好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

東海道四谷怪談 2019年9月 南座

念願の四谷怪談

関西では26年ぶりの上演。私にとっては初であり、生の舞台で鶴屋南北の作品を見るのも初めてだった。

 

私の初めての四谷怪談は1997年発行の京極夏彦の小説「嗤う伊右衛門」だった。怪談も歴史モノも苦手だった私が、人生で初めて読んだ時代物小説でもある。

京極夏彦が、定説となっている四谷怪談を読み替えるというのが、おそらくこの本の凄みだと思うのだが、いかせん私は元を知らなかった。ただただこの小説が好きで好きで、実際の四谷怪談とはどんなものなんだろうかと夢を膨らませていた。

歌舞伎などの四谷怪談と、京極小説はまったく違う、とは思ってた。けれど、想像以上に違っていたので、ここまで読み替えるなんて、京極夏彦ってすごすぎるなと改めて「嗤う伊右衛門」という作品が異質だったことを思い知った。

 

歌舞伎版を見て思ったのは、自分が「四谷怪談」を好きなのではなく「嗤う伊右衛門」という作品が好きだということだった。怪談話はどうも腑に落ちない。エンターテインメントとして楽しめない、という感覚だ。

私自身にコンテクスト(文脈)を読み解く力がないという問題もあるだろう。また、現代において数多くの物語を読み聞きした自分にとって、展開の面白味を感じにくいという問題もある。そうなると、どうしても役者の魅力で作品を見るしかなくなる。こういう状況だったので、ついつい役者の方へ、厳しい目が向いてしまった。

 

もともと、歌舞伎芝居というのは、物語(ストーリー)が主役ではなく、役者をより魅力的に感じるためのエンターテインメントだ。

愛之助伊右衛門は、悪くはない。でも魅力的かと言われるとそうは思わない。立ち姿もかっこいいし、顔もかっこいい。芝居も間違っていないと思うけれど、それ以上の何かがない。おそらく、好きになれないんだと思う。

妻に毒を盛る極悪な男の、どこに好きになる要素があるんだ、と思われるかもしれない。しかし、この色悪の代表である伊右衛門。彼がなぜただの悪役ではなく「色悪」と呼ばれているのか、という点を考えてみたい。

 

「色悪」は歌舞伎のキャラクター用語で、鶴屋南北が作り出したとも言えるキャラ類型だ。現代で言えば「地味っ子メガネ」とか「天然美少女」とか、そういう言葉に当たる。

辞書には、「外見が二枚目で性根が悪人」とか「表面は二枚目であるが、色事を演じながら、実は残酷な悪人で女を裏切る悪人の役」と書かれている。

これだけ聞くと、いわゆる「悪美形」か、と思わなくもない。美しくて悪いヤツ。そういう意味は多分にあるのだろう。ただ、私はこの「色」という言葉はただの「美形」を意味しているのではないと思っている。

「美しいもの=魅力的なもの」と考える人は多いが、それは決してイコールで結ばれるものではない。魅力的なものの一部に「美しいもの」は入っているが、美しいもののすべてが「魅力的なもの」ではない。

「色」は「色事」のイロで、性愛を含む恋愛の概念だ。そこには、現代で想像する恋愛とはかなり違った価値観があるだろうし、性愛を突き詰めた遊び(であり本気)なのだと思う。

民谷伊右衛門は悪い男だ。妻に毒を盛って殺し、死体を川に流したりする。でも、彼が「悪人」ではなく「色悪」なのは、見た目が良いという意味だけではなく、「好きにならずにはいられない」という点だと思うのだ。

こんなに悪いヤツなのに、目がそらせない、ついつい見てしまう。惹きつけられて魅入られてしまう。それこそが「色悪」なんじゃないかと私は思う。

観客は、悪に恋をしてしまう。だめだと思っているのに好きになってしまう。そういうジレンマを感じることがエンターテインメントなんじゃないだろうか。

だから、伊右衛門は魅入られてしまうほどかっこよくなければならない。それは見た目の美しさだけではない。人間的な魅力、思わず愛してしまいそうになる何かが見えなければならない。

