好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

日記。

近頃、退屈だと思うことが増えた。

バラエティを見ても、映画を見ても、ドラマを見ても、本を読んでも、以前ほどは楽しめていないと感じる。自分が何を楽しがっていたのか、うまく思い出せないことがある。

 

 半分、リハビリのような気分でブログに感想を書いていると、色々なことが鮮明になったり、逆にぼんやりしてくることがある。

 自分が何を考えているのか、言語化することで客観視しているのだろう。客観視すると、鬱屈した感情の整理がついて、自分が何に怒っていたのかが曖昧になっていく。冷静になると言い変えてもいい。

 後から自分の書いた感想を読み返すと、とても同一人物とは思えない感想だったりする。人間の整合性なんてものは、あるような、ないような適当なものだ。

 ぼんやりしていると、すぐに怒ってしまう。怒ることは生きることのエネルギーのようにも思うし、決して悪いことではない。

理屈ではそう思っている。でも感情がついていかない。怒る自分に罪悪感を覚えている。

 

慣れであったり、先読みする能力があがった影響もあるだろう。物事はいつか飽きることがあるのは仕方がない。

思い返せば、様々なことに飽きてきたように思う。

 

私が漫画を書いたり、文章を書くというような創作行為が好きなのは、創作そのものではなく、物事を考えることが好きだったからだ。漫画に落とし込んだり、文章化することで、事象をより深く理解するのが楽しかったのだろう。

そこで思いがけない自分の考えや、驚くような思考回路にたどり着く。その発見こそが最大の喜びだ。

だから、創作活動は他者のためにやっていることではない。自分が自分を(ひいては他人を)よりよく知るためにやっていることだ。

ここにレビューを書く行為も、自分の考えを整理することと、自分用のメモの意味合いが強い。

頭の中にはイメージ映像が飛び回っている。どうも、映像記憶と感情記憶がセットになっていることが多いらしく、言語化できていない感情が映像となって頭に浮かんでいる。

私はずっと、自分の言語能力が高いとは思っていなかった。それは、自分の中にある映像や感覚や感情をうまく説明できなかったからだ。映像、音、色、匂いや皮膚感覚。それを言語化するのはとても難しい。

記憶は、その複合体で構成されている。言語というのは、単一でシンプルな一本の線(ライン)のようだ。記憶には複数のラインがあるのに、言語という単一ラインに乗せるというのは、そもそも無理な話だ。

けれど、単一ラインだからこそ、他者との共有が可能であるのも、言語の魅力だ。言語は時間をも超えていく。たくさんのイメージ映像が飛び回る頭の中で、言語化されたものだけが記録として確実に残っていく。

時間が経った後に、自分の文章を読み返すことがよくある。

8割ぐらいは覚えているが、こんなことを考えていたのか、と驚く2割が必ずある。この感覚がたまらない。文章を書いていた瞬間の匂いや味まで思い出すような、妙な感覚だ。

よく知っているはずなのに、誰だこいつと、自分自身に対して思う。

そういう時、朝と夜の自分が同一人物だなんて思えなくなる。そうして、どんな怒りも、一過性のもの、もしくは私の脳みそが見せている幻なんじゃないかと思えてくる。