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ミュージカルはなぜ歌い踊るのか <シー・ラブズ・ミー 松竹ブロードウェイシネマ>

 松竹ブロードウェイシネマという企画で、「シー・ラブズ・ミー(She Loves Me)」という舞台映像を見てきた。

 


映画『松竹ブロードウェイシネマ 「シー・ラヴズ・ミー」』予告

 

ブロードウェイで上演された舞台を映画館で見られるという企画だ。料金は3000円で、公開期間は1週間。しかも昼1回しか上映しないうえに、東京・大阪・名古屋でのみ公開。公式サイトはフェイスブックのページのみという、なかなか縛りの多い興行だった。

それでも、ミュージカル映画に目がない私は、ずいぶん前から絶対に行こうと思っていた。かつて、ムーラン・ルージュを映画館で見ずにDVDで見てしまい、大変後悔したことがあったからだ。

 

結論から言うと、シー・ラブズ・ミーには満足できなかった。その理由が何なのか、帰り道でずっと考えていた。色々と要因はあるんだろうけど、その理由を言語化することで、自分がミュージカル映画の何を好きなのか、明らかにしていきたい。

 

まず、私が好きなミュージカル・およびミュージカル映画を箇条書きにしておく。

日本で公演されたものは、舞台もほぼ見ているが、基本的には"ミュージカル映画”が好きな映画オタクである。

 

 

▼舞台

クレイジー・フォー・ユー(作曲:ジョージ・ガーシュウィン

▼映画

・ウエストサイドストーリー(作曲:レナード・バーンスタイン

ジーザス・クライスト・スーパースター(作曲:アンドリュー・ロイド・ウェバー

コーラスライン(作曲:マーヴィン・ハムリッシュ

ムーラン・ルージュ(監督:バズ・ラーマン

・シカゴ(作曲:ボブ・フォッシー

 

 

 

まず、一番目の問題点は、ミュージカルそのものの話ではない。

音響設計の話だ。

 

舞台ミュージカルでは、いつの頃からかピンマイクを使うことが一般的になった。マイクを通した声が嫌になり、舞台に熱心に通わなくなったことを覚えている。それなら家でCDを聞くのと変わらないじゃないか、と当時思っていた。

けれど、私はマイクを通した声そのものが嫌いなわけではなかった。例えば、クラブ音楽で多様される加工された声や、いわゆるオートチューンのかかった音声は大好きだ。蓄音機から漏れ出たような歪んだ声も好きだし、拡声器を使って歌われる歌声も好きだ。どちらかと言えば、機械的な音や加工された声は好きな方なのだ。

ただ、それを舞台空間で聞くことがどうしても耐えられなかった。なぜなら、舞台演劇でピンマイクを使うことは、音声を均一化してしまうことになるからだ。

 

人は音から方向を予測する。本来、自分の正面の舞台から声がするはずなのに、スピーカーから声がすると、役者の立ち位置とのズレが出てしまう。それが違和感になる。

役者が、舞台中央にいる時と、舞台端にいる時では、声は違って聞こえる。もっと言えば、役者が前を向いているか、横を向いているかでさえ声の響き方は変わる。

しかし、ピンマイクを使用すると、それらすべてが均一化されてしまい、方向性が失われてしまう。声を発しているはずの役者の声が、その人物の声に聞こえなくなり、まるで別人の吹き替えを聞かされているような錯覚が起こる。

さらに、音量の均一化も起こる。ミュージカルに限らず、オペラやオーケストラなどの舞台表現にはつきものだと思うが、小さな音と大きな音の差が激しく、広範囲に渡っているため、マイク調整(スピーカー調整)がとても難しい。そのため、ささやくような声と大声で歌い上げるシーンとのバランスをとるため、音量の調節がされてしまう。

小さい声は、はっきりと聞こえるほどクリアで大きくなる。しかし、その結果、大きな音が大きすぎたり、ささやきには聞こえない大きな声でしゃべっている変な人物になってしまう。

全体的に「大きくてクリアで平坦な音」が出来上がってくる。

 

