好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

七月大歌舞伎・大阪松竹座/渡海屋・大物浦ほか(2019年7月27日千穐楽)

去年の松竹座観劇から1年。今年も七月大歌舞伎を見に行った。

チケットも高額なので、今年は昼公演だけにしようと思っていた。けれど、千穐楽の夜の部に澤村藤十郎さんがご出演されると聞きつけ、急遽夜の部のチケットも取った。

 

澤村藤十郎さんといえば、やっぱり古畑任三郎だ。

私は澤村藤十郎さんの歌舞伎は見たことがなかったけれど、古畑任三郎の「動機の鑑定」は何度も何度も繰り返し見た。古畑任三郎のエピソードの中で1、2を争うほど好きな話だ。

一番印象に残っているのは、この話の大オチ。物の価値とは何なのか、ということを叩きつけられたこと。次に、骨董品という世界のおもしろさがあり、それを体現する澤村藤十郎さんの佇まいに惚れ惚れした。(ちなみに、この影響から北森鴻の冬狐堂シリーズや細野不二彦ギャラリーフェイクにハマっていったりする)

悪徳骨董業者の春峯堂主人は、悪いことばかりしているくせに、骨董品を見分ける目は確かだ、というキャラクターの説得力が澤村藤十郎には備わっていた。

思い返すと、堺正章の「動く死体」で狐忠信を知り、「若旦那の犯罪」で市川染五郎にどハマりし、「王様のレストラン」「バイマイセルフ」で松本幸四郎にハマった。私が歌舞伎好きになったのは確実に三谷幸喜のプレゼンの影響だ。

「動く死体」では舞台装置のすっぽんがトリックに使われているが、その影響で、私はずっと、歌舞伎ではすっぽんが頻繁に使用されると思い込んでいた。けれど実際は、狐や妖怪、人でないものが登場する時にしか使われず、なかなか生ですっぽんからの登場シーンを見ることがなかった。

そんな中で、今年の七月大歌舞伎では、中村時蔵が演じる葛の葉姫(実は狐)がすっぽんから登場することろを見ることができた。なんとも古畑任三郎に縁を感じる1日になった。

 

昼の部は、「色気噺お伊勢帰り」「厳島招檜扇」「義経千本桜 渡海屋・大物浦」の3本。

 

「色気噺お伊勢帰り」は、藤山寛美主演で作られた松竹新喜劇が元ネタだそう。歌舞伎の演目にしてはとても軽妙で笑いの多い構成だった。明るい話で、長屋のドタバタ喜劇。題材はとても好きだ。けれど、演出が苦手だった。いわゆる、笑いどころを提示したり、登場人物が笑わせようと行動する演出を笑えない自分がいる。

基本的には、藤山寛美がおいしくなる演出が前提にあるせいだろう。主役のキャラクターが一番くどかったのが残念だった。笑われるキャラクターと笑わせるキャラクターは違うと思うが、漫才ではなくお芝居の笑いでは、笑わせているとキャラクター自身がメタ認知しているようなものは白けてしまう。

登場人物が真剣に行動した結果、見ている側が勝手に笑ってしまう、そういう喜劇が好きなので、あまり心から楽しめなかった。

もちろん、観客の年齢層から考えて、わかりやすさも大事だと思うので、この演出が間違っているとは思わない。この判断はとても難しいところだと思う。現状、お笑い芸人が演じるコントであっても、登場人物のメタ認知に配慮している演出は非常に少ない。個人的には、笑っていいのかわからないラインが一番好きだが、それは攻撃性に転じてしまう。真面目な人を笑うことに他ならないため、多くの人には受け入れられない。笑いとわかりやすさの難しい関係性を、こんなところでも思わず考えてしまった。

 

けれど、中村芝翫の大工はかっこよかった。こういう世話物というか、日常っぽい役をやっている時の中村芝翫、大好きだ。しゃべっているのをずっと聞いていたくなるほど心地よい。

そういえば、私の初歌舞伎観劇は中村芝翫(当時の橋之助)だった、と思われる。というのも、当時、私は高校生で、歌舞伎には興味がなかった。ほとんど眠っていたので、今となっては何の演目だったのかも思い出せない。

ところが、その公演で、同級生の男子が面白半分、度胸試し半分で大向うのマネをして「成駒屋!」と叫んだのだ。もともとリズム感の良い男の子だったこともあり(現在彼は音楽家になっている)、成駒屋という掛け声が演目の邪魔をすることなく、バシッ!と決まったのだ。肝が冷えるとはこのことで、見ているこっちが冷や汗をかいた出来事だった。

その時、成駒屋というフレーズが頭の中にこびりついて耳から離れなくなった。私は今でも「成駒屋!」の声を聴くと、彼の度胸と、中座の三階席を思い出す。あの時、男の子が声をかけた先には、チャキチャキした江戸っ子のような人物がいたような気がしていて、あれは中村芝翫だったんじゃないかなあと思っている。

