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映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

薬物依存症 著者:松本俊彦

ひょんなことから「オピオイド危機」という単語を耳にして、ネットで検索していたところ、本格的に薬物依存症とは何だろうかと興味を持ち、病理学の本などを読んでいた。オピオイドの機序や麻酔薬について、知っているようで知らないことが多かった。

薬物というと、なんだか縁遠いものに感じていたが、よくよく考えてみると数年前に全身麻酔で手術をした。その時に用いられた麻酔薬はオピオイドだろう。(正確には色々違うのかもしれないが)

おお、私も体験してる!と驚いた。

この時の記憶は一切なく、麻酔が回った瞬間に世界が真っ暗になって、気がつけば12時間ほど経過していた。

 

この数年間、何度か手術を体験するうちに、自分の中の境界線が揺らいでいた。たとえば投薬。体に良い薬と、麻薬の違いだとか、医師の手術(侵襲)と殺人の違いだとか。同じ行為でも目的が違えば、功罪がひっくり返る。

それは発酵と腐敗が、同一の作用であるのに、人にとって「有害」か「無害」かで言葉が変わるのとよく似ている。

もちろん、それが有害か無害かというのは、実際にはとても重要な問題だし、同一の行為だから同じ意味であるべきだ、などとはまったく思っていない。殺人と医療行為は、体を傷つけるという行為「だけ」が似ているのであって、その意味はまったく違う。

ただ、人間の行動と、社会的なルール(法制度)にはどうしても相容れない部分が多い。それは人間が生物だということに由来している。

 

自然界はすべてゆるやかにつながっていて、グラデーションのように変化していく。けれど法制度や社会のルールはそういうグラデーションには対応できない。本来は切り離せないものを切り離し、別の事象として扱わなければ、立ち行かなくなる。

薬物依存症を始めとする、犯罪行為ににつながる依存症(盗癖や性的嗜好)は、そういう法律と人間性のはざまに取り残された病気のように思えた。

通常の病気は、他人に迷惑をかけるものではない。本人が苦しいだけだが、依存症はそれが犯罪(他害)につながりやすいという点が解決を難しくさせている。

他害が目立つと、それを病気だと認識することも難しくなる。私自身にもそういう偏見が多くあった。

 

本書の中でとても印象深かったのは、エドワード・J・カンツィアンというアメリカの精神科医が指摘した「依存症の本質は快楽ではなく苦痛にある」という話だった。

とても簡単に言えば、幸せな状況に快感がプラスされても依存的にはならないが、不幸な状況を一時的に忘れるための快感は、依存的になるという話だった。

この話はかなり衝撃的だった。確かにそうとしか思えない。

暴力や極度のストレスにさらされた状況で、一時的にそれを忘れるためにアルコールや薬物を使う場合、それはその人にとっての鎮痛剤のような役割を果たす。それこそ、鎮痛剤も依存性があったりするわけで、痛みから逃れるためなら人間は何だってすると思った。

以前、歯医者で親知らずを抜いた後、ズキズキと痛みが襲ってきたことがあった。鎮痛剤を飲むのが少し遅れたせいで、たまらない痛みに襲われた。思わず壁を殴りそうになり、そういう暴力的な自分がいることにとても驚いた。

親知らずの痛みと比べるのもどうかと思うが、ああいう状況が続くなら、やはり一時的にでも痛みを和らげてくれるものに頼るのは、必然のような気がした。

 

心の痛みや孤独、不幸な状況というのは目に見えない。目に見えないものはどうしても認識しづらくなる。これが、足が折れているとか、体中に包帯が巻かれている、という状態なら、怪我や病気だと認識できるが、心の中は他人にはわからない。

見えないものや、わからないものは、どうしても「無いもの」だと勘違いしてしまう。不幸な状況を他者が認識するのはとても難しい。ともすれば本人さえも気づいていない場合が多い。

 

他害が含まれる病気というのは、人間関係を失うという最大のリスクがついてまわる。人から愛されない、人から疎まれる、友人がいなくなる、家族を失うという状況は、よりいっそう病気を進行させる。

孤独が病気を呼び、病気が人を遠ざけ、さらに孤独になっていくという悪循環ができあがる。

とても難しい問題だと思う。私は身内にそういう人物が多い家庭環境で育ってきたため、簡単に助け合おうなどとは言わない。愛情に飢えた人間の怖さはよく知っている。あれに付き合うことは本当に難しい。底なし沼に引きずり込まれるようなものだと思っている。けれど、人の力を借りなければ回復しない病気だということもよくわかる。

ひとつ言えることは、「私が他人なら、もっと気軽に助けてあげられたのに」とずっと思っていたことだ。

身内は距離が近すぎて、手助けする側に逃げ場がなさすぎる。身内同士だと要求もエスカレートして容赦がなくなる。だから、いつでも縁が切れる他人ならば、自分の心に余裕がある時だけ、少し話を聞いたりすることはできるだろうなと思っていた。表層的でもいい。ほんの数秒のやりとりでもいい。

それこそ、販売員に優しくしてもらったとか、誰かに道を尋ねて快く対応してもらったとか。本当にその程度のことで、人の心は救われる瞬間があるんだと思う。

私は身内を助けることは、おそらくできないけれど、その分、自分が出会った見知らぬ他人には優しくするように心がけている。

病気のことを理解する人が増えればいいと思うけれど、大したことはしなくてもかまわないと、個人的には思う。

余裕がある時に、少し他人に優しくするだけで、孤独というものは少しづつ消えていくと思うから。

 

 

薬物依存症 (ちくま新書)

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