好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

英雄たちの選択「名人円朝 新時代の落語に挑む!~熊さん八っつぁんの文明開化~」

NHKのBSで放送している「英雄たちの選択」という番組がある。

歴史上の人物を解説し、何かを決断する瞬間をクローズアップした歴史番組だ。歴史番組なので、基本的に戦国武将やそれに関連する人物しか出てこない。日本史は平安時代までと、明治以降しかわからない超絶歴史オンチのため、少しでも楽しく知識を増やせればと、なかば義務のように見ている。番組を見ている瞬間は「ほほ~!」と納得するものの、知識は1週間ほどできれいサッパリ流れ落ちる。

あれだけ、「なるほど!」と思ったはずの応仁の乱も、今は薄ぼんやりとしており、誰にも説明することはできない。なんなんだろうか、この歴史オンチぶり。

 

歴史を理解できないのは、闘争心の欠落が原因じゃないかと思っている。負けず嫌いではあるけれど、たとえば誰かの何かを奪いたいとは思わない。功名心もなければ、支配欲もない。大勢の人間に何かをわかってもらいたいとか、大勢を従えたいとか、そういう巨視的な感覚もないので、土地を奪い合うことへの欲求が理解できない。

いや、もちろん、平和のための戦争ということはあるだろう。戦わなければならない瞬間もあるのは頭では理解できる。ただ、それを後世の私が「楽しめるか・興味を持てるか」は別問題だ。

戦略面で言えば、ゲーム的楽しさでもある。対戦系のゲームや、チームスポーツなどは戦争と通ずるものがあり、その戦略性を楽しむ人も多い。だからこそ、多くの人が戦国武将の戦い方に魅了されているのだろう。

 

日本史の授業を受けていた時、どうにも歴史に興味が持てなかった。それはすべて戦う人々の理論で成り立っていたからだと思う。

私は、和歌や絵や文学からでないと、その人物を理解することがうまくできない。たとえば、画家が世界に憤る気持ちは手に取るようにわかるのに、戦国武将が戦う理由はまったく理解できない。どこまでいっても、小さな個人の感情(欲)しか感覚的につかめない。それ以上を望む人の欲は体感がついていかない。たとえそれが、どれほど個人的な私の思い込みであったとしても。

 

そんな中で、珍しく戦国武将ではない人物が特集されていた。

三遊亭圓朝だ。

 

……え? 誰?

 

私の最初の感想は、こんなもんだった。

落語にあまり詳しくないうえに、上方落語しか知らないもんだから、初めて聞く名前だった。あの有名な「牡丹燈籠」とか「真景累ヶ淵」の圓朝だよと言われても、全然わからない。というか、そもそも落語が元ネタだと知らなかった。

 

そういえば、関東の落語は人情話や怪談話が多い気がする。上方落語には人情話は多少あっても、基本的に笑い話がメインだと思うし、私がこれまで聞いたことのある話も(たいした数ではないものの)笑い話しかなかった。

落語を題材にしたドラマや漫画を見るたびに、関東の落語に脈々と流れるあの感じ、のほほんとしてない感じって何なんだろうと、漠然と疑問に思っていた。そもそも、落語の始まりや発展の経緯がかなり違うのだと、この番組を見て感じた。

 

番組を見て、ちょっと気になったので圓朝についての本も数冊読んでみた。「牡丹燈籠」と「真景累ヶ淵」の詳細なあらすじも読んでみて、なんとも因縁深い話で、興味がわいた。

この番組でも、解説本でも書かれていたが、圓朝の怪談話は、幽霊そのものが怖いという話ではなく、そこで翻弄されていく普通の男が、欲望のままに変化していくことが「怖さ」だとされていた。

なるほど。

状況が整えば、人は人を殺してしまうし、人を殺しすぎると心理的ハードルが下がって次々に殺してしまう。そういうことの怖さとか、欲を描いていると言われると、とても興味深い。

私は怪談やホラーが苦手で、怪談の類はほとんど知らない。だから、ぼんやりした知識しかなく、怪談の本質をまったくつかめていないんだろう。

怪談のおもしろさは、おそらく「説明がつかないこと」なんだと思うが、私は答えがないものがとても苦手だ。不思議な話にも、徹底的に合理的な説明が欲しいと思ってしまう。不思議を不思議なままで受け止める度量がない。

「落ち」や「整合性」があることが、ある意味でエンターテイメントの魅力だと思っている。現実には、わからないことはたくさんあるし、知りたくても知れないことは多い。説明がつきすぎるエンターテイメントはつまらないと思うが、少なくとも作者や監督の中には合理性があるという前提だと推測する。答えはあるが、表現上、提示されていない、は受け入れられるが、怪談話はそうではない。落ちないことが、落ちなんだろう。

 そういうわけで、怪談を楽しむ人の気持ちがわからなければ、怪談の本質はつかめないような気がしていた。けれど、面白いと怖いは本質的には親しい位置にあるのかもしれないと思い始めた。

まあ、親しいということは、違うということでもあり、その小さな違いこそが大きな違いでもあると言えるんだけれど。

 

江戸落語は、鬱屈した気分を晴らしたい男たちのためにあったと番組では説明されていた。急速に発展していく江戸という街には、建設業に関わる男たちが多かったらしい。

東西の芸事の違いというのは、テレビやラジオが普及してなかった頃の芸能を見ると、如実に現れている。その理由がずっとよくわからなくて納得できなかった。けれど、男女比の偏りがあったという説を聞いた時、今までで一番腑に落ちた。

上方では長男以外の男手は必要とされず、女が多かったという資料もあるらしい。上方歌舞伎では、「つっころばし」や「ぴんとこな」と呼ばれる色男ながら頼りのないボンボンのキャラクターの型があるが、冷静に考えて、こんなキャラクターを好きになる男はそう多くない。観客は女だったと考える方が自然だ。

逆に、荒事と呼ばれる弁慶だとか、力強そうな武士たちは、男が好きそうな男だ。

落語の観客にも、こういった違いがあったと考えるのが自然だろう。

 

 

 話がずいぶんそれてしまった。

 

結局のところ、私自身が「いかがわしいもの」が好きすぎるがゆえに、勧善懲悪の荒事や、社会風刺を目的とした落語という芸を好きになれないんだろう。

 

けれど、圓朝の怪談話は「いかがわしいもの」の匂いがした。

だから、私は興味を持って見ることができたんだろう。

 

人間の欲望というものは、なぜこんなに魅力的なんだろうか。

 

 

三遊亭円朝と江戸落語 (人をあるく)

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三遊亭圓朝の明治 (朝日文庫)

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