好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

映画「ジョーカー JOKER」 ネタバレ感想


映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開

 

これがずっと見たかった!!

そう叫ばずにはいられないアメコミ映画だった。

 

こういう暗い内容の映画が、アメコミである必要性は、誰もが偏見なく物語に入り込める点だと思う。現実世界の具体的な何かを批判する、という方法はあまり好きではない。それはドキュメンタリーや論文でいいと思うからだ。

架空の話であるという前提は、価値観の違う人々を結びつける強さがある。アメコミでこそ、こういった社会問題を扱う作品を作ってほしいと強く願う。

もちろん、アメコミのサブストーリーとしても楽しめる。スーパーヴィランのジョーカー誕生の物語が、これほどリアリティに満ちた映画として作られるのだから、本編のバットマンへの想像力が広がるのは間違いない。

戦いとは暴力抗争ではなく、価値観の対立である。価値観の対立は、どちらに善悪があるという話ではなく、ただ「違っている」ことのどうしようもない対立なのだ。

善と悪が対立するのではない。何を「善」とし、何を「悪」と見なすのか、そこが対立しているのだ。

 

映画「ジョーカー」では、主人公のアーサーは善性のある人間として描かれている。本人も精神的な病を抱えながら、病人である母親を看病しているアーサー。母親から「ハッピー」と呼ばれ、人を笑顔にするべくピエロの仕事をしている。

お金も儲からない、同僚もいけ好かない最悪の環境。それでも彼は、誰かを笑顔にしたいと思って、道化師の仕事を必死に続けている。あまりに健気すぎて、たまらない気持ちになった。

アーサーは、なんとも気持ち悪い人物だ。けれど、それは彼の本性(心根)が気持ち悪いのではない。彼の外側が、どうにも気持ち悪いだけなのだ。

突然笑い出すという障害や、痩せこけた顔。状況が理解できていない笑いのセンスや、リアクションの遅さや奇妙さ。妄想のせいで他人と現実の認識が違っているところなど、とにかく何を考えているのか、外側からはわかりづらい。意思疎通がうまくいかない気持ち悪さだ。

人が一番怖いと感じるものとは、よく知っているはずなのによくわからないもの、だと思う。

例えば、タコと意思疎通ができなくても、私達は怖くはない。見た目も生態系も違う生き物なので、言葉は通じなくて当たり前。けれど、アーサーは人間だ。同じ人間のように見えるのに、うまく意思疎通ができない異物を、人はことさら嫌う。それは恐怖にも似た嫌悪感だろう。

アーサーが見るからにヤバそうなイカれた外見なら、それはそれで救いがあったようにも思う。一見普通、善良ささえある人物だからこそ、何を考えているのか理解しづらいという異物感が目立ってしまう。

人は誰しも他人を見誤っている。けれど、それが表面化するかしないかは、大きな違いだ。間違っていても、合っているかのように思えればコミュニケーションはうまくいく。アーサーは、善良な人間だけれど、その異物感は拭いきれないほど表面に現れていた。

 

度重なる不幸がアーサーを襲い、唯一の肉親である母親の嘘をきっかけに、アーサーは完全に社会(ゴッサムシティ)における善悪(ルール)を捨て去る。

けれど、彼の中の理屈は終始間違ってはいなかった。彼は、彼の中の正当な理由によって人を殺していたし、見知らぬ他人を殺したわけではなかった。そのうえ、できれば人殺しなどはしたくないとさえ思っていたように感じられた。

アーサーは、なぜ人は善良ではないのか、という点を怒っていたのだろう。ゴッサムシティで人々が幸せに暮らす世界を夢見ていたと思う。それはバットマンと同じ気持ちだったはずなのに。

 

前半、アーサーが笑うシーンはすべて泣き声のように聞こえる。笑っているはずなのに、彼はずっと泣いていた。けれど、徐々にジョーカーに変貌していき、人を殺しだした彼は、楽しくて笑っていた。

