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令和元年版 怪談牡丹燈籠<全4話>

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NHKBSプレミアムで放送された「令和元年版 怪談牡丹燈籠」を見終わった。録画したものの、なんとなく見る気が起こらず、最終回の放送が終わってからイッキ見した。そして、あまりのおもしろさに驚いた。

放送前の番組宣伝では、尾野真千子主演という話で、そこにはあまり興味がなかったので後回しになっていた。けれど、実際は群像劇だったので、話にぐいぐい引き込まれてしまった。

牡丹燈籠を知っている人にとっては、当たり前のことなのかもしれないが、私はあらすじもあまり覚えていなかったので、こんなに複雑で人々の思惑が絡まる話だとは想像していなかった。

むしろ、尾野真千子が演じたお国は脇役にさえ思える。彼女のせいで騒動が起こっているが、どこか狂言回しのように感じた。あえて主演は誰だと考えた場合、飯島平左衞門(高嶋政宏)もしくは、黒川孝助(若葉竜也)じゃないかと思う。

それぐらい、この二人が良かった。役者の力量なのか、脚本や演出なのかはわからないが、この二人の人生がまずあって、そのまわりの人々が描かれていたように思う。

 

まず、冒頭の「発端」が素晴らしい。

腕に覚えのある旗本のお坊ちゃん・飯島平左衞門が、浪人にケンカを売られたのをきっかけに、その浪人を斬り殺してしまう。表向きはケンカを買った形だったが、実は心中では、一度人を斬ってみたいと思っていた。剣豪の業とでもいうのか。自分の腕を試したい、刀の切れ味を試したいと思ってしまう。この描写がたまらない。銃があれば撃ちたくなる、刀を持てば斬りたくなる。そこへ殺して欲しそうな男が現れれば……。この欲望の描写のリアリティ。

高嶋政宏の大げさ、ともすればコミカルにも見える表情の演技が、飯島平左衞門の若さや無邪気さを感じさせて、ぞっとする。好奇心や興味本位で人を殺してしまう表現として、笑いに転じそうなギリギリの演技、素晴らしかった…!

場所は、昼間の刀屋なのだが、画面が暗い。暗いというか黒い。ところどころに差し込む光とのコントラストが非常に美しく、息苦しい。そこへ阿部海太郎の緊迫感のある音楽が入ってくる。音数を極限まで絞った不気味な三味線の音色。

音楽を担当する阿部海太郎と、監督の源孝志は「京都人の密かな愉しみ」シリーズや、夏目漱石の最後の恋を描いた「漱石悶々」などでおなじみだが、この二人は両者がいなければ成り立たない世界を感じさせる良いコンビだ。

音楽はおそらく当て書き。映像に合わせてしっかりと音楽を設定しているのがわかる。阿部海太郎の音楽は、音数を絞っているにも関わらず、情報量は多い。なぜそんなことができるのか、まったく理解できないが、少ない音数だけを鳴らし、弦楽器やピアノの余韻の音がはっきりと聞こえる作りになっている。それが映像作品のBGMになったときに、絶妙な抜け感を発揮し、聞き手の想像力を掻き立てる。

映像作品のBGMは、映像+音楽となるので、音数が多いと目にも耳にもうるさく感じられてしまう。けれど、単純に音数を絞ると、音楽を単体で聴いた時に物足りなさが出てしまうという問題がある。この両方を成立させる音楽というのは、本当に稀だ。そして、これが成功している映像作品は、間違いなく名作だ。

 源孝志の世界観は、阿部海太郎の音楽によって完結し増幅されている。二人の作品を見るたびにそう思わされる。

 刀屋のシーンから一転、話は二十年後に飛ぶ。そこには、壮齢の飯島平左衞門の姿がある。働き盛りで、部下思いの良い主君。二十年前に興味本位で人を斬り殺した若者とは思えない、穏やかな人柄が描かれている。けれど、彼は欲望にまかせて人を殺している人間だ。その対比、穏やかな人間の中にある泥のような欲望が怖い。そしてたまらなく魅力的だ。

そんな飯島平左衞門の元に、かつて斬り殺した浪人の息子、黒川孝助が奉公人としてやってくる。

 

続きが気になるー!!!!!と叫ばずにはいられない展開。

 

尾野真千子演じるお国は飯島平左衞門の妾におさまって、家を乗っ取ろうとする。彼女の画策によって飯島平左衞門の娘・お露(上白石萌音)は家を出ていくことになるが、そこで出会うのが萩原新三郎(中村七之助)だ。

二人はひと目で恋に落ちるが、身分違いの恋を止められる。そして、お露は新三郎に恋い焦がれ、ついには死んでしまう。

ここからが有名な、牡丹燈籠。新三郎を思い、幽霊になったお露が毎晩会いに来るという話だ。

ここからのシーンは、正直ちょっとどうなんだという仕上がりだった。というのも、幽霊の表現方法が安っぽいのだ。現実のシーンが良い映像なだけに、お露がキョンシー(古い)のように飛び回るシーンは笑ってしまう。なぜこの表現になったのだろうか。吸血鬼のように血を吸うシーンもあって、幽霊ってそんなだっけ…?と首を傾げた。むしろ、幽霊のようなシーンは見せないという表現で撮れたのではないかと思った。

私はホラー映画はほぼ見たことがないので、的外れを承知で言えば、天海祐希主演の「狗神」のように、いるけど(目には)見えないという表現で押し通す方が怖いし美しいんじゃないかと思う。

 落語は、話芸だ。当然のごとく映像はない。小説でもそうだが、想像の方が怖いということはよくある。見えてしまえば、それがどれほどリアリティのある何かであっても、あまり怖くない。見えないところ、見れないところにこそ、一番怖いものがスッと入り込む。

お露の幽霊のシーンは、通常の逢瀬として見せて、新三郎の体の変化が異常になっていく、という方が良かったように思う。ただ、この表現はホラー映画でのベタなのかもしれない。そのあたりはよく知らないので、この映像の必然性が別のところにあれば申し訳ない。

物語は、この後、黒川孝助の仇討ちの話に展開していく。金に目がくらんだ人々が、次々に人を殺し、殺されていく展開が続く。そこもおもしろい。一度タガが外れた人間が、どんどん転がり落ちていく。

これを寄席で話されたら、そりゃ毎晩通うわな、という引きの強さ。怪談話と謳っているが、落ちのない怪談ではないし、むしろそこは客寄せなんだろう。

怪談話というオブラートに包んで、まったく別の人間ドラマを見せる話についつい引き込まれ、4話をあっという間に見終わった。

語りたい部分はまだまだあるが、本当におもしろい作品だったので、再放送や、地上波で放送があればぜひ見ていただきたいなと思う。