そういう意味で、愛之助演じる伊右衛門はかっこよかったものの、魅力的ではなかった。ただの悪役に見えた。

七之助にしても中車にしても、また脇役の演者にしても、全体的に声がよくないのが気になった。壮絶なシーンが多いので、怒鳴り気味になるのは仕方がないのかもしれないが、一本調子なので飽きてしまう。声の強弱だけではなく、高低の変化でセリフを言って欲しいと思うところがあった。

演出に関してもメリハリの薄さが気になった。直助がお袖に横恋慕する前半のシーンは、もっと軽妙に、笑いが起こるぐらいの演出の方が良かったと思う。ほのぼのした日常から、突然、殺人のような陰湿なシーンに切り替わる方がショッキングだ。さっきまで一緒に楽しくすごしていた人物が、人殺しをしているなんて、とても刺激的だと思う。

 

鶴屋南北という人の作品を、あらすじだけでたどると、とても好きだなと思うのだけれど、いざ歌舞伎を見るとハマらないという、なんとも消化不良なことが多々ある。

役者が違ったり、演出が違うと、ガラリと意味が変わるのが舞台のおもしろいところでもある。いつか理想の南北作品に出会えるといいなと思う。

 

嗤う伊右衛門 (中公文庫)

嗤う伊右衛門 (中公文庫)

 

 

薬物依存症 著者:松本俊彦

ひょんなことから「オピオイド危機」という単語を耳にして、ネットで検索していたところ、本格的に薬物依存症とは何だろうかと興味を持ち、病理学の本などを読んでいた。オピオイドの機序や麻酔薬について、知っているようで知らないことが多かった。

薬物というと、なんだか縁遠いものに感じていたが、よくよく考えてみると数年前に全身麻酔で手術をした。その時に用いられた麻酔薬はオピオイドだろう。(正確には色々違うのかもしれないが)

おお、私も体験してる!と驚いた。

この時の記憶は一切なく、麻酔が回った瞬間に世界が真っ暗になって、気がつけば12時間ほど経過していた。

 

この数年間、何度か手術を体験するうちに、自分の中の境界線が揺らいでいた。たとえば投薬。体に良い薬と、麻薬の違いだとか、医師の手術(侵襲)と殺人の違いだとか。同じ行為でも目的が違えば、功罪がひっくり返る。

それは発酵と腐敗が、同一の作用であるのに、人にとって「有害」か「無害」かで言葉が変わるのとよく似ている。

もちろん、それが有害か無害かというのは、実際にはとても重要な問題だし、同一の行為だから同じ意味であるべきだ、などとはまったく思っていない。殺人と医療行為は、体を傷つけるという行為「だけ」が似ているのであって、その意味はまったく違う。

ただ、人間の行動と、社会的なルール(法制度)にはどうしても相容れない部分が多い。それは人間が生物だということに由来している。

 

自然界はすべてゆるやかにつながっていて、グラデーションのように変化していく。けれど法制度や社会のルールはそういうグラデーションには対応できない。本来は切り離せないものを切り離し、別の事象として扱わなければ、立ち行かなくなる。

薬物依存症を始めとする、犯罪行為ににつながる依存症(盗癖や性的嗜好)は、そういう法律と人間性のはざまに取り残された病気のように思えた。

通常の病気は、他人に迷惑をかけるものではない。本人が苦しいだけだが、依存症はそれが犯罪(他害)につながりやすいという点が解決を難しくさせている。

他害が目立つと、それを病気だと認識することも難しくなる。私自身にもそういう偏見が多くあった。

 

本書の中でとても印象深かったのは、エドワード・J・カンツィアンというアメリカの精神科医が指摘した「依存症の本質は快楽ではなく苦痛にある」という話だった。

とても簡単に言えば、幸せな状況に快感がプラスされても依存的にはならないが、不幸な状況を一時的に忘れるための快感は、依存的になるという話だった。

この話はかなり衝撃的だった。確かにそうとしか思えない。

暴力や極度のストレスにさらされた状況で、一時的にそれを忘れるためにアルコールや薬物を使う場合、それはその人にとっての鎮痛剤のような役割を果たす。それこそ、鎮痛剤も依存性があったりするわけで、痛みから逃れるためなら人間は何だってすると思った。