この演技の違い、演出方法に鳥肌がたった。私は、アーサーがジョーカーとして階段で踊るシーンや、人を殺すシーンで、ようやく彼が何かから解放されたのだと思った。そこには幸せすらあるように感じられた。ジョーカーの視点でみれば、物語はすべて必然だった。

 

彼は悪のカリスマになり、多くの暴動を起こす人々に取り囲まれて、物語は終わっていく。

けれど、それもアーサーが望んだ未来とは違っているように思えた。燃える街を笑いながら見ていたアーサーだったけれど、彼が望む街の形はそうでないと思う。暴動を起こす人々とも、どこか共感できない、アーサーの善性が最後まで見え隠れしていたように思う。

 

自分の出生もわからず、養父から虐待を受けて育ったアーサーを思うと、あれだけ健気に生きているだけで十分立派な人間だ。よくそんな善良な人間に育ったなと驚くほどだ。けれど、だからこそ、彼は社会の不誠実さに叩きのめされたのかもしれない。

 

アーサーが、ブルースの父であるトーマス・ウェインに食って掛かるシーンの一言が心に突き刺さった。

アーサーは、金がほしいんじゃない、ただ優しい言葉とハグが欲しいだけだと叫ぶ。

けれど、それが一番手に入れるのが困難なものなのだ。簡単に手に入るものなはずなのに、ハグひとつ、優しい言葉ひとつが手に入らない。この事実は本当に重い。

 

映画はけっこう地味な展開で、映像的に大きな見せ場があるわけではない。じわじわとアーサーがジョーカーに変化していくが、どこかの点で、という演出ではない。何なら最後までアーサーはアーサーでしかない。

けれど、この先、この映画を何度も見てしまうに違いない。

その度に落ち込むのだろうけど、素晴らしい映画だったと思う。

日記。

近頃、退屈だと思うことが増えた。

バラエティを見ても、映画を見ても、ドラマを見ても、本を読んでも、以前ほどは楽しめていないと感じる。自分が何を楽しがっていたのか、うまく思い出せないことがある。

 

 半分、リハビリのような気分でブログに感想を書いていると、色々なことが鮮明になったり、逆にぼんやりしてくることがある。

 自分が何を考えているのか、言語化することで客観視しているのだろう。客観視すると、鬱屈した感情の整理がついて、自分が何に怒っていたのかが曖昧になっていく。冷静になると言い変えてもいい。

 後から自分の書いた感想を読み返すと、とても同一人物とは思えない感想だったりする。人間の整合性なんてものは、あるような、ないような適当なものだ。

 ぼんやりしていると、すぐに怒ってしまう。怒ることは生きることのエネルギーのようにも思うし、決して悪いことではない。

理屈ではそう思っている。でも感情がついていかない。怒る自分に罪悪感を覚えている。

 

慣れであったり、先読みする能力があがった影響もあるだろう。物事はいつか飽きることがあるのは仕方がない。

思い返せば、様々なことに飽きてきたように思う。

 

私が漫画を書いたり、文章を書くというような創作行為が好きなのは、創作そのものではなく、物事を考えることが好きだったからだ。漫画に落とし込んだり、文章化することで、事象をより深く理解するのが楽しかったのだろう。

そこで思いがけない自分の考えや、驚くような思考回路にたどり着く。その発見こそが最大の喜びだ。

だから、創作活動は他者のためにやっていることではない。自分が自分を(ひいては他人を)よりよく知るためにやっていることだ。

ここにレビューを書く行為も、自分の考えを整理することと、自分用のメモの意味合いが強い。

頭の中にはイメージ映像が飛び回っている。どうも、映像記憶と感情記憶がセットになっていることが多いらしく、言語化できていない感情が映像となって頭に浮かんでいる。

私はずっと、自分の言語能力が高いとは思っていなかった。それは、自分の中にある映像や感覚や感情をうまく説明できなかったからだ。映像、音、色、匂いや皮膚感覚。それを言語化するのはとても難しい。

