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映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

戯曲 番町皿屋敷 岡本綺堂 平成31年1月公演

え!? こんな話だったの…!? と、見ながら驚いた。

 

衛星劇場で放送された歌舞伎「番町皿屋敷」。

今年の1月に上演された舞台の放送。

 

皿屋敷といえば、井戸からお菊さんが出てきて「1ま~い、2ま~い…」と数えていくアレ。

お菊さんの幽霊シーンがあるのかな? と思いながら見ていたら、怪談話じゃなくて、悲恋のラブストーリーになっていてびっくりした。

 

作者は岡本綺堂で、大正5年の作品。

お菊さんの話は江戸時代の話だから、現代的な物語に書き直されたのだと理解した。

 

皿屋敷の話を聞いた時、皿ごときで女中を殺すから恨まれるんだな、と勝手に思っていた。

でも、この番町皿屋敷では、お菊さんの気持ちもよくわかるし、主人である青山播磨がお菊さんを殺した気持ちもよく理解できる。

 

あらすじはこんな感じ。

女中のお菊は、主人である青山播磨とこっそり付き合っていた。でも播磨に縁談話が持ち上がって、ヤキモキしていた。

縁談は断る、愛しているのはおまえだけだと言われたお菊だったけれど、播磨を信じることができずにいた。

そこで、家宝の皿(割ったら死罪になるほど大事なお皿)をわざと1枚割って、播磨の気持ちを確かめようとしてしまう。本当に自分を好きでいてくれたら、皿1枚で死罪になんてしないだろうと考えた。

お菊は「うっかり」割ってしまったと嘘をつき、播磨は「仕方がない」とお菊を許す。けれど、お菊がわざと割ったことがバレてしまい、播磨はお菊を問い詰めた。

お菊の試し行動だとわかった播磨は、顔色を一変させて、皿が割れたぐらいで命は奪わないが、自分の真実の愛の言葉を疑った罪は重いと、刀に手をかける。

家来の仲裁も虚しく、播磨はお菊を斬り殺し井戸に投げ捨て、自分自身も自暴自棄になりながら、家を飛び出していく。

というお話。

 

これなら、確かに筋が通るというか、播磨がお菊を殺す理由がよくわかった。

家宝の皿を割られたことで怒ったのではなく、自分の言葉を信じてもらえなかった怒り、しかもそれを家宝の皿を割って確かめるという愚行に対して怒ったのだとしたら、納得の理由だと思う。

 

一方のお菊の気持ちもよく理解できる。理解できすぎるほどに理解できるから苦しいところ。

身分違いの男が、本当に女中の自分なんかと結婚してくれるのか、たとえ播磨が何と言おうとも、まわりが許さないんじゃないだろうか、と考えるのは自然なこと。

お菊はきっと播磨が信じられなかったのではなく、自分を信じることができなかったんだろう。自分なんかが…、という気持ちは、恋愛をしているとよく起こる心理で、実は相手がどうであろうと関係なかったりする。言葉で何を言われても、お菊はただただ不安で仕方がない。相手の本当の気持ちは、どうやってもわからない。わからないものを追いかけてしまうと、どツボにハマる。不安なお菊には、解消する手段がないのだから。

お菊が皿を手にして葛藤している姿は、見ているこっちもハラハラした。なにせ殺されるのを知っているもんだから、「あかん、割ったらあかん!お菊さん!」と思いながら見てしまう。

お菊が皿を割った瞬間、家政婦は見たばりに後ろで目撃する別の女中!

アアー!!!!バレとる!!!!

それなのに、お菊が「うっかり」割ったことを播磨に伝えた時の、播磨の優しい対応がたまらない。

お菊のことが本当に好きで、「おまえの母親を屋敷に呼び寄せて、結婚の許しをもらおうか~♪」なんて話しているんだから。

 

そこから、お菊の試し行動がバレて、播磨が静かに怒り狂うシーンもとても良かった。お菊に残りの皿を畳に置かせ、「数を数えろ」と命じる。お菊が震えた声で「1枚…」と言うと、播磨がその皿を刀の柄で割っていく。2枚、3枚と、声が出せないほど怯えたお菊に向かって、家宝の皿をバンバン割っていく播磨。

皿なんぞ惜しくもなんともない。こんなものはただの皿じゃ!と言わんばかりの播磨。それだって大切な家宝の皿なのだから、播磨の男っぷりがすごい。

そんな家宝の皿よりも大事なもの、それが青山播磨という男の真実の言葉である、という強い信念が伝わってくる。

 

これは大げさな話だと思うけれど、こういうすれ違いは恋愛によくあるすれ違いな気がする。

信用や信頼というものが、愛情より上回る男性(あえて男性と言わせてもらうけれど、女性でもそういう人はいる)は多くて、そこを傷つけられるともう後戻りできない、というのはめちゃくちゃリアルな話だなと思う。

まして侍。

他の女に目もくれず、女中の恋人を嫁にしようと思っていたのに、それを信じてもらえなかった悔しさは計り知れない。

 

お菊の気持ちも、播磨の気持ちもよくわかる。よくわかるからこそ、どうしようもない。どうしようもないから、悲劇になるという、なんという理屈の通った話だろうか。

 

まさか皿屋敷がこんな話になっているなんて!と驚いた。

でも、これは怪談話である皿屋敷を、岡本綺堂が筋の通ったラブストーリーに変換したからこうなったんだろう。とても現代的な話で、びっくりした。

 

ただ、この終わり方だと皿屋敷は「怪談話」にはならない。

なぜなら、お菊さんは自分が死ぬことを「恨んで」はいないからだ。納得して殺されたので、井戸から湧き出てきて「うらめしや~」と言う必然性がなくなってしまう。

 

皿屋敷は各地に色々なバージョンがあるらしいので、また見る機会があったら怪談話も含めて見てみたい。

 

とりあえず、途中で放置していた京極夏彦の「数えずの井戸」をちゃんと読もうと思う。

 

 

番町皿屋敷

番町皿屋敷

 

 

数えずの井戸 (角川文庫)

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