以前、歯医者で親知らずを抜いた後、ズキズキと痛みが襲ってきたことがあった。鎮痛剤を飲むのが少し遅れたせいで、たまらない痛みに襲われた。思わず壁を殴りそうになり、そういう暴力的な自分がいることにとても驚いた。

親知らずの痛みと比べるのもどうかと思うが、ああいう状況が続くなら、やはり一時的にでも痛みを和らげてくれるものに頼るのは、必然のような気がした。

 

心の痛みや孤独、不幸な状況というのは目に見えない。目に見えないものはどうしても認識しづらくなる。これが、足が折れているとか、体中に包帯が巻かれている、という状態なら、怪我や病気だと認識できるが、心の中は他人にはわからない。

見えないものや、わからないものは、どうしても「無いもの」だと勘違いしてしまう。不幸な状況を他者が認識するのはとても難しい。ともすれば本人さえも気づいていない場合が多い。

 

他害が含まれる病気というのは、人間関係を失うという最大のリスクがついてまわる。人から愛されない、人から疎まれる、友人がいなくなる、家族を失うという状況は、よりいっそう病気を進行させる。

孤独が病気を呼び、病気が人を遠ざけ、さらに孤独になっていくという悪循環ができあがる。

とても難しい問題だと思う。私は身内にそういう人物が多い家庭環境で育ってきたため、簡単に助け合おうなどとは言わない。愛情に飢えた人間の怖さはよく知っている。あれに付き合うことは本当に難しい。底なし沼に引きずり込まれるようなものだと思っている。けれど、人の力を借りなければ回復しない病気だということもよくわかる。

ひとつ言えることは、「私が他人なら、もっと気軽に助けてあげられたのに」とずっと思っていたことだ。

身内は距離が近すぎて、手助けする側に逃げ場がなさすぎる。身内同士だと要求もエスカレートして容赦がなくなる。だから、いつでも縁が切れる他人ならば、自分の心に余裕がある時だけ、少し話を聞いたりすることはできるだろうなと思っていた。表層的でもいい。ほんの数秒のやりとりでもいい。

それこそ、販売員に優しくしてもらったとか、誰かに道を尋ねて快く対応してもらったとか。本当にその程度のことで、人の心は救われる瞬間があるんだと思う。

私は身内を助けることは、おそらくできないけれど、その分、自分が出会った見知らぬ他人には優しくするように心がけている。

病気のことを理解する人が増えればいいと思うけれど、大したことはしなくてもかまわないと、個人的には思う。

余裕がある時に、少し他人に優しくするだけで、孤独というものは少しづつ消えていくと思うから。

 

 

薬物依存症 (ちくま新書)

薬物依存症 (ちくま新書)

 

 

 

2019年8月のあれこれまとめ。

<今月の読書>

 全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション 辻惟雄

三遊亭圓朝の明治 矢野誠一

三遊亭円朝江戸落語 須田努

遊びと人間 ロジェ・カイヨワ 多田道太郎/訳

いちばんやさしい薬理学 木澤靖夫

これならわかる!薬の作用メカニズム 中原保裕

薬がみえる vol.2 医療情報科学研究所

薬がみえる vol.3 医療情報科学研究所

疫病神シリーズ 疫病神~喧嘩 黒川博之

いけない 道尾秀介

 

今月は小説が多めだった。

ドラマからハマって、ようやく原作に手を出した疫病神シリーズ。

大阪が舞台になっているので、知ってるところも多くておもしろい。内容はけっこうハードなところもあるので、キャラクター小説としては好きだけど、本来的にはハードボイルド小説は苦手だなと思う。

 

道尾秀介の「いけない」は、帯の煽りがすごかったので読んでみた。びっくりするオチという評判だったけど、私にはイマイチだった。策士策に溺れるじゃないけど、文章をひねりすぎている気がする。犯人の動機や心情の整合性がとれていないと、どうしてもそっちが気になってしまう。インタビューをチラっと読むと、本をあまり読まない人におもしろいと思って欲しいから書いた、という趣旨のことが書かれていた。そういうことなら、自分がどう思おうが関係ないなとも思う。

 