記憶は、その複合体で構成されている。言語というのは、単一でシンプルな一本の線(ライン)のようだ。記憶には複数のラインがあるのに、言語という単一ラインに乗せるというのは、そもそも無理な話だ。

けれど、単一ラインだからこそ、他者との共有が可能であるのも、言語の魅力だ。言語は時間をも超えていく。たくさんのイメージ映像が飛び回る頭の中で、言語化されたものだけが記録として確実に残っていく。

時間が経った後に、自分の文章を読み返すことがよくある。

8割ぐらいは覚えているが、こんなことを考えていたのか、と驚く2割が必ずある。この感覚がたまらない。文章を書いていた瞬間の匂いや味まで思い出すような、妙な感覚だ。

よく知っているはずなのに、誰だこいつと、自分自身に対して思う。

そういう時、朝と夜の自分が同一人物だなんて思えなくなる。そうして、どんな怒りも、一過性のもの、もしくは私の脳みそが見せている幻なんじゃないかと思えてくる。

東海道四谷怪談 2019年9月 南座

念願の四谷怪談

関西では26年ぶりの上演。私にとっては初であり、生の舞台で鶴屋南北の作品を見るのも初めてだった。

 

私の初めての四谷怪談は1997年発行の京極夏彦の小説「嗤う伊右衛門」だった。怪談も歴史モノも苦手だった私が、人生で初めて読んだ時代物小説でもある。

京極夏彦が、定説となっている四谷怪談を読み替えるというのが、おそらくこの本の凄みだと思うのだが、いかせん私は元を知らなかった。ただただこの小説が好きで好きで、実際の四谷怪談とはどんなものなんだろうかと夢を膨らませていた。

歌舞伎などの四谷怪談と、京極小説はまったく違う、とは思ってた。けれど、想像以上に違っていたので、ここまで読み替えるなんて、京極夏彦ってすごすぎるなと改めて「嗤う伊右衛門」という作品が異質だったことを思い知った。

 

歌舞伎版を見て思ったのは、自分が「四谷怪談」を好きなのではなく「嗤う伊右衛門」という作品が好きだということだった。怪談話はどうも腑に落ちない。エンターテインメントとして楽しめない、という感覚だ。

私自身にコンテクスト(文脈)を読み解く力がないという問題もあるだろう。また、現代において数多くの物語を読み聞きした自分にとって、展開の面白味を感じにくいという問題もある。そうなると、どうしても役者の魅力で作品を見るしかなくなる。こういう状況だったので、ついつい役者の方へ、厳しい目が向いてしまった。

 

もともと、歌舞伎芝居というのは、物語(ストーリー)が主役ではなく、役者をより魅力的に感じるためのエンターテインメントだ。

愛之助伊右衛門は、悪くはない。でも魅力的かと言われるとそうは思わない。立ち姿もかっこいいし、顔もかっこいい。芝居も間違っていないと思うけれど、それ以上の何かがない。おそらく、好きになれないんだと思う。

妻に毒を盛る極悪な男の、どこに好きになる要素があるんだ、と思われるかもしれない。しかし、この色悪の代表である伊右衛門。彼がなぜただの悪役ではなく「色悪」と呼ばれているのか、という点を考えてみたい。

 

「色悪」は歌舞伎のキャラクター用語で、鶴屋南北が作り出したとも言えるキャラ類型だ。現代で言えば「地味っ子メガネ」とか「天然美少女」とか、そういう言葉に当たる。

辞書には、「外見が二枚目で性根が悪人」とか「表面は二枚目であるが、色事を演じながら、実は残酷な悪人で女を裏切る悪人の役」と書かれている。

これだけ聞くと、いわゆる「悪美形」か、と思わなくもない。美しくて悪いヤツ。そういう意味は多分にあるのだろう。ただ、私はこの「色」という言葉はただの「美形」を意味しているのではないと思っている。

