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映画「彼女がその名を知らない鳥たち」 監督:白石和彌


彼女がその名を知らない鳥たち (2017) 映画予告編

 

この映画のジャンルは何かと問われれば、うまく答える自信がない。一見すると、ミステリーやホラーだ。けれど、トリックや犯人が誰かという点が物語の重要な要素ではない。むしろ、それはただの引きでしかなく、濃厚な人間ドラマが繰り広げられる。かと思えば、人の心は謎に満ちているという話でもある。また、ある視点から言えば、最大級の恋愛ドラマだろうし、笑えない喜劇だと言う人もいるかもしれない。

ジャンル分けが明確にできないという作品は、それだけで価値がある。それは、この作品がこれまでにない映画だという反証だからだ。

本編は、何の予備知識もなしに見始めた。あとから予告を見たところ、一応ミステリーとして宣伝されていたのだと気づいた。けれど、これをミステリーとしてしまうのは、あまりにもったいないし、それを期待させるのはよくないと思う。

ただ言えることは、リアリティに満ちたいい映画だ、ということだけだ。

 

白石和彌監督の映画は、私にとって鬱映画のジャンルに入る。

鬱映画とは、心にダメージを受ける映画という意味だ。ただ、ダメージと言っても、それは2種類ある。

ひとつは、「そんなことあるわけない!」という描写で描かれる殺人やいじめなどのシーンがある作品だ。物語展開のために(乱雑に)用意された非情なシーンに対して、私はひどく怒ってしまう。そして、文字通り「胸糞が悪い」と作品・監督に対して思う。見るんじゃなかったと後悔し、そういうものはすべて心のNGリスト入りする。

もうひとつのダメージは、「ああ、こういうことってあるよな…」と、思わず納得させられ、世界のありように極限まで落ち込んでしまうようなつらいシーンがある映画だ。質の良い、とても気持ちが落ち込む最悪の映画だ。こういう映画を、私は敬意を込めて鬱映画と呼んでいる。

映画「凶悪」を見た時、キメセクを行うピエール瀧のリアリティに震え上がった。人を物のように扱うことのリアリティが怖かったのだ。もちろん、私は現実の殺人犯や薬中の人を知らないので、それがリアルなのか、リアリティに満ちた虚像なのかは判断がつかない。けれど、それでも白石和彌が描く世界にリアリティを感じるのは、おそらく思考回路のリアリティなんだろうと思っている。

こういう状況にいる人は、こう考えるだろう、という方程式があまりにも明快で納得させられてしまう。今、現実にそういう人間が存在していなかったとしても、納得させられた私の脳内には、凶悪な人間が住み着いてしまう。そういう怖さが白石和彌の映画にはある。

 

彼女がその名を知らない鳥たち」を見始める時、いつでも再生を停止して、しんどくなったらすぐに見るのをやめようと思った。それぐらい、用心しながら見始めた。

そして、開始数分で物語に引き込まれた。

 

冒頭、蒼井優演じる十和子が、デパートに電話でクレームを入れるシーンから始まる。散らかったマンションの1室。テレビをつけたまま電話をしている。声が重なるのも気にせず、クレームを入れる姿。ひと目でマトモな人間じゃないのが伝わってくる。

ソファに寝転びながら、クレームを入れる十和子。その物言いが最悪にいやらしい。一見へりくだったような言葉で、敬語を交えつつ、相手を質問形式で非難していく。最悪にうざい関西弁を操る蒼井優から目が離せない。

 

この女、マジでどうしようもねえな!と思ったが最後。この女にどんな天罰が下るのか興味が湧いてしまった。

 

十和子のクレームは続く。どこにいても、何をしていても不機嫌で横柄な十和子に共感など抱かない。それのに。それなのに…!!!

