好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

ミスターガラス(スプリット・アンブレイカブル)

<ネタバレしてます>

 

もともと、ヒーローには興味がなかった。

日本の少年漫画はもちろん、日本にもファンが多いと言われるアメコミにも興味がなかった。

私が小学生や中学生の頃にやっていた夕方のアメコミアニメは苦手だったし、ティム・バートン監督のバットマンシリーズも苦手だった。

だから、ヒーローモノには一生縁がないだろうと思っていた。

 

それが覆ったのが2000年公開、Mナイト・シャマラン監督の「アンブレイカブル」だった。

 

アンブレイカブル」はスリラーやサスペンスに見せかけた、アメコミヒーローの誕生物語だ。

物語の種類(ジャンル)が実は違っていた、というのがネタバレのオチなんだけれど、これが当時とても評判が悪かった。

少なくとも私の周辺で、この映画を好きだと言っている人はいなかった。

作中内で展開する物語のオチではなく、その外側、小説で言えば叙述トリックにも似た手法の騙し方を、おもしろいとは思えなかった人が多かったのだろう。

その意見はよくわかる。

そういう、どんでん返しが見たくて見ると、肩透かしをくらう人がいるのも想像がつく。

 

でも、私はどんなヒーローモノよりも、この「アンブレイカブル」が大好きだった。

それは、この物語が、<ヒーローがこの「現実に」存在したらどうなるだろうか>という思考実験を私に与えてくれたからだ。

かつてこれほど、現実的なヒーロー像を私に提供してくれた物語はなかった。映画でも漫画でも、異次元の力を持つヒーローは最初から存在を許されていた。

そこはスルーするのがお約束。特に語るべきところではなく、ヒーローが悪とどう戦うかに焦点が絞られていた。

 

でも、アンブレイカブルは、そういうヒーローの存在そのものを問う話になっている。

とにかく私にはこの物語が新鮮に映り、大好きになった。

 

そこから5年後。

アメコミ映画の金字塔とも言える最高傑作、クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズが始まる。

ノーラン監督のバットマンシリーズは本当に素晴らしいと思うし、私も大好きなんだけれど、アメコミ映画というジャンルに「現実感」という最高のスパイスを持ち込んだのは、「アンブレイカブル」なんじゃないかとずっと思っている。

アンブレイカブル」がなければ、ノーラン監督のバットマンもなく、X-MENのリブートもなかったんじゃないか、そんなふうにさえ思う。

 

次元が変わる、とはまさにこのことで、これまで荒唐無稽で非現実的な演出だったアメコミというジャンルを一変させてしまい、ここまでの市場規模に拡大させたのは「アンブレイカブル」なくして、ありえなかったと思う。

 

ノーラン監督のバットマンにおける現実感と、シャマラン監督の現実感は似ているようで、違う。

 

ノーラン監督は、ゴッサムシティという架空の犯罪都市が「現実にあったとしたらどうだろうか?」という点に、徹底的なリアリズムを持ち込んだ。

街に住む人々の感情や、行動原理、映像的にももちろん、重力を無視しない演出だとか、爆破できっちり建物が壊れるところなどもそうだ。そして、ブルースの使う車や武器などにもリアリティが宿っている。善悪という哲学的なテーマで主人公が苦悩する姿も素晴らしかった。アメコミの演出を最大限、リアルにしたらノーラン監督のような映画になると思う。

 

でも、シャマラン監督は違う。

彼の作品は、どこまでいっても「現実にヒーローを持ち込む」という姿勢だ。私達が住む「現実の世界」に「ヒーローがいたら」というラインを絶対に崩さない。これはすごいことだ。

なぜなら、現実の物語には制約が大量に含まれてしまうから。

 

異能の者を描く時、その根拠を宇宙人説や、とにかく不思議な力として片付けてしまうのは簡単だ。そこにはそれ以上の理由は必要ない。そういうものだと言ってしまえば、とりあえず脚本上の問題はなくなる。

けれど、それにどこまで「現実的な」説明を付け加えるか、その一点に腐心した作品が、シャマラン監督のこのシリーズなんだろう。

それは、あたかも、別の現実を作り出す作業のようだ。

別の空想を作り出すことは簡単だが、別の現実を作り出すことはとても難しい。現実とは、誰もが「納得しうる」ものでないとダメだからだ。

 

たとえば、ヒーローが活動すれば、それにともなって傷つく人々がおり、世界が変容してしまう。それをすべて考慮しながら、現実に落とし込むには、脚本上の制約があまりに多すぎる。

それなのに。

 

それなのにだ!!!!

