはごく普通の高校生男子だ。友達もいて、優しい家族に囲まれている。そんな彼の成長物語に、ゲイという要素が含まれている、という描き方だった。

青春映画であり、ラブコメでもある。数年後、また見返したくなる作品だった。

 

劇場に見に行った作品としては「天気の子」がある。

映像はキレイだが、映像ありきでストーリーを組み立てているため、筋に整合性はない。キャラクターの一貫性に関しては、最初から放棄しているのだろうし、そこを見せる気もさらさらない作品だと思う。

映画を見終わったあと、自分の何かが変わる、というのが大事だと思っているが、何がどう変わるか、というのは難しい問題だ。

主人公に都合の良い設定、主人公に都合の良い女子キャラクター、主人公に都合の良いエンディング。努力もせず泣きわめくだけで、成長したような気にさせる展開。

そういうものを見て、何を思うんだろうか。夢を見させる映画があってもいいが、幻想を増長させる映画があるのは、どうなんだろう。

エンターテイメントとは、嘘だらけだし、そこを批判するのは野暮だと思わなくもないが、どうにも胸がざわつく。

線引が難しいが、ラノベや漫画を批判しているわけではないし、エロゲや同人誌における幻想はアリだと思っている。そういう作品があることは大事なことだ。つまり、受け手がどういう気持ちで見ているか、ということが大事なんだと思う。作品が嘘だとか幻想だとか、はっきりとわかる状況で楽しむことはアリだと思う。

けれど、青春系アニメ映画、特にメジャー作品はその立ち位置が曖昧だ。萌えアニメ、しょせん絵だと割り切れない部分があると、個人的には感じている。

 

今月のドラマ。

ぶっちぎりでおもしろいのは「凪のお暇」だ。

黒木華主演、高橋一生中村倫也というタイプの違うイケメンの間で揺れ動くアラサー女子を描いているが、どのキャラクターも一筋縄ではいかない。

恋愛のすれ違いには、物語上の限界点があるが、キャラクターに二面性をもたせることで、素直になれない、不器用な恋愛を成立させてしまう設定に驚いた。

恋愛物語が成立しずらくなり、タイムスリップなどの不条理な条件を課すことで、恋愛のすれ違いを描かざるを得なくなった現代の物語で、それを使わずに、現実的な設定で不器用な状況に陥れるとは。見事だった。

七月大歌舞伎・大阪松竹座/渡海屋・大物浦ほか(2019年7月27日千穐楽)

去年の松竹座観劇から1年。今年も七月大歌舞伎を見に行った。

チケットも高額なので、今年は昼公演だけにしようと思っていた。けれど、千穐楽の夜の部に澤村藤十郎さんがご出演されると聞きつけ、急遽夜の部のチケットも取った。

 

澤村藤十郎さんといえば、やっぱり古畑任三郎だ。

私は澤村藤十郎さんの歌舞伎は見たことがなかったけれど、古畑任三郎の「動機の鑑定」は何度も何度も繰り返し見た。古畑任三郎のエピソードの中で1、2を争うほど好きな話だ。

一番印象に残っているのは、この話の大オチ。物の価値とは何なのか、ということを叩きつけられたこと。次に、骨董品という世界のおもしろさがあり、それを体現する澤村藤十郎さんの佇まいに惚れ惚れした。(ちなみに、この影響から北森鴻の冬狐堂シリーズや細野不二彦ギャラリーフェイクにハマっていったりする)

悪徳骨董業者の春峯堂主人は、悪いことばかりしているくせに、骨董品を見分ける目は確かだ、というキャラクターの説得力が澤村藤十郎には備わっていた。

思い返すと、堺正章の「動く死体」で狐忠信を知り、「若旦那の犯罪」で市川染五郎にどハマりし、「王様のレストラン」「バイマイセルフ」で松本幸四郎にハマった。私が歌舞伎好きになったのは確実に三谷幸喜のプレゼンの影響だ。