森博嗣だったかが言っていたが、本を読むという趣味は、実はとてもマイナーな趣味だという。ほとんどの人が本なんて読んでいないと。

本好きは、自分が本好きの自覚がないため、全体像を見誤ることがあるらしい。私は本好きだと思っているが、多読をしているとは思っていない。むしろ、自分は本好きの中では、あまり本を読まない人間だと思っている。読む速度も遅いし、ななめ読みや、好きなところだけ、オチだけ先読みもする。なんとも荒々しい本読みだと思うから。

 

読書が好きになるきっかけは何だろう。

私の場合は単純明快で、エロ本が読みたかったという理由だった。小学生の頃はお姫様が出てくる絵本が大好きで、そこから少女小説をこっそり読み、それでは満足できなくなって、いわゆる文学作品にも手を出し始めた。だんだん小説のパターンにも慣れてきて、大学生になると論文系もガツガツ読むようになった。仕事柄、医療論文を読む機会があったこともあり、難しい文章の読み方というものにも慣れていった。

でも、一番最初の動機は、恋愛小説が読みたいという欲望のみだった。小学生の頃の担任に「どんな本でもいい。漫画でもエロでも何でもいいからとにかく文字を読みなさい」と言われたことに後押しされ、その言葉を真に受けて、エロ本を読み漁るという暴挙に出たのが良かったのかもしれない。ありがとう担任。

 

本が楽しいならずんずん読めるはずだ、という思いが私にはある。難しい本なんて読まなくていい。読みたい本を貪るように読めばいいじゃないかと思う。インターネットやTwitterでテキストを読む行為だって、本を読む行為に似ていると思う。だから、それで慣れて飽きるほど読めば、次のステップに進みたくなるんじゃないかと期待している。

だから、道尾秀介が「いけない」を、あまり本を読まない人に向けて書いたという話は、小説家として素晴らしい姿勢だなと思う。そういうエンタメ作家は、やはりあまり多くないと思うから。

 

あと、今月は100de名著がロジェ・カイヨワの「戦争論」だったので、関連書物に手を出してみた。まだまだ浅くしか読めていないので、感想は書けないけれど。

それから、薬物関連のニュースが流れてくる中で「オピオイド」という単語がみょ~に頭にひっかかって、そういえば薬の機序をあまり理解していないなと思い至り、薬学関連の本を読んでいる。

 

<今月のドラマ>

黒川博之つながりで、森山未來主演の「煙霞」を見た。

監督は映画版の「破門」を撮った小林聖太郎

破門より、こっちのドラマの方がおもしろいなと思った。ちょっとテンポがゆっくりなのが気になったけれど、キャストが全員関西出身なので、しゃべりを聞いてるだけで心地良かった。

特に高畑充希の女教師がハマっていてびっくりした。清楚な女の子を演じているイメージが強かったので、こういう役もいいなと思った。森山未來とのかけあいも絶妙で、いいカップル。

森山未來演じる美術教師は、いまでこそ絶滅したと思うけれど、こういう先生いたな~と思わせられる妙なリアリティがあった。(作者本人に近いのかも)

ふと思い返してみると、小学四年生から高校三年生までの九年間、私の担任は全員こういう自由人な男性教師だった。仕事よりも優先するものがある人ばかりで、趣味に生きている人だった。教職というのは、昔はそれぐらい自由な面があったと懐かしく感じた。

 

 

英雄たちの選択「名人円朝 新時代の落語に挑む!~熊さん八っつぁんの文明開化~」

NHKのBSで放送している「英雄たちの選択」という番組がある。

歴史上の人物を解説し、何かを決断する瞬間をクローズアップした歴史番組だ。歴史番組なので、基本的に戦国武将やそれに関連する人物しか出てこない。日本史は平安時代までと、明治以降しかわからない超絶歴史オンチのため、少しでも楽しく知識を増やせればと、なかば義務のように見ている。番組を見ている瞬間は「ほほ~!」と納得するものの、知識は1週間ほどできれいサッパリ流れ落ちる。

あれだけ、「なるほど!」と思ったはずの応仁の乱も、今は薄ぼんやりとしており、誰にも説明することはできない。なんなんだろうか、この歴史オンチぶり。

 