「美しいもの=魅力的なもの」と考える人は多いが、それは決してイコールで結ばれるものではない。魅力的なものの一部に「美しいもの」は入っているが、美しいもののすべてが「魅力的なもの」ではない。

「色」は「色事」のイロで、性愛を含む恋愛の概念だ。そこには、現代で想像する恋愛とはかなり違った価値観があるだろうし、性愛を突き詰めた遊び(であり本気)なのだと思う。

民谷伊右衛門は悪い男だ。妻に毒を盛って殺し、死体を川に流したりする。でも、彼が「悪人」ではなく「色悪」なのは、見た目が良いという意味だけではなく、「好きにならずにはいられない」という点だと思うのだ。

こんなに悪いヤツなのに、目がそらせない、ついつい見てしまう。惹きつけられて魅入られてしまう。それこそが「色悪」なんじゃないかと私は思う。

観客は、悪に恋をしてしまう。だめだと思っているのに好きになってしまう。そういうジレンマを感じることがエンターテインメントなんじゃないだろうか。

だから、伊右衛門は魅入られてしまうほどかっこよくなければならない。それは見た目の美しさだけではない。人間的な魅力、思わず愛してしまいそうになる何かが見えなければならない。

そういう意味で、愛之助演じる伊右衛門はかっこよかったものの、魅力的ではなかった。ただの悪役に見えた。

七之助にしても中車にしても、また脇役の演者にしても、全体的に声がよくないのが気になった。壮絶なシーンが多いので、怒鳴り気味になるのは仕方がないのかもしれないが、一本調子なので飽きてしまう。声の強弱だけではなく、高低の変化でセリフを言って欲しいと思うところがあった。

演出に関してもメリハリの薄さが気になった。直助がお袖に横恋慕する前半のシーンは、もっと軽妙に、笑いが起こるぐらいの演出の方が良かったと思う。ほのぼのした日常から、突然、殺人のような陰湿なシーンに切り替わる方がショッキングだ。さっきまで一緒に楽しくすごしていた人物が、人殺しをしているなんて、とても刺激的だと思う。

 

鶴屋南北という人の作品を、あらすじだけでたどると、とても好きだなと思うのだけれど、いざ歌舞伎を見るとハマらないという、なんとも消化不良なことが多々ある。

役者が違ったり、演出が違うと、ガラリと意味が変わるのが舞台のおもしろいところでもある。いつか理想の南北作品に出会えるといいなと思う。

 

嗤う伊右衛門 (中公文庫)

嗤う伊右衛門 (中公文庫)

 

 

薬物依存症 著者:松本俊彦

ひょんなことから「オピオイド危機」という単語を耳にして、ネットで検索していたところ、本格的に薬物依存症とは何だろうかと興味を持ち、病理学の本などを読んでいた。オピオイドの機序や麻酔薬について、知っているようで知らないことが多かった。

薬物というと、なんだか縁遠いものに感じていたが、よくよく考えてみると数年前に全身麻酔で手術をした。その時に用いられた麻酔薬はオピオイドだろう。(正確には色々違うのかもしれないが)

おお、私も体験してる!と驚いた。

この時の記憶は一切なく、麻酔が回った瞬間に世界が真っ暗になって、気がつけば12時間ほど経過していた。

 

この数年間、何度か手術を体験するうちに、自分の中の境界線が揺らいでいた。たとえば投薬。体に良い薬と、麻薬の違いだとか、医師の手術(侵襲)と殺人の違いだとか。同じ行為でも目的が違えば、功罪がひっくり返る。

それは発酵と腐敗が、同一の作用であるのに、人にとって「有害」か「無害」かで言葉が変わるのとよく似ている。

もちろん、それが有害か無害かというのは、実際にはとても重要な問題だし、同一の行為だから同じ意味であるべきだ、などとはまったく思っていない。殺人と医療行為は、体を傷つけるという行為「だけ」が似ているのであって、その意味はまったく違う。

ただ、人間の行動と、社会的なルール(法制度)にはどうしても相容れない部分が多い。それは人間が生物だということに由来している。

 