「動く死体」では舞台装置のすっぽんがトリックに使われているが、その影響で、私はずっと、歌舞伎ではすっぽんが頻繁に使用されると思い込んでいた。けれど実際は、狐や妖怪、人でないものが登場する時にしか使われず、なかなか生ですっぽんからの登場シーンを見ることがなかった。

そんな中で、今年の七月大歌舞伎では、中村時蔵が演じる葛の葉姫(実は狐)がすっぽんから登場することろを見ることができた。なんとも古畑任三郎に縁を感じる1日になった。

 

昼の部は、「色気噺お伊勢帰り」「厳島招檜扇」「義経千本桜 渡海屋・大物浦」の3本。

 

「色気噺お伊勢帰り」は、藤山寛美主演で作られた松竹新喜劇が元ネタだそう。歌舞伎の演目にしてはとても軽妙で笑いの多い構成だった。明るい話で、長屋のドタバタ喜劇。題材はとても好きだ。けれど、演出が苦手だった。いわゆる、笑いどころを提示したり、登場人物が笑わせようと行動する演出を笑えない自分がいる。

基本的には、藤山寛美がおいしくなる演出が前提にあるせいだろう。主役のキャラクターが一番くどかったのが残念だった。笑われるキャラクターと笑わせるキャラクターは違うと思うが、漫才ではなくお芝居の笑いでは、笑わせているとキャラクター自身がメタ認知しているようなものは白けてしまう。

登場人物が真剣に行動した結果、見ている側が勝手に笑ってしまう、そういう喜劇が好きなので、あまり心から楽しめなかった。

もちろん、観客の年齢層から考えて、わかりやすさも大事だと思うので、この演出が間違っているとは思わない。この判断はとても難しいところだと思う。現状、お笑い芸人が演じるコントであっても、登場人物のメタ認知に配慮している演出は非常に少ない。個人的には、笑っていいのかわからないラインが一番好きだが、それは攻撃性に転じてしまう。真面目な人を笑うことに他ならないため、多くの人には受け入れられない。笑いとわかりやすさの難しい関係性を、こんなところでも思わず考えてしまった。

 

けれど、中村芝翫の大工はかっこよかった。こういう世話物というか、日常っぽい役をやっている時の中村芝翫、大好きだ。しゃべっているのをずっと聞いていたくなるほど心地よい。

そういえば、私の初歌舞伎観劇は中村芝翫(当時の橋之助)だった、と思われる。というのも、当時、私は高校生で、歌舞伎には興味がなかった。ほとんど眠っていたので、今となっては何の演目だったのかも思い出せない。

ところが、その公演で、同級生の男子が面白半分、度胸試し半分で大向うのマネをして「成駒屋!」と叫んだのだ。もともとリズム感の良い男の子だったこともあり(現在彼は音楽家になっている)、成駒屋という掛け声が演目の邪魔をすることなく、バシッ!と決まったのだ。肝が冷えるとはこのことで、見ているこっちが冷や汗をかいた出来事だった。

その時、成駒屋というフレーズが頭の中にこびりついて耳から離れなくなった。私は今でも「成駒屋!」の声を聴くと、彼の度胸と、中座の三階席を思い出す。あの時、男の子が声をかけた先には、チャキチャキした江戸っ子のような人物がいたような気がしていて、あれは中村芝翫だったんじゃないかなあと思っている。

 

二幕目、三幕目は時代物で、源氏と平家のお話だった。

時代物は苦手で、どうしてもお芝居に入り込めない。けれど、片岡仁左衛門の碇知盛。見ないわけにはいかない気がした。

結果的に、演技はすごいと感じたけれど、話がどうしても納得できなくて、私にはまだ早い演目だと思った。

この碇知盛について、あーだこーだ言えるほどの知識も見識もないので、感想を書くのもおこがましい気がした。ただ、妙な意地で、おもしろいと思ってないものをおもしろいと言うのも違うと感じる。だからこの演目の感想は保留。