歴史を理解できないのは、闘争心の欠落が原因じゃないかと思っている。負けず嫌いではあるけれど、たとえば誰かの何かを奪いたいとは思わない。功名心もなければ、支配欲もない。大勢の人間に何かをわかってもらいたいとか、大勢を従えたいとか、そういう巨視的な感覚もないので、土地を奪い合うことへの欲求が理解できない。

いや、もちろん、平和のための戦争ということはあるだろう。戦わなければならない瞬間もあるのは頭では理解できる。ただ、それを後世の私が「楽しめるか・興味を持てるか」は別問題だ。

戦略面で言えば、ゲーム的楽しさでもある。対戦系のゲームや、チームスポーツなどは戦争と通ずるものがあり、その戦略性を楽しむ人も多い。だからこそ、多くの人が戦国武将の戦い方に魅了されているのだろう。

 

日本史の授業を受けていた時、どうにも歴史に興味が持てなかった。それはすべて戦う人々の理論で成り立っていたからだと思う。

私は、和歌や絵や文学からでないと、その人物を理解することがうまくできない。たとえば、画家が世界に憤る気持ちは手に取るようにわかるのに、戦国武将が戦う理由はまったく理解できない。どこまでいっても、小さな個人の感情(欲)しか感覚的につかめない。それ以上を望む人の欲は体感がついていかない。たとえそれが、どれほど個人的な私の思い込みであったとしても。

 

そんな中で、珍しく戦国武将ではない人物が特集されていた。

三遊亭圓朝だ。

 

……え? 誰?

 

私の最初の感想は、こんなもんだった。

落語にあまり詳しくないうえに、上方落語しか知らないもんだから、初めて聞く名前だった。あの有名な「牡丹燈籠」とか「真景累ヶ淵」の圓朝だよと言われても、全然わからない。というか、そもそも落語が元ネタだと知らなかった。

 

そういえば、関東の落語は人情話や怪談話が多い気がする。上方落語には人情話は多少あっても、基本的に笑い話がメインだと思うし、私がこれまで聞いたことのある話も(たいした数ではないものの)笑い話しかなかった。

落語を題材にしたドラマや漫画を見るたびに、関東の落語に脈々と流れるあの感じ、のほほんとしてない感じって何なんだろうと、漠然と疑問に思っていた。そもそも、落語の始まりや発展の経緯がかなり違うのだと、この番組を見て感じた。

 

番組を見て、ちょっと気になったので圓朝についての本も数冊読んでみた。「牡丹燈籠」と「真景累ヶ淵」の詳細なあらすじも読んでみて、なんとも因縁深い話で、興味がわいた。

この番組でも、解説本でも書かれていたが、圓朝の怪談話は、幽霊そのものが怖いという話ではなく、そこで翻弄されていく普通の男が、欲望のままに変化していくことが「怖さ」だとされていた。

なるほど。

状況が整えば、人は人を殺してしまうし、人を殺しすぎると心理的ハードルが下がって次々に殺してしまう。そういうことの怖さとか、欲を描いていると言われると、とても興味深い。

私は怪談やホラーが苦手で、怪談の類はほとんど知らない。だから、ぼんやりした知識しかなく、怪談の本質をまったくつかめていないんだろう。

怪談のおもしろさは、おそらく「説明がつかないこと」なんだと思うが、私は答えがないものがとても苦手だ。不思議な話にも、徹底的に合理的な説明が欲しいと思ってしまう。不思議を不思議なままで受け止める度量がない。

「落ち」や「整合性」があることが、ある意味でエンターテイメントの魅力だと思っている。現実には、わからないことはたくさんあるし、知りたくても知れないことは多い。説明がつきすぎるエンターテイメントはつまらないと思うが、少なくとも作者や監督の中には合理性があるという前提だと推測する。答えはあるが、表現上、提示されていない、は受け入れられるが、怪談話はそうではない。落ちないことが、落ちなんだろう。

 そういうわけで、怪談を楽しむ人の気持ちがわからなければ、怪談の本質はつかめないような気がしていた。けれど、面白いと怖いは本質的には親しい位置にあるのかもしれないと思い始めた。

まあ、親しいということは、違うということでもあり、その小さな違いこそが大きな違いでもあると言えるんだけれど。

 