自然界はすべてゆるやかにつながっていて、グラデーションのように変化していく。けれど法制度や社会のルールはそういうグラデーションには対応できない。本来は切り離せないものを切り離し、別の事象として扱わなければ、立ち行かなくなる。

薬物依存症を始めとする、犯罪行為ににつながる依存症(盗癖や性的嗜好)は、そういう法律と人間性のはざまに取り残された病気のように思えた。

通常の病気は、他人に迷惑をかけるものではない。本人が苦しいだけだが、依存症はそれが犯罪(他害)につながりやすいという点が解決を難しくさせている。

他害が目立つと、それを病気だと認識することも難しくなる。私自身にもそういう偏見が多くあった。

 

本書の中でとても印象深かったのは、エドワード・J・カンツィアンというアメリカの精神科医が指摘した「依存症の本質は快楽ではなく苦痛にある」という話だった。

とても簡単に言えば、幸せな状況に快感がプラスされても依存的にはならないが、不幸な状況を一時的に忘れるための快感は、依存的になるという話だった。

この話はかなり衝撃的だった。確かにそうとしか思えない。

暴力や極度のストレスにさらされた状況で、一時的にそれを忘れるためにアルコールや薬物を使う場合、それはその人にとっての鎮痛剤のような役割を果たす。それこそ、鎮痛剤も依存性があったりするわけで、痛みから逃れるためなら人間は何だってすると思った。

以前、歯医者で親知らずを抜いた後、ズキズキと痛みが襲ってきたことがあった。鎮痛剤を飲むのが少し遅れたせいで、たまらない痛みに襲われた。思わず壁を殴りそうになり、そういう暴力的な自分がいることにとても驚いた。

親知らずの痛みと比べるのもどうかと思うが、ああいう状況が続くなら、やはり一時的にでも痛みを和らげてくれるものに頼るのは、必然のような気がした。

 

心の痛みや孤独、不幸な状況というのは目に見えない。目に見えないものはどうしても認識しづらくなる。これが、足が折れているとか、体中に包帯が巻かれている、という状態なら、怪我や病気だと認識できるが、心の中は他人にはわからない。

見えないものや、わからないものは、どうしても「無いもの」だと勘違いしてしまう。不幸な状況を他者が認識するのはとても難しい。ともすれば本人さえも気づいていない場合が多い。

 

他害が含まれる病気というのは、人間関係を失うという最大のリスクがついてまわる。人から愛されない、人から疎まれる、友人がいなくなる、家族を失うという状況は、よりいっそう病気を進行させる。

孤独が病気を呼び、病気が人を遠ざけ、さらに孤独になっていくという悪循環ができあがる。

とても難しい問題だと思う。私は身内にそういう人物が多い家庭環境で育ってきたため、簡単に助け合おうなどとは言わない。愛情に飢えた人間の怖さはよく知っている。あれに付き合うことは本当に難しい。底なし沼に引きずり込まれるようなものだと思っている。けれど、人の力を借りなければ回復しない病気だということもよくわかる。

ひとつ言えることは、「私が他人なら、もっと気軽に助けてあげられたのに」とずっと思っていたことだ。

身内は距離が近すぎて、手助けする側に逃げ場がなさすぎる。身内同士だと要求もエスカレートして容赦がなくなる。だから、いつでも縁が切れる他人ならば、自分の心に余裕がある時だけ、少し話を聞いたりすることはできるだろうなと思っていた。表層的でもいい。ほんの数秒のやりとりでもいい。

それこそ、販売員に優しくしてもらったとか、誰かに道を尋ねて快く対応してもらったとか。本当にその程度のことで、人の心は救われる瞬間があるんだと思う。

私は身内を助けることは、おそらくできないけれど、その分、自分が出会った見知らぬ他人には優しくするように心がけている。

病気のことを理解する人が増えればいいと思うけれど、大したことはしなくてもかまわないと、個人的には思う。

余裕がある時に、少し他人に優しくするだけで、孤独というものは少しづつ消えていくと思うから。

 