劇場では、壮絶な知盛の最後に、涙する人もいた。正直な感想としては「マジで泣くの? なんで??」だ。

いつか、自分がこのお芝居の良さやおもしろみがわかった時に、もう一度考えてみたい。

 

夜の部は、「芦屋道満大内鏡・葛の葉」「弥栄芝居賑」「上州土産百両首」の3本。

 

芦屋道満大内鏡・葛の葉」は安倍晴明の出生がモチーフになったお話。陰陽師安倍晴明、狐の妖怪。こういうの、大好きだ。

昔の人にとって、安倍晴明というキャラクターは、前日譚が作られるほどメジャーな存在だったんだろうか。それとも、浄瑠璃や歌舞伎で演じられるからこそ、メジャーな存在となっていったんだろうか。

晴明の母親が狐だという話は、どこかでチラッと聞いたことがあったけれど、こんな風に江戸時代に戯曲化されて、さらに現在でも歌舞伎で上演されているとは知らなかった。

晴明の母親、葛の葉姫(狐)を中村時蔵が演じていた。本物の姫と、狐が化けた姫、二役の早変わりが見どころのひとつ。それは事前の予習で理解していた。けれど、一番の見せ場は、障子に歌を書くシーンだった。

舞台に4枚の障子が設置され、そこに葛の葉姫がお芝居をしながら、筆で和歌を書いていくのだ。

「え……本当に、今書くの!?」と驚いた。

途中、子どもをあやしながら、左手に持ち替えながら、そして最後には両手で子どもを抱え、筆を口にくわえて歌を書き終わる。

なんだか見ているだけでドキドキした。このドキドキ感は一体何なんだろうと不思議に思った。ライブ感、生感、今そこで行われている、そういう演出は色々とあるけれど、「筆で字を書くこと」は妙に刺激的だった。

 

続く二幕目は「弥栄芝居賑」。

芝居仕立ての口上で、役者が一堂に会して挨拶をする。仁左衛門さんのちょっとした言い間違いがあり、開場が笑いにつつまれる。舞台で芝居をしている時の仁左衛門さんは、それこそ鬼気迫る勢いだけれど、こういう時の仁左衛門さんは本当におちゃめな人だと感じる。失礼を承知で言えば、とっても「かわいらしい人」だ。そんな一面を見られるのも舞台ならでは。ありがたや~!という気分。

そして、澤村藤十郎さんがせり上がりで登場すると、劇場中が大きな拍手で包まれた。私も思い切り拍手した。「関西歌舞伎を愛する会」の前進である「関西歌舞伎を育てる会」発足に尽力したのが藤十郎さんだということを、私はこの日までまったく知らなかった。

私が今日、のんきに地元で歌舞伎を見られるのも、こういう努力があってこそ。本当に微々たるものだけれど、行ける時は歌舞伎を見に行こうと決意を新たにした。

 

…とか言っておきながら。

三幕目の「上州土産百両首」を見ることができなかった。朝から座り続けていたせいか、暑さのせいか、どうにも体調が悪くなって早々に撤退。めちゃくちゃおもしろそうなお話だったのに(スリの師匠と弟子が再会して、追う側と追われる側になっている、というような人情話)、見ることができなかった。来年あたり、衛星劇場で放送してくれないかな…と淡い期待を抱いて帰宅。ああ…見たかった…。

 

去年の七月大歌舞伎でも思ったけれど、やはり年々、観劇が苦しくなっていっている。映画館レベルでも体力が続かない時がある。まして歌舞伎の観劇は、頭フル回転なので大変。座席も小さいので、大柄な私にはツライ。こういう時、骨から小さくなりたいと切実に思う。座席にすっぽりきれいに収まっているおばあちゃんを見ると、本気でうらやましいと感じる。というわけで、なるべく良い席で見られるよう、仕事をがんばるしかない。うへぇ。