江戸落語は、鬱屈した気分を晴らしたい男たちのためにあったと番組では説明されていた。急速に発展していく江戸という街には、建設業に関わる男たちが多かったらしい。

東西の芸事の違いというのは、テレビやラジオが普及してなかった頃の芸能を見ると、如実に現れている。その理由がずっとよくわからなくて納得できなかった。けれど、男女比の偏りがあったという説を聞いた時、今までで一番腑に落ちた。

上方では長男以外の男手は必要とされず、女が多かったという資料もあるらしい。上方歌舞伎では、「つっころばし」や「ぴんとこな」と呼ばれる色男ながら頼りのないボンボンのキャラクターの型があるが、冷静に考えて、こんなキャラクターを好きになる男はそう多くない。観客は女だったと考える方が自然だ。

逆に、荒事と呼ばれる弁慶だとか、力強そうな武士たちは、男が好きそうな男だ。

落語の観客にも、こういった違いがあったと考えるのが自然だろう。

 

 

 話がずいぶんそれてしまった。

 

結局のところ、私自身が「いかがわしいもの」が好きすぎるがゆえに、勧善懲悪の荒事や、社会風刺を目的とした落語という芸を好きになれないんだろう。

 

けれど、圓朝の怪談話は「いかがわしいもの」の匂いがした。

だから、私は興味を持って見ることができたんだろう。

 

人間の欲望というものは、なぜこんなに魅力的なんだろうか。

 

 

三遊亭円朝と江戸落語 (人をあるく)

三遊亭円朝と江戸落語 (人をあるく)

 
三遊亭圓朝の明治 (朝日文庫)

三遊亭圓朝の明治 (朝日文庫)

 

 

 

アキラとあきら


アキラとあきら - WOWOW連続ドラマW特別映像

 

シネフィルイマジカがWOWOWになってから、WOWOWドラマがよく放送されるようになった。

テレビ好きならWOWOWに加入するべきだと思いつつ、どうにも加入する気になれない私にとって、連続ドラマWの一挙放送は本当にありがたい。「アキラとあきら」は3週間にわたって、3話ずつ放送されているのを視聴した。

 

いや~おもしろかった!

TBSの池井戸作品ほど、やりすぎていない演出がよかった。主演の二人、斎藤工向井理のスーツ姿がかっこいい。ちゃんとバブル期っぽい髪型とダサめのスーツなのに、しっかりかっこよく着こなしているのも良かった。高身長の二人なので、スーツが本当によく似合っていた。

自分のフェチなのかわからないけど、カッターシャツとスーツの襟元ばっかり目がいってしまった。とにかく襟がでかい。でもそれが心地よい。あの襟元は見事だった。

脇役の皆さんも豪華で、鶴見辰吾がチラッと出てきたり、ラスト近くで上川隆也がスッと出てきたり。えーっ!これだけのシーンでいいの!?と勝手にこっちが心配してしまった。この贅沢な配役、WOWOWドラマならでは。

石丸幹二がいて、利重剛がいて、羽場裕一がいて、小泉孝太郎がいて、松重豊がいて、何を望むよ、それ以上って感じだ。

 

群像劇の良いところは、役者がたくさん見られるところと、それぞれのキャラクターがいい加減にならないところだ。

出番が少ししかなくても、それぞれのキャラクターに役割と背景があって、画面には映らないキャラクターの過去がチラ見えする俳優の佇まいに「あ~っ!!たまらんっ!!!」と思いながら見る喜びがある。

 

池井戸作品は各テレビ局でドラマ化されているけど、ガチ系の演出はWOWOW版がお金もかかってておもしろい。

TBS系は半沢直樹以外はどれもイマイチで、ほぼチェックしてるもののギャグドラマとしてしか楽しめない。

日テレの花咲舞や、テレ朝の民王のように、ギャグ路線と割り切ってる演出もかなり好きなだけに、中途半端なTBS演出がなんだかな~と思ってしまう。

半沢直樹の続編、どうなるのか。心配と期待が半々。

光 監督:河瀨直美


河瀬直美監督×永瀬正敏主演!映画『光』予告編

 

最近、邦画をチェックしていなかったなぁとしみじみ思いながら見ていた。

橋口亮輔監督や西川美和監督のような、純文学っぽい作風の邦画は、けっこう重いので、気力のある時にしか見ない。

20代の頃は、むしろそういう作風が好きで、「あ~ヒリヒリする~!」と思いながら見ていたのに、いったいどういうことなんだろう。歳を取るって、こんなことにも影響するのかと驚く。