歌手のコンサートなら、まだいい。

一人の歌手が歌う公演ならば、それほど距離感の把握は必要ではないだろう。でも、舞台演劇の場合は、各人の位置は重要である。生音・生演奏の信者ではない私が、舞台演劇においてだけは、どうしてもマイク音声を受け付けないのはこの点にある。

 

舞台ミュージカルでこの現象が起こるようになってから、ミュージカル映画にも逆輸入的に音響問題が発生してくる。

吹き替えによる音声加工の問題だ。

もちろん、吹き替えは昔からある手法で、ウエストサイドストーリーなどは主演の二人の歌声は別人による歌唱だ。

それでも、私はあの映画を愛しているし、吹き替えも素晴らしかったと思っている。だから吹き替えが悪いのではない。その設計に問題があると思っている。

 

2017年版「美女と野獣」の実写映画を見た時、エマ・ワトソンの歌声の違和感がぬぐえず、全編見ることができなかった。

映画なので、音声は後から重ねているのは明白だ。本人による吹き替え歌唱なのだが、音声加工の違和感がすごかった。

人間の歌い方ではありえない声の伸び方をするのだ。そのうえ、息つぎの音はなく、一切の雑音がない。音量も均一で、ハイトーンボイスで確実に音を突いていく。そんなことはありえない。超人的すぎる。

 

私は音声加工ソフトについては素人なので、何を使ってどうなったかはわからないが、おそらくオートチューン的な、音程をあわせるソフトも使っているんだろう。そのせいで、響きが機械的にぴったり重なっているのも気持ち悪かった。

音程は正しい。けれど、音量が正しくない。予備運動なしでいきなりトップスピードに達するような、妙な具合になっていた。

 

美女と野獣だけではない。最近のミュージカル映画の多くは、歌パートの音量が大きすぎで、そこだけ浮いてしまっている気がしてならない。

その始まりは、私が大好きな「ムーラン・ルージュ(2001年公開)」にあるとも言えるので苦しい問題だが、あの頃はまだ音声加工技術も進化していなかったので、ベストテイクを録る、つなぎ合わせるというぐらいに落ち着いていたのだろう。楽曲もロックやポップスなど、広く一般に親しまれている音楽を使っていた点も、違和感を少なくさせていた。

 

そんな状況下の中で、私がミュージカル映画ではなく、舞台ミュージカルの映像化に何を期待していたか、ということだ。

 

シー・ラブズ・ミーは、舞台ミュージカルだ。舞台を撮影し、それを映画館で流すという試みで、私はとても期待していた。映画ではなく舞台である意味は、やはり音響設定にあると思っていたからだ。

けれど、この公演の音声は、非常に大きくてクリアで平坦な音にされていた。

冒頭から音声が大きい。その大きさは、叫び声をあげているかのようだった。映画館そのものの音響もあるだろう。だから舞台か上映映画館、どちらの問題かはわからないが、観客の笑い声などが妙に鮮明に入り込んでいたので、もともとの映像作品となった時点で、かなり音声に手が加えられていたのではないかと予想している。

観客の声がそこまで拾えるなら、舞台での役者の靴音や衣擦れの音が入らなければおかしいと思うのだ。そして、そういうものが入り込むことが生っぽさじゃないのかと思う。

 

せっかくの舞台公演の上映なら、そういう方向性で音声を加工しなくてもよかったのにと思ってしまう。聞き取りにくい箇所があったとしても、全体の位置関係がわかるような集音の仕方が合うんじゃないかと思う。

舞台公演は、座席数の関係で儲からないという問題があるんだけれど、こういう劇場上映やライブビューイングは、小さな(音響的に最適な)劇場で公演し、しっかりと売上げを回収できるビジネスモデルなので、とても期待している。だからこそ、舞台の音響を全体的な集音にして欲しいと思ってしまう。

もともと、アメリカのブロードウェイチャンネルでの配信が目的の映像作品だそうなので、そちらの方針がこういったクリアで大きな音を流していくということなんだろう。重ね重ね残念でならない。

 

 

次に、シー・ラブズ・ミー本編について。

 

ここから、ようやく本題の<ミュージカルはなぜ歌い踊るのか>という話をしたい。

 