 

次は京都・南座

ずっと見たかった「東海道四谷怪談」だ。

関西では26年ぶりの上演らしい。昼に行くか夜に行くか、ちょっと迷うところ。

 

アクアマン


『アクアマン』 予告編 (2018年)

 

ネット配信が始まったので、視聴。

前回のワンダーウーマンでも思ったけれど、DCも完全に明るいノリの映画に移行したんだなと実感した。

私はスーパーマンの「マン・オブ・スティール」がとても好きだったので無念としか言いようがない。

いや、アクアマン単体で見た場合、これはこれで明るいアメコミ映画として良いと思うんだけど、MARVELと同じ路線なのは単純に残念。

小難しい話が好きなら、SF映画を見たり、本でも読んでろってことなのかもしれない。

実際、アクアマンの興行収入は良かったらしいので、今後のアメコミ映画は、MARVEL、DCともに派手アクションにノリ重視のストーリーになっていくんだろう。

 

アクションシーンを見ると眠ってしまうタイプなので、アクアマンを見ている間、3回寝落ちした。私は苦手だけれど、スティーブンセガールの映画のような豪快さがあって、ハマる人はハマる映画だと思う。

 

アクションシーンは、映画の楽しみのひとつだと思うけれど、どうにも受け付けない。楽しみ方がわからないというか、眠くなる。

これは、私がスポーツ観戦を一切しないという話と似ている気がする。人が体を動かしている姿に対して、共鳴や共感が異常に欠落していると思われる。

スポーツ好きな人に会うと、必ずそのスポーツの良さを聞いてみるんだけれど、なぜか共感することはない。

子どもの頃からスポーツをしなかったせいなんだろうか。うーん…。

NCISシーズン16 24話(シーズンフィナーレ)

<ネタバレしてます>

 

か、帰ってきた…!!!!!

 

ジヴァ・ダヴィードが帰ってきたぞー!!!!!

 

というわけで、とても嬉しいジヴァの復帰に、ラストシーンを何度も何度もリピートしてた。

なんだか落ち着いた声のジヴァ。もともと、コート・デ・パブロの声は低めのしっとりした声だったけど、改めて彼女の低い声で「Hello,Gibbs」というセリフが聞こえた時、なんだかぐっときてしまった。

 

ああ、ジヴァがいる!ジヴァがいるぞー!!!という気持ち。

NCISでは、初の復活キャストになる。ほとんどのキャラクターは死んで降板なので、ジヴァの死体が上がらなかった時から、いつかはこんな日がくると信じていた。たとえ、コートの復帰がなくてもジヴァというキャラクターは作中で生きてると思っていたので、コートの出演が決定しているのは本当に嬉しい。

トニー役のマイケル・ウェザリーは、別の主演ドラマに出演中とはいえ、同じCBSの番組。もしNCISの最終回があるならマイケルだって出演するはずだと、これも頑なに信じている。

なんてったって、トニーにはジヴァとの愛娘がいるからね。いつか彼らの3ショットも見せてくれるはず。NCISはそういう国民的お約束展開のドラマだと信じている!

 

いや~。それにしても嬉しい。

現段階で、コート・デ・パブロの出演がレギュラーなのかゲストなのかは公表されていないけど、ゲストでも十分だ。時々、顔を出してくれるぐらいでかまわない。

そして何より、ジヴァというキャラクターが出演するということは、NCISが国内の事件解決ではなく、国外の陰謀に巻き込まれていく展開になるだろうことを示唆している。これが楽しみ。

ジヴァは、NCISの重要なキャラクターでありながら、モサドという故郷がある。どっちも大切だという部分が、物語の展開をおもしろくさせていた。信用できないキャラクターなんだよね。でもそこがいい。