最後に見たのは、濱口竜介監督の「寝ても覚めても」なので、かれこれ1年近く邦画は見ていなかったようだ。

 

そんなわけで、河瀨直美監督作品「光」。

河瀨直美監督の作品は、おそらく初めて。「萌の朱雀」は見たような気もするけどまったく覚えていない。

 

この「光」という作品は、映画の音声ガイドを作成する女性が主人公だ。目が見えない人に向けてのガイドを作っていくなかで、言葉を使って映像を伝えるという難しさや、感性の違い、言葉そのものへの言及などがあって、前半は見応えがあった。

冒頭、ヒロインが街行く人々に対して、心の中でガイドをつけていく。彼女が音声ガイドの練習をしているシーンだ。

次々に現れる人物の背格好や雰囲気、表情をせわしなく説明していく。そのシーンだけで、自分がいかに無自覚に映画を見ていたのかを自覚させられた。何の事前情報もなしに見たが、これほど引きのある冒頭も珍しい。俄然、興味がわいた。

 

目で見たものを見たままに感じることと、それを言語化することの間には、ずいぶんと隔たりがある。目で認識することや、そこから何かを感じることというのは、自分だけがわかっていればそれでいい。けれど、言語化は常に他者を想定したものだ。他者を想定するという作業には客観視が必要で、それはただ「感じている」だけではできない。

ヒロインの音声ガイド作成にも、その葛藤が現れている。ヒロインが一生懸命に作成した文章に対して、「主観が混じっている」「押し付けではないか」という注文がつくが、彼女はそれをうまく修正することができない。主観を消そうとすると、文章をまるごと削ることになってしまう。客観的であり、想像力をかきたてるような、まさにガイドのような文章がうまくつくれないでいる。

彼女がどのような文章を作り上げるのか、それがラストで明かされる。この大筋はとても良くて、そこだけで十分見応えがあった。

 

ただ、後半の恋愛物語の部分は、あまり共感できず、唐突に恋愛が始まる感じがしておもしろくなかった。時間を半分にして、音声ガイドの話だけで十分だったように思う。それはあまりに野暮な注文だろうか。

 

映像は、極端に寄りのシーンが多く、圧迫感があった。ほとんど引きの画がなく、擬似的に視覚障害を体感させる映像になっていて、アイデアがすごい。

映像の枠の外が見たい、全体像が見たいと、何度も何度も思わされた。でも見ることができない。このもどかしさ、もっといえば苦しさのようなものが、視覚が失われている感覚に近い。画面に映像を映しながらも、視覚の不自由さを見せるなんて、とんでもない発想だ。

 

私自身も、およそ3年ほど、視覚が不自由だった時期がある。半年ごとに片目の手術を行い、両方があまり見えない状態だった時期を、ほんの数ヶ月だが経験している。あの時のもどかしさや、不安感が蘇ってきて、映像を見ているだけで息苦しくなってしまった。

永瀬正敏演じるカメラマンが、徐々に視覚を失っていく時の視野の映像は、とてもリアルで、私もあんな風に視覚が極端に狭まったりしていた。そんな個人的事情もあって、身につまされる内容だった。

 

そういえば、「京都人の密かな愉しみ」などを撮影している源孝志監督も、去年「わたしだけのアイリス」という小説で、色彩が失われていくカメラマンを描いていた。

 

映画監督にとって、カメラは体の一部、目と同じようなものだからこそ、こういうモチーフが描きやすいのかと、勝手に推測している。

2019年7月のあれこれまとめ。

今月の読書。

・歌舞伎のびっくり満喫図鑑 君野倫子
・恋と歌舞伎と女の事情 仲野マリ
ちゃぶ台返しの歌舞伎入門 矢内賢二
・歌舞伎手帖 渡辺保

 

今月はあまり本が読めなかった。

近代文学のアンソロジー的な本も買ったけれど、まだ読めていない。

歌舞伎関連の本を、七月大歌舞伎の予習がてら読んだぐらいに終わった。

 

