好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

2019年11月のあれこれ。

<今月の読書>

デザインされたギャンブル依存症 ナターシャ・ダウ・シュール

すべての罪悪感は無用です 斎藤学

やめられない人々 榎本稔

フロー体験喜びの現象学  M.チクセントミハイ

神と獣の紋様学 林巳奈夫

音楽のリズム構造 G.W.クーパー

「ぐずぐず」の理由 鷲田清一

脳のリズム ジェルジ・ブザーキ

黒人リズム感の秘密 七類 誠一郎

語源から哲学がわかる事典 山口裕之

 

10月に読んだ本も混じってるが、今月はそれなりに本を読む時間がとれた。リズムのことが気になりだし、色々考えながら読んでみたところ、七類誠一郎さんの「黒人リズム感の秘密」がかなり参考になった。

裏打ちって何なのか、ずっと意味がわからず、表拍と裏拍って、逆になっているだけじゃないのかと思っていた。けれど、裏打ちのリズムを体を動かすことを前提として考えてみると、うまく理解できることがわかったのが、自分的に大発見だった。

言葉ではうまく説明できないかもしれないが、体の通常の動きと逆の呼吸(リズムのタイミング)になることで、点ではなく線で動き(音楽の場合は音の流れ)を考えるようになるという話だった。

表拍は、瞬間の拍であり、点の拍である。裏拍は複雑性の拍であり、流れの拍であるという説明が、ずどーん!とハマった。

早速、歌を歌う時に体の動きを逆にして確認してみた。単純に言えば、高音やキメの音を出す瞬間に、かがむように体を縮こませることを行ってみた。通常の場合、高音を出すためには体や喉を開く。横隔膜をあげるために、両手を上げて歌うと高音が出やすいのだが、それを手を上げずに行うのが通常の歌い方だった。

それを、逆。地面を意識して体を後ろに下げるイメージで歌い、高音の時は体を小さくするイメージで、裏拍でリズムをとってみたところ、いわゆるR&Bの曲や洋楽と簡単にシンクロした。

うそだろ、という驚愕の出来事だった。

表拍で歌っていた時は、リズムに遅れないようにと、一拍目を強く意識していたが、裏拍の場合は、とりあえず遅れてもいいし、二拍目が合えばいいだろうという気楽な気持ちでやってみると、これまで歌いにくいと思っていた歌が簡単に歌えるようになった。

世の中の人はいったいどれぐらいリズム感があるものなんだろうか。裏拍を軽々とマスターする人もいるんだろう。これは私が運動ができない影響もあるのかもしれないが、どれだけ音楽を聞いても、まったくたどり着けず、説明がなければわからなかった自分を思うと、音楽はやっぱりとても不思議なものだと思った。

 

そして、山口裕之さんの「語源から哲学がわかる事典」もとてもおもしろい本だった。哲学用語の解説書であり、哲学の基本的な言葉を通して全体像を見るための入門書だ。哲学書は原書を読むことは難しすぎてできないし、原書の翻訳ですらけっこうしんどい。解説書ぐらいしか読めない自分には、本当にわかりやすくて助かった。

この本を読み、改めて、文化を理解するには、その言語を知らなければならないと感じた。言語的な発端で哲学的な問いが生まれることも多いようで、日本語ではその問いは生まれないだろうというもがあるのは、考えてみれば当然かもしれないが、その考えに至るにはとても難しい。

私は大学生の頃に京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕」を読み、ハイデガーを知った。ちょうど同時期に授業でウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」学ぶ機会があり、哲学者がなぜこんなにも言語のことを語るのか、ずっと不思議に思っていた。この頃ようやく、その意味が実感を伴って理解できてきたように思う。

言葉という概念上の道具を使って、概念そのものを考察するのが哲学なんだろう。それは当然、道具である言葉への言及も含まれる。数学で言えば数論のように、常に一番厳格で正確な、学問の一段目が哲学なのだろう。

また、翻訳の問題も浮き彫りになった。そもそも、日本語にない概念を日本語で説明するというのは難しい。そして、過去の翻訳(誤訳であったり、現代では意味が変わっている・通じない言葉)を踏襲し続ける問題もある。

たとえばストーリーなど、実際に物事がどう動いたかという表面上の説明は、あまり勘違いが起きない。そういう翻訳はそれほど大変ではない。けれど、概念の説明は、その概念が何によって支えられているかという膨大な情報量が必要で、それをひとつひとつ説明していくことは困難だ。

言葉は単体で言葉であるのではない。それがどんな場面、どんな文脈で語られ、どういう属性や匂いを帯びているのか、そんなことが一番重要だ。言葉そのものではなく、そこにまとわりつくイメージや膨大な具体的事象によって支えられている。

私は数学がとても苦手で、特に数字という概念を頭で操ることがとても下手だ。それがなぜなのか、ずっと考えていた。

ひとつの結論として、数字には具体性がないからだと考えた。2つのリンゴや三人の子供、百万円や一万人の住人など、数字で表されるものは多い。けれど、1や2や3という数字は、それらあらゆる具体的な物事を概念化したものである。個別の情報をすべて落としたものが数字だ。私は頭の中で、常に映像を使って物事を考える人間なので、具体的な映像がなければうまく考えることができない。

数字を考える時、私の頭の中には1という文字のフォントが浮かんでいて、それが2や3と違う点は、形でしかない。だから混乱してしまう。2つのリンゴは見間違えないが、数字の2と3は見間違えてしまう。そんな感覚が頭の中にある。

哲学者の使う言語も、それと似たものを感じる。あらゆる具体性を集めて、そしてその個別情報を削ぎ落とした言語が、哲学における概念のような気がする。だから、通常の翻訳とはまったく違った難しさがつきまとうのだろう。

 

<今月の映画>

いろいろと映画も見ているが、毎日があっという間に過ぎていくので、ほとんど忘れている。

シティーハンターの実写版を見に行き、映画としてのクオリティはさておき、原作愛・アニメ愛に支えられた素晴らしい作品だと感じた。

フランス映画はほとんど見たことがないので、笑いのツボが違ったり、間が違うことが新鮮だった。そして、前フリの概念も違うため、普段なら絶対に読み切れるはずのストーリー展開が読めなかったことに驚いた。自分の先読み能力なんていうのは、所詮そんな程度のものなんだなと思った。

 

Amazonプライムで話題になっている「モダン・ラブ」も見始めた。評判通り、とても質の高い恋愛ドラマで、全部見終わってしまうのがもったいないほどだ。いつかまとめて感想を書きたい。

 

 

語源から哲学がわかる事典

語源から哲学がわかる事典