 

ミスターガラスがおもしろいんだから、度肝を抜かれた。

 

展開も、最大限にどんでん返しを加えていたと思う。たぶん、この制約の中でできる最上の脚本だと思う。

物語をおもしろくするために、びっくりするような展開を付け加えることはできるだろう。でも、シャマラン監督には「現実のヒーロー」を描くというとんでもない制約がある。

だから、物語は自由に動かすことはできない。自由に動かせば、これまで積み上げてきたリアリティが無に帰してしまう。そういう中で、この脚本を書き上げることは並大抵のことではない。物語は、ある意味、当然の帰結とも言える展開で幕を閉じる。

それなのに、1秒たりとも目が離せないのだから、すごすぎる。

 

演出面でもいろいろな工夫はあった。

個人的に気に入っているのは、惨殺シーンが引きのカットで撮られているところだ。

ビーストが暴れまわり、警察官を食い殺すシーンも、遠くの映像でしか映らない。映画の演出上、寄りのカメラで撮影して、臨場感を出すことは簡単にできる。ビーストが迫ってくる画面を見せれば、びっくりするし、簡単に怖がらせることができるだろう。

でも、現実に目の前で事件が起こった時、当事者以外の人間には、それがまるで「映画のワンシーンのように遠くの出来事」に映ることの方が「現実感」があるのだと思う。

何かの異変があった時、その場にいる当事者は、その全貌を目撃することは絶対にできない。切り取られた現実しか、私達は見ることができない。

その「映画みたいな映像」こそが「現実的」であり、そんな簡単に残虐なことが起こることこそが「恐怖」だと思うのだ。

 

ただし、ビーストが傷つくシーンは寄りのシーンで、鮮明な赤い血が映り込む。これは、ビーストの現実を映した映画なのだというメッセージなんだろう。

 

それから、いかにも壊れそうな「オオサカタワー」という名称。もう、すっかり騙された。絶対に壊れると思って疑わなかった。

そんなふざけた名前のタワーは壊れされるから、こんな名前なんだろうな、アメリカ人は日本のこと、それぐらいの知識しかないよね、なんてめちゃくちゃ舐めた見方をしていた。

それなのに、壊れない。マジか。壊れないのか!?

オオサカタワーをフェイクに使うというセンスがやばすぎた。

かくして、フィラデルフィアにオオサカタワーなる塔が爆誕してしまうという、アホみたいな話とヒーロー物語のギャップがいい。

 

そして、最終決戦の場が、オオサカタワーではなく病院の庭先だというのもとても良かった。ダンは小さな水たまりで溺れ死ぬ。なんて、映像的に矮小な終わり方だろうか。

でも、そこがシャマラン監督がこだわる「現実感」のような気がした。

 

映画はとても不思議なもので、大きな世界を描けば描くほど、世界は小さく感じられていく。

でも、小さな一コマを描くと、なぜか世界は大きな広がりを見せる。

世界とは、私たち人間が感知できるほど小さくはないのだろう。私はそう思っている。

カメラに収まるぐらいの世界には、世界のリアリティはない。

 

だから、病院の庭先の小さな水たまりで、無敵のヒーローが溺れ死ぬなんて世界、どんなに広いんだろうと実感せざるを得ない。

無限の広がりを感じさせる終わり方だったと思う。

悪の側が強くなければ、物語はどんどん矮小になっていく。だからヒーローモノでは、悪は強くなければならない。強さのインフレを起こさないための工夫が素晴らしいと思う。

 

映画としてのおもしろさを問われれば、見る人を選ぶ映画だと思うし、多くの人がおもしろがれる話ではないだろう。

けれど、こんな話を作ろうとしてくれる監督は、この世にそんなに多くない。

シャマラン監督が、この誇大妄想を映画にしてくれて、私は本当に嬉しくてたまらない。

 

 

アンブレイカブル(字幕版)

アンブレイカブル(字幕版)

 

 

スプリット (字幕版)

スプリット (字幕版)

 

 

ミスター・ガラス (字幕版)

ミスター・ガラス (字幕版)