何より厄介事を持ち込ませたら天下一。次々に面倒なことを持ち込めるキャラクターだから、物語が大きく動いておもしろくなる。

一話完結の事件もいいんだけれど、シーズンを通しての敵や、克服すべきトラウマっていうのがないと、どうも中だるみしてしまう。

シーズン6から続いていたギブスとギブスの父親の確執は、とても見応えがあって大好きだった。今はギブスの家族問題が続々と解決していっているので、ジヴァの厄介事が楽しみだ。

 

今回の24話タイトルは「Daughters(邦題:最愛の娘)」。

複数形というのは、もちろん、この話のメインだったフォーネルの娘と、そしてギブスの娘(と同等の存在である)ジヴァのことだ。

にくいね、こういうタイトル。

邦題も「最愛の娘」。フォーネルさんの娘のことだと思うよね、普通。そしたら最後の最後にジヴァが出てくるんだから。

ああそうだよ、ギブスがジヴァのことを娘のように愛してるって言ってたなぁ、なんてことを思い出しながらしみじみしちゃった。

 

アビー役のポーリー・ペレットの降板は本当にショックで、しかも降板理由がマーク・ハーモンからのいじめや暴力だと本人が発言。何が本当かはまったくわからないけれど、こういう状態になってしまったこと自体が残念だった。

そんな中でのコートの復帰。こんな嬉しいニュースはない。

NCISがあと何年続くかはわからないけれど、グランドフィナーレには一人でも多くのキャストが続投、そして復帰した状態であることを願わずにはいられない。

 

 

NCIS ネイビー犯罪捜査班 シーズン1<トク選BOX> [DVD]

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2019年6月のあれこれまとめ。

今月の読書。

・哲学入門 バートランド・ラッセル

・図説・標準哲学史 貫成人

・答えのない世界に立ち向かう哲学講座 岡本裕一朗

・中動態の世界 國分功一郎

・暇と退屈の倫理学 國分功一郎

・世界の建築家 解剖図鑑 大井隆弘

・図説 英国の住宅 ChaTea紅茶教室

・江戸の骨は語る 篠田謙一

・そろそろ、歌舞伎入門 ペン編集部

・歌舞伎名演目 世話物 松竹株式会社

・歌舞伎キャラクター絵図 辻村章宏

市川染五郎と歌舞伎を観よう 小野幸惠

・映画の文法 実作品にみる撮影と編集の技法 ダニエル・アリホン

・スタン・リー マーベル・ヒーローを創った男 ボブ・バチェラー

・映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話 マイケル・オンダーチェ

 

 

昨年読んだ斎藤環さんの「オープンダイアローグとは何か」とコラボしていた記事を読み、ようやく國分功一郎さんの「中動態の世界」を読んだ。

読んでみて、え!?言語の話だったの!?ととても驚いた。そこから派生した人間の脳や行動の話ではあったんだけど、私は「中動態」という単語そのものを知らなかったので、そういう話なのか!とびっくりしてしまった。

そもそも、ロマンス諸語というものをあまり理解していなかったし、西洋の言葉たち(フランス語やスペイン語やドイツ語などなど)が、どういう親戚関係なのかもイマイチわかってなかったため、能動態とか受動態とか以前の問題だった気がする。作者の國分功一郎さんは、海外留学もして、そこで仕事もするぐらいなので、英語はもちろん、ロマンス諸語にも精通してるんだろうなと思う。

でも、英語もおぼつかない私にとっては、そもそも受動態や能動態という分類を意識せずにしゃべっていて、実感としては遠い話だった。ただ、言葉が脳を縛っていく構造は理解できるし、言葉が完全でないというのもよくわかる。

英語という言語が、常に主語、つまり「誰がその行為をしたのか」を問い続ける特性のために、本来主語がないはずのものまで、誰かの責任にしてしまっているのじゃないかと、大きく言えばそんな話だった。

