好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

右と左の話

私は左右がわからない。

こういう人は意外と多いと聞く。左右盲と呼ばれる状態らしい。

左利きを無理やり右利きに矯正されるとなりやすいらしいが、私は左利きでもなければ、矯正された記憶もない。ただただ左右がわからない。

左右がわからないと言うと、たいてい驚かれるので、逆に左右がわかる人にはどうしてわかるのか聞くのが好きになった。

スポーツ、特に対戦型の競技をやる人は自然と左右が理解できるらしい。というのも、スポーツでは利き手・利き足がとても重要で、それによって戦略が変わるからだ。サッカー好きの友人は、対戦相手の利き足をどれだけ素早く見抜くかが、ディフェンダーに必要な能力だと言った。向かってくる相手が右にボールを蹴るか、左に蹴るかは重要で、それによって先読みするらしい。なるべく利き足ではない方で蹴らせることができれば、それだけ試合展開が有利に運ぶ。

なるほど、と納得すると同時に驚いた。友人は、日常生活でも左右を強く意識して生きているのだとわかったからだ。

 

左右という概念は、私の世界にはあまり出てこない。

それは、私が他者を意識して生きていないからだ。私は常に自分だけの世界で生きている。

自分ひとりの世界では、「右に曲がろう」と考えるのではなく「あっちに曲がろう」と思うからだ。右や左という言葉(概念)が必要になる場面とは、常に他者に何かを伝える場面なのだ。

右や左は、舞台の上手・下手のように固定された方向ではない。自分が180度回転すれば、左右が逆転する。

右や左という言葉が出てきた瞬間、私は<誰にとっての>右や左なのかがわからなくなる。私と他者が向かい合っていた場合、私の右は他者の左になる。

相手が、誰を基準に左右を発しているのか確定できないことで混乱してしまうのだ。

ただ、私にとっての右という概念がはっきりわかるかと言えば、それも曖昧だ。「お箸を持つ方」と言われてもピンとこない。なんとなく、左手でも持てるような錯覚があるからだ。右手80%、左手20%ぐらいの感覚がある。実際持てるか持てないかではなく、ただの感覚なのだが、この<左手20%の感覚>をとっさに無視することができない。できそうな気がすると、左右を確定させることに戸惑いが出てしまうのだ。

 

世界には、左右がない言語もあるという。オーストラリアの言語のひとつ、グーグ・イミディル語だ。

左右ではなく、東西南北で表現するという不思議な言語だ。けれど、この言葉は相対的な方向概念ではなく、太陽を中心とした絶対的な方向概念だ。理屈はこっちの方がわかりやすい。