シー・ラブズ・ミーの世界観はとても可愛い。

いわゆるロマンティックコメディに分類される、男女のすれ違いを描いた恋愛喜劇だ。

衣装も舞台装置もとにかく可愛くて、最高だったと思う。特に、舞台装置の工夫が素晴らしく、メイン舞台となる香水店の中と外を表現するために、書き割りがくるくると回転する。書き割りの回転というアイデア自体はそれほど珍しくないが、3つの書き割りの回転、舞台を分割してしまうという大胆さ、そして大胆さを覆い隠すようなドールハウス的可愛さによって、不思議な空間が出来上がっていた。この舞台装置の愛らしさが、物語の愛らしさとリンクしていて、考え抜かれた素敵な仕掛けだった。

物語は単純な話だ。けれど、その単純さが可愛さでもあり、ハッピーエンドを予感させるものでもある。

 

問題はここからで、この物語、果たしてミュージカルである意味があったのだろうか?という点だ。

トム・ハンクスメグ・ライアン共演の映画「ユー・ガット・メール」の原作という点で考えても、歌や踊りがなくても成立するのは明らかだ。そもそも、本作では踊りのシーンはほぼない。歌うシーンはあるけれど、踊りらしい踊りはない。

 

ロマンティックコメディが大好き。

ミュージカルも大好き。

そんな自分が、なぜこの舞台にときめかないのか。

 

 

そこまで考えて、ミュージカルにおける歌や踊りのシーンとは何なのか、私は初めて真剣に考えてみようと思った。

 

 少し話は逸れるが、私はデフォルメされた絵がとても好きだ。

漫画文化に慣れ親しんできた影響も多いにあるだろうが、中でもデフォルメ絵に目がない。企業のロゴマーク的なものも好きだし、線数が少ない絵がとても好きだ。

たとえば、藤子不二雄の絵だったり、長谷川町子の絵が好きだ。現代漫画家でも好きな人は多いが、大ゴマ化や写実的な絵にはあまり魅力を感じていない。

たった一本の直線や曲線が、何かを意味している、という状態が好きなんだろう。パターンや家紋、文様、漢字やフォントにいたるまで、とにかくデフォルメされた記号的な何かがとても好きだ。

 

なぜこんなにデフォルメに「萌える」のか。

それは、デフォルメが「意味」の「濃縮」だからだ。

 

 一本の線は、本来一本の線でしかない。

円もただの円で、そこに意味はないはずだ。

 

けれど、描き手はそこに意味を込めるし、読み手はそこから意味を感じ取る。普段、何気なく行っている行為だけれど、これは文化的な何かを共有していないと成り立たない行為だ。

たとえば卍マークは、どこで目にするかによって意味が変わる。

地図上で見ればお寺のマークだし、ネット上で見れば若い人の文章なのだろうと推測される。そして、ドイツでは禁止されているマークとなる。

同じ記号であるはずなのに、すべて意味が異なっている。

 

文字なども当然そうだ。

複数の直線と曲線の組み合わせで、我々は相手の話や思考を知ることができる。それがどれほどの精度かはさておき、コミュニケーションの手段として有効に使われている。

そこには、意味(や現象)の濃縮がある。太陽という文字を見て、私達は空に浮かぶ太陽や、誰かが描いた赤い太陽や、太陽に照らされた草花の輝きを頭に思い浮かべる。

たった2文字、「太陽」という文字からそれだけたくさんの映像や心象風景を思い浮かべる。人によっては、匂いや音、感覚を鮮明に呼び起こす人もいるかもしれない。

これが、デフォルメの濃縮効果だ。

 

ミュージカルにおける「音楽」とは、このデフォルメ効果があるのじゃないかという仮説を思いついた。

 

たとえば、ウエストサイドストーリーでは、2つの敵対するグループの抗争から物語はスタートする。

それぞれのグループ、ポーランドアメリカ人と、プエルトリコ系移民の若者たちの抗争なのだが、彼らがどんな歌を歌うのか、どんな曲で踊るのかで、彼らのバックボーンまで語っていく。