哲学本をちょこちょこと読んだあと、建築本に手を出し、歌舞伎関連のビジュアルブックなども読んだ。

ようやく演目も覚えだし、解説なしでも、初回でなんとなく理解できるようになった。ほんの1年前は、まったく言葉が理解できなかったことを思えば、やはり同じ日本語。習得できるもんだなと思う。

そんなに歌舞伎を見たことがなかった20代の頃から、市川染五郎さん(現・十代目松本幸四郎)が書かれた歌舞伎の本を読み、いつか本物の舞台を見に行こうと思っていたことが、懐かしく感じられる。昨年の襲名興行を機に、ガチで歌舞伎を見に行くぞ!と決意したことは本当に良いきっかけになったと思う。

 

そして、6月末にはX-MENダークフェニックスの鑑賞準備のため、X-MEN映画の総ざらいをした。アメコミ熱が再燃して、スタン・リーの本や映画編集の本などに手を出した。分厚い本だったので、まだ途中だけれど。さらに、勢いでDCコミックキャラクター辞典を購入。全然知らないキャラクターばっかり載っていて、どうしたもんかと思いつつ、見ているだけでも幸せなのでいい。

MARVELキャラクター辞典はプレミア価格になっていて、とても手が出せない。でもいつかはほしい。

あとは、新古書を見に行った際に見つけた、深海生物の図鑑を買ったり、世界の文様図鑑を衝動買いしたりした。

あらかた読み終わったら、7月中には京極夏彦先生の新刊を買いたいと思っているけど、いつになるんだろうか。

京極シリーズを読み出すと、姑獲鳥の夏から全部読み返したくなるので少し躊躇している。でも、もうすぐ夏。姑獲鳥の季節だ。

 

 

今月のドラマ。

春ドラマがのきなみ最終回を迎えた6月。

最後まで完走視聴したのは、「きのう何食べた?」と「緊急取調室」だけだった。

もう散々語られているので、「きのう何食べた?」について自分が言うことは何もない気がする。とにかく素晴らしいキャストとスタッフと企画だったなと、しみじみしている。DVDを買う予定で、グッズも可能な限り通販したいと思っている。

ドラマの収益化が難しくなってきた昨今、こうして直接的にグッズで課金させてくれるのは、とても嬉しい。課金とオタクは相性が良い。「きのう何食べた?」は、グッズ展開もとても素早くて、ほしい時にさっと売り出してくる方法は素晴らしいなと思った。

「緊急取調室」は安定感のあるドラマで、ちょっとオーバーな演技もふくめて毎週楽しく見ていた。やりすぎやろ!とつっこむのも楽しみのひとつ。ただ、部署が解散する・しないの展開は、別にいらなかったような気がした。そういう緊張感がないと見てくれないの?

そんなことないと思うんだけどな~と、無責任な感想を吐き出してみる。

 

海外ドラマは、スーパードラマTVで始まった「クリミナル・マインドシーズン12」を視聴中。ホッチ役のトーマス・ギブソンがトラブルで降板したシーズン。ホッチがいなくてどうなるのかと思っていたけれど、まあこれはこれでアリかもしれない。クリマイは女子キャラクターが魅力的なので、エミリーやJJがいなくなった時の方がショックが大きかった。シーズン15で終了と発表されているので、あと3シーズン、じっくり楽しみたい。

FOXで放送中の「NCISシーズン16」は、今週がシーズンフィナーレ。あの方の大復活があるのか、ないのか。もうそれだけでドキドキしている。トニーもアビーもいなくなったNCISに、ぜひ戻ってきてほしい。

あとは、サブスクが更新されていて、「SUITSシーズン7」もすべて見終わった。実は、シーズンフィナーレだけはどうしても我慢できず、昨年すでに本国の放送で見ていた。ちゃんと日本語字幕で見られたのは良かった。ドナちゃんが会社のCEOになろうとする展開でしたが、うーん。やっぱりドナちゃんは秘書がいいと思います!!!