 

二幕目、三幕目は時代物で、源氏と平家のお話だった。

時代物は苦手で、どうしてもお芝居に入り込めない。けれど、片岡仁左衛門の碇知盛。見ないわけにはいかない気がした。

結果的に、演技はすごいと感じたけれど、話がどうしても納得できなくて、私にはまだ早い演目だと思った。

この碇知盛について、あーだこーだ言えるほどの知識も見識もないので、感想を書くのもおこがましい気がした。ただ、妙な意地で、おもしろいと思ってないものをおもしろいと言うのも違うと感じる。だからこの演目の感想は保留。

劇場では、壮絶な知盛の最後に、涙する人もいた。正直な感想としては「マジで泣くの? なんで??」だ。

いつか、自分がこのお芝居の良さやおもしろみがわかった時に、もう一度考えてみたい。

 

夜の部は、「芦屋道満大内鏡・葛の葉」「弥栄芝居賑」「上州土産百両首」の3本。

 

芦屋道満大内鏡・葛の葉」は安倍晴明の出生がモチーフになったお話。陰陽師安倍晴明、狐の妖怪。こういうの、大好きだ。

昔の人にとって、安倍晴明というキャラクターは、前日譚が作られるほどメジャーな存在だったんだろうか。それとも、浄瑠璃や歌舞伎で演じられるからこそ、メジャーな存在となっていったんだろうか。

晴明の母親が狐だという話は、どこかでチラッと聞いたことがあったけれど、こんな風に江戸時代に戯曲化されて、さらに現在でも歌舞伎で上演されているとは知らなかった。

晴明の母親、葛の葉姫(狐)を中村時蔵が演じていた。本物の姫と、狐が化けた姫、二役の早変わりが見どころのひとつ。それは事前の予習で理解していた。けれど、一番の見せ場は、障子に歌を書くシーンだった。

舞台に4枚の障子が設置され、そこに葛の葉姫がお芝居をしながら、筆で和歌を書いていくのだ。

「え……本当に、今書くの!?」と驚いた。

途中、子どもをあやしながら、左手に持ち替えながら、そして最後には両手で子どもを抱え、筆を口にくわえて歌を書き終わる。

なんだか見ているだけでドキドキした。このドキドキ感は一体何なんだろうと不思議に思った。ライブ感、生感、今そこで行われている、そういう演出は色々とあるけれど、「筆で字を書くこと」は妙に刺激的だった。

 

続く二幕目は「弥栄芝居賑」。

芝居仕立ての口上で、役者が一堂に会して挨拶をする。仁左衛門さんのちょっとした言い間違いがあり、開場が笑いにつつまれる。舞台で芝居をしている時の仁左衛門さんは、それこそ鬼気迫る勢いだけれど、こういう時の仁左衛門さんは本当におちゃめな人だと感じる。失礼を承知で言えば、とっても「かわいらしい人」だ。そんな一面を見られるのも舞台ならでは。ありがたや~!という気分。

そして、澤村藤十郎さんがせり上がりで登場すると、劇場中が大きな拍手で包まれた。私も思い切り拍手した。「関西歌舞伎を愛する会」の前進である「関西歌舞伎を育てる会」発足に尽力したのが藤十郎さんだということを、私はこの日までまったく知らなかった。

私が今日、のんきに地元で歌舞伎を見られるのも、こういう努力があってこそ。本当に微々たるものだけれど、行ける時は歌舞伎を見に行こうと決意を新たにした。

 

…とか言っておきながら。

三幕目の「上州土産百両首」を見ることができなかった。朝から座り続けていたせいか、暑さのせいか、どうにも体調が悪くなって早々に撤退。めちゃくちゃおもしろそうなお話だったのに(スリの師匠と弟子が再会して、追う側と追われる側になっている、というような人情話)、見ることができなかった。来年あたり、衛星劇場で放送してくれないかな…と淡い期待を抱いて帰宅。ああ…見たかった…。

 

去年の七月大歌舞伎でも思ったけれど、やはり年々、観劇が苦しくなっていっている。映画館レベルでも体力が続かない時がある。まして歌舞伎の観劇は、頭フル回転なので大変。座席も小さいので、大柄な私にはツライ。こういう時、骨から小さくなりたいと切実に思う。座席にすっぽりきれいに収まっているおばあちゃんを見ると、本気でうらやましいと感じる。というわけで、なるべく良い席で見られるよう、仕事をがんばるしかない。うへぇ。

 

次は京都・南座

ずっと見たかった「東海道四谷怪談」だ。

関西では26年ぶりの上演らしい。昼に行くか夜に行くか、ちょっと迷うところ。