たくさんのセリフを要さなくても、彼らが何に不満を感じ、どういう状況に置かれているのかを、音楽を通してダイレクトに(感覚的に)伝えていく。

これは物語の「濃縮」ではないだろうか。

 

一見すると、短い時間、少ないセリフなのだが、情報量自体はとても多い。しかし、音楽にするこによって多いと感じさせない。言語を司る部位以外をフル活用させて大量の情報を伝えていく。

音楽と踊りが、それを可能にさせている。

 

ジーザス・クライスト・スーパースターもそうだ。イエス・キリストの生涯を描いた作品で、これを文字で読むのは大変なのだが、映像と音楽で語られると、かなりクリアに脳に入り込んでくる。

もし、ジーザス・クライスト・スーパースターがセリフ劇だったとしたら、私の興味は2時間保たない。

 

音楽には、情報量を詰め込むだけでなく、場面転換が劇的に行えるという利点もある。

しかも1曲ごとではない。やり方さえ合えば、1小節ごとに別人物の心情を切り替えていくことができる。さながら、漫画のコマ割りのように、複数の心情を受け手に混乱なく伝えることができる。

 

エストサイドストーリーでは、トゥナイトが五重奏で歌われる印象的なシーンがある。

 


ウエストサイド物語~トゥナイト五重唱(Tonight:Quintet)

 

わずか3分の間に、これだけの人物の状況と心情を的確に表現している楽曲なのだが、それが音楽的に成立していることがすごい。

戦いに挑むための「今夜」

恋人との逢瀬を待ち望む「今夜」

幸せな未来を夢見ている「今夜」

それぞれの思い描く今夜は違うというのに、そのすべてが「トゥナイト」という一言に集約されていく。

 

セリフ劇でこの情報量を3分に落とし込むことはできない。

 

この濃縮があるからこそ、名作のミュージカルナンバーというのは、それ単体でも長く愛されるのだと思う。

どこにでも当てはまる曲ではなく、そのシーン、その状況にしか当てはまらない曲だからこそ、普遍性がある。この1曲を聞くだけで、物語の中に引きずり込まれる快感が、ミュージカルナンバーにはある。

 

ジーザスやウエストサイドのような、ハードな内容のミュージカルとラブコメであるシー・ラブズ・ミーを比べるのは酷な話だろうか。

 

では、ラブコメの王道、クレイジー・フォー・ユーはどうだろうか。

 

こちらも物語としては、それほど複雑ではない。誤解が誤解を生み、男女がすれ違う喜劇だ。

けれど、この話には劇場再建というテーマや、音楽を通じて生きる喜びを見出すという複雑なモチーフが隠されている。

男女のラブコメは、メインではあるものの物語の一部なのだ。

 

つまり、ミュージカル作品とは、情報量を多く伝えることができるため、情報量が多くない脚本にしてしまうと、中身がすっからかんになってしまうという難しさがあるのだと気がついた。

 

シー・ラブズ・ミーの歌は、登場人物の心情をただ歌うだけだ。しかし、それはもうわかっている。キャラクターの表情や状況だけで、誰かのことを「想っている」というのは十分伝わっている。

そうじゃない別の顔、別の切り口で思いを伝えてくれれば、こちらも飽きずに見ることができたのだが、歌のシーンがただの説明と繰り返しになっているのだ。

キャラクター性による楽曲の変化も乏しい。統一感があるといえば聞こえはいいが、すべてが同じ曲調であるのも残念だ。

カフェのシーンでようやく踊りと別の曲調が出てきたのだが、物語が1時間以上経過した頃だった。

 

世界観にひたるという意味では、繰り返しの楽曲もいいのかもしれない。この物語には、合っていると言えばそうなのかもしれない。

すべては好みの問題で、自分が濃縮されたミュージカル表現が好きだということなのかもしれない。

 

 ただ、やはり説明には緩急が必要だし、暗いものと明るいものが隣り合わせの方が、双方が輝くと思うのだ。

この物語が可愛い物語なのは間違いない。でも、その可愛さだけしかない世界は、可愛いさを体感できる世界ではないのだと思った。

 

 

She Loves Me (2016 Broadway Cast Recording)

She Loves Me (2016 Broadway Cast Recording)