あとルイスが相変わらずおもしろくて、この人、隣にいたら大迷惑だけどドラマだと笑えるなあって不思議な気持ちになった。

 

大好きだったビックバンセオリーが、本国でフィナーレを迎え、楽しみにしていたドラマがひとつ、またひとつと終了していって、寂しい。SUITSもクリミナル・マインドも終了が発表されていて、次にハマれる連続ドラマがまだ見つかっていない。

NCISも、ギブスがそろそろ体力限界にきてそうなので、終了も視野に入っているのかなあと思ったり。フレンズの復活があるかも?なんてニュースも流れているけど、本当だったらこんなに嬉しいことはない。ないとは思うけど、あるかも、と思いながら今日もがんばって仕事に行きます。

パティシエ探偵ハンナ チョコチップクッキー殺人事件


Murder She Baked A Chocolate Chip Cookie Mystery

 

 

可愛いお菓子と恋愛とサスペンス。

なんだ、この軽いテーマは!と思わず課金して見てしまった「パティシエ探偵ハンナ」。

サブタイトルもチョコチップクッキー殺人事件や、カップケーキ殺人事件と、なんだか可愛い。気軽な気持ちで、お菓子を頬張りながら見られるサスペンスドラマ。う~ん、イイ!

 

ミネソタ州の田舎町で、クッキー屋さん兼カフェを経営しているハンナ。ハンナの店には、ご近所のおしゃべりおばあさんや、警察官など、様々な人が通ってくる。そこで仕入れた噂話をもとに、好奇心旺盛のハンナが殺人事件に首を突っ込んでいくという、おさわがせミステリー。

ハンナの相棒には、町にやって来たばかりの訳あり刑事・マイクと、ハンナとお見合いデートをした歯科医のノーマン。

二人の間で揺れ動く少女漫画設定!ネタバレですが、最後まで見てもまだどっちともくっついていません。まじか!魔性の女ハンナ!

 

毎回、お菓子にまつわるエピソードや、お菓子がらみの事件が起こるのがおもしろい。ハンナの信条は「人がクッキーを選ぶのではない。クッキーが人を選ぶ」という、よくわからないセリフ。

でも、なんか可愛い。

クッキー店の描写も可愛くて、出演者がお菓子をほおばったり、ハンナがお菓子づくりをしているシーンが印象的だった。

相棒の刑事・マイクとは、最初はいがみ合っているのに、気がつけばめちゃくちゃ惚れられてしまうという王道展開。なんじゃそりゃー!とつっこみながら、最後まで見てしまった。

歯医者のノーマンも都会的で悪くないと思うけどね。

 

ミステリーと恋愛ドラマのバランスがよくて、あまり不快な気持ちにならない話だった。こういうの好きだなぁ。

 

ジャンルはテレビ映画で、劇場公開しているわけではない。いわゆる2時間ドラマってジャンル。

こういうドラマが日本で見られるなんて、ちょっと感慨深い。

というのも、私の海外ドラマデビューは1994年のフレンズで、かれこれ25年ほど前になる。その頃はyoutubeもなく、アメリカのテレビ情報はほとんどなかった。テレビ俳優の様子を見られるのは、アカデミー賞の中継ぐらい。それもメインではなく、付き添いや来賓席にいる。チラッと映り込むテレビスターを必死にコマ送りで探すという、時代だった。

 

そもそも、テレビ放送枠が限られていたので、本当に限られたドラマしか日本で放送されず、見られないものがほとんどだった。

フレンズやフルハウスのような国民的なビッグタイトルか、ERなどの医療ドラマみたいに、確実に当たりそうなものしか放送されてなかった。

それを思うと、「パティシエ探偵ハンナ」なんて、かる~い2時間ドラマに日本語字幕がついて見られる日が来るなんて。ちょっと感動的だ。

今後もこういうドラマの配信が増えていくといいなあと思う。