先月末に読み始めたマイケル・オンダーチェ著「映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話」は、なかなかのボリュームだったけれど、とても興味深い話が多かった。

映像編集者であり音響監督も兼任するウォルター・マーチの話だ。これまで映像編集者を、ただのフィルムカットする人だと思い込んでいた自分の認識が、どれほど間違っていたのか、この本を読んで驚かされた。

特に印象深いエピソードは、マーチが言及した「楽譜」の発明についてだ。音符や楽譜など、音を書き記す記号を手に入れたからこそ、音楽が発展していったという説。そこから、もしも映像を楽譜のように書き記すことができるようになれば、映像もまた飛躍的な発展を遂げるのではないか、と彼は言っていた。

映像を記号化する、という発想はとても不思議でおもしろい。私にはアイデアも浮かばないが、記号化・均一化されることで見えてくるものは多いのかもしれない。それはおそらく、概念の抽出や、形式の成立を意味するんだろう。

映像は、平面と時間という立体構造になっているので、人間の脳で映像そのものを扱うのには限界があるのだろう。簡略化された記号によって、時間だけ、平面の画像だけ、また両方をあわせた場合など、自由自在に行き来できる「楽譜」が存在すれば、いったいどんなものが生まれるのだろうか。想像するだけでワクワクするが、同時に脳みそもねじれそうだ。

 

今月の映画。

個別に感想を書こうと思って伸ばし伸ばしになっている作品がいくつかある。

中でも特に良かった作品が「Love, サイモン 17歳の告白」だ。

ゲイの高校生男子が、さまざまな要因でカミングアウトするまでを描く青春劇なのだが、ゲイをことさら珍しいことと捉えない脚本に、とても素晴らしいものを感じた。

これまでは、悲劇的な作品や、偉人の話、もしくはコメディで扱われるステレオタイプのゲイ描写が多く、どこか異世界のものとして描かれていたと思う。

けれど、この作品に登場するサイモンはごく普通の高校生男子だ。友達もいて、優しい家族に囲まれている。そんな彼の成長物語に、ゲイという要素が含まれている、という描き方だった。

青春映画であり、ラブコメでもある。数年後、また見返したくなる作品だった。

 

劇場に見に行った作品としては「天気の子」がある。

映像はキレイだが、映像ありきでストーリーを組み立てているため、筋に整合性はない。キャラクターの一貫性に関しては、最初から放棄しているのだろうし、そこを見せる気もさらさらない作品だと思う。

映画を見終わったあと、自分の何かが変わる、というのが大事だと思っているが、何がどう変わるか、というのは難しい問題だ。

主人公に都合の良い設定、主人公に都合の良い女子キャラクター、主人公に都合の良いエンディング。努力もせず泣きわめくだけで、成長したような気にさせる展開。

そういうものを見て、何を思うんだろうか。夢を見させる映画があってもいいが、幻想を増長させる映画があるのは、どうなんだろう。

エンターテイメントとは、嘘だらけだし、そこを批判するのは野暮だと思わなくもないが、どうにも胸がざわつく。

線引が難しいが、ラノベや漫画を批判しているわけではないし、エロゲや同人誌における幻想はアリだと思っている。そういう作品があることは大事なことだ。つまり、受け手がどういう気持ちで見ているか、ということが大事なんだと思う。作品が嘘だとか幻想だとか、はっきりとわかる状況で楽しむことはアリだと思う。

けれど、青春系アニメ映画、特にメジャー作品はその立ち位置が曖昧だ。萌えアニメ、しょせん絵だと割り切れない部分があると、個人的には感じている。

 

今月のドラマ。

ぶっちぎりでおもしろいのは「凪のお暇」だ。

黒木華主演、高橋一生中村倫也というタイプの違うイケメンの間で揺れ動くアラサー女子を描いているが、どのキャラクターも一筋縄ではいかない。

恋愛のすれ違いには、物語上の限界点があるが、キャラクターに二面性をもたせることで、素直になれない、不器用な恋愛を成立させてしまう設定に驚いた。

恋愛物語が成立しずらくなり、タイムスリップなどの不条理な条件を課すことで、恋愛のすれ違いを描かざるを得なくなった現代の物語で、それを使わずに、現実的な設定で不器用な状況に陥れるとは。見事だった。