物語が進むにつれて、十和子の過去が少しずつ明らかになっていく。クズ男に夢中になって、ゴミのように扱われてしまう十和子。それでも好きで好きで仕方ない。言いなりになるしかない十和子。

好きな男の前では、冒頭のいやらしい関西弁は鳴りを潜め、柔らかくて媚をふくんだ女々しい関西弁に変わっている。時には標準語にすらなる。現在の十和子からは想像もできない可愛いくて可哀想な十和子が画面にあふれていく。

通常の物語の場合、こんな風にキャラクターを変質させることはめったにない。それは、キャラクターが作られた虚構であるからだし、一貫性を保つことが当然だと思われているからだ。

けれど、十和子は誰といるかによってキャラクターが変わってしまう。一貫性がなく、不安定な人間性が見え隠れする。十和子の変貌を見た瞬間、この演出意図はどこにあるんだろうと頭によぎった。けれど、よくよく考えてみれば、人間は誰しもこういうものだ。すべての人の前で同一の自分であるはずがない。怒る顔も甘える顔も悲しむ顔も、誰といるかで目まぐるしく変わるのが「普通」のことなのだ。

 

十和子はイケメンが好きだ。それもとびきり悪くてクズな男前を好きになってしまう。過去の恋人の黒崎(竹野内豊)には、いいように騙されて借金のカタに体を売らされてしまうし、現在の不倫相手である水野(松坂桃李)にも弄ばれて、あげく路上で咥えさせられるという有様。けれど言いなりになってしまう。抗えないイケメンの力。

こういう場合、見るからに悪くて男前な俳優を起用することが多いが、竹野内豊松坂桃李という、優しい男を演じることが多い俳優を起用しているのが恐ろしい。通常の彼らから受けるイメージと、役柄のギャップがありすぎて、騙されても仕方ない気分になってしまう。

現実では、悪いヤツはやっぱり悪い顔をしているし、クズなヤツはクズな空気をまとっている。けれど虚構の物語では、俳優と役柄のギャップが生じることで、ありえない現実がひろがっていく。それはリアルではないものの、十和子のリアリティ(イケメンに抗えないという状態)を疑似体験させてくれる。

松坂桃李の純真無垢な顔で迫ってこられて、こんなにドクズだなんて想像しないよ。竹野内豊が真面目な顔で体を売れって懇願してくる世界なんてあってたまるか! どんな無間地獄だ!

 

そんな十和子を健気に愛する男が、阿部サダヲ演じる陣治だ。陣治はとにかく汚い。食事中に靴下を脱ぎながら足の垢をとったりする。本気で汚い描写が多い。思わず早送りしそうになるほど汚くて、十和子が陣治を罵る気持ちが痛いほどわかってしまう。

陣治にどれほど尽くされようが、どれほど心配されようが、十和子はどうしても過去の男が忘れられない。そりゃそうだ。相手は竹野内豊だ。私も陣治は好きになれないな…と思いながら映画を見ていた。

 

いやしかし。

おそろしいな。阿部サダヲ。最後の最後には、陣治への愛がぶわあああっ!!!と芽生えて終わっていく。

生きていけないと絶望する十和子に、生きる意味まで与えてしまう陣治。この愛が正しいとか素晴らしいとか、そういうことじゃないんだけれど、陣治を思わず愛してしまう自分がいた。

物語の展開は読めていたけれど、十和子が救われるとは思えなかった。けれど、こういうオチで、十和子に希望すら残るなんてびっくりした。

 

そしてラストシーンは「彼女がその名を知らない鳥たち」が、まさに空を飛んでいく。

ずっとタイトルの意味がわからず、どこで回収するのかと思っていたけれど、物語上の意味らしい意味はないタイトルだった。けれど、とても良いタイトルだと思った。

 

 私の解釈では、自分の頭上を飛ぶ鳥、よく目にするものであるにも関わらず名前すら知らない、という意味なのかなと思った。見えているのに知りもしない。知らないとはおそろしいことだという感覚。そして、それに気がつき、ようやく知りたいと思ったとしても、それはあまりに遠くて手が届かない。あっという間に飛び去ってしまう。

もどかしくて苦しい。そういう感覚を表したタイトルなのかなと思った。原作小説では、正確な意味が描かれているかもしれないので、あくまで映画を見ただけの解釈ではあるんだけれど。

 

いや、それにしてもおもしろかった。

けれど、白石和彌の映画はやっぱり怖い。怖いので、心の準備ができない限りは見ることはできない。