 

薬物依存症 (ちくま新書)

薬物依存症 (ちくま新書)

 

 

 

2019年8月のあれこれまとめ。

<今月の読書>

 全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション 辻惟雄

三遊亭圓朝の明治 矢野誠一

三遊亭円朝江戸落語 須田努

遊びと人間 ロジェ・カイヨワ 多田道太郎/訳

いちばんやさしい薬理学 木澤靖夫

これならわかる!薬の作用メカニズム 中原保裕

薬がみえる vol.2 医療情報科学研究所

薬がみえる vol.3 医療情報科学研究所

疫病神シリーズ 疫病神~喧嘩 黒川博之

いけない 道尾秀介

 

今月は小説が多めだった。

ドラマからハマって、ようやく原作に手を出した疫病神シリーズ。

大阪が舞台になっているので、知ってるところも多くておもしろい。内容はけっこうハードなところもあるので、キャラクター小説としては好きだけど、本来的にはハードボイルド小説は苦手だなと思う。

 

道尾秀介の「いけない」は、帯の煽りがすごかったので読んでみた。びっくりするオチという評判だったけど、私にはイマイチだった。策士策に溺れるじゃないけど、文章をひねりすぎている気がする。犯人の動機や心情の整合性がとれていないと、どうしてもそっちが気になってしまう。インタビューをチラっと読むと、本をあまり読まない人におもしろいと思って欲しいから書いた、という趣旨のことが書かれていた。そういうことなら、自分がどう思おうが関係ないなとも思う。

 

森博嗣だったかが言っていたが、本を読むという趣味は、実はとてもマイナーな趣味だという。ほとんどの人が本なんて読んでいないと。

本好きは、自分が本好きの自覚がないため、全体像を見誤ることがあるらしい。私は本好きだと思っているが、多読をしているとは思っていない。むしろ、自分は本好きの中では、あまり本を読まない人間だと思っている。読む速度も遅いし、ななめ読みや、好きなところだけ、オチだけ先読みもする。なんとも荒々しい本読みだと思うから。

 

読書が好きになるきっかけは何だろう。

私の場合は単純明快で、エロ本が読みたかったという理由だった。小学生の頃はお姫様が出てくる絵本が大好きで、そこから少女小説をこっそり読み、それでは満足できなくなって、いわゆる文学作品にも手を出し始めた。だんだん小説のパターンにも慣れてきて、大学生になると論文系もガツガツ読むようになった。仕事柄、医療論文を読む機会があったこともあり、難しい文章の読み方というものにも慣れていった。

でも、一番最初の動機は、恋愛小説が読みたいという欲望のみだった。小学生の頃の担任に「どんな本でもいい。漫画でもエロでも何でもいいからとにかく文字を読みなさい」と言われたことに後押しされ、その言葉を真に受けて、エロ本を読み漁るという暴挙に出たのが良かったのかもしれない。ありがとう担任。

 

本が楽しいならずんずん読めるはずだ、という思いが私にはある。難しい本なんて読まなくていい。読みたい本を貪るように読めばいいじゃないかと思う。インターネットやTwitterでテキストを読む行為だって、本を読む行為に似ていると思う。だから、それで慣れて飽きるほど読めば、次のステップに進みたくなるんじゃないかと期待している。

だから、道尾秀介が「いけない」を、あまり本を読まない人に向けて書いたという話は、小説家として素晴らしい姿勢だなと思う。そういうエンタメ作家は、やはりあまり多くないと思うから。

 

あと、今月は100de名著がロジェ・カイヨワの「戦争論」だったので、関連書物に手を出してみた。まだまだ浅くしか読めていないので、感想は書けないけれど。

それから、薬物関連のニュースが流れてくる中で「オピオイド」という単語がみょ~に頭にひっかかって、そういえば薬の機序をあまり理解していないなと思い至り、薬学関連の本を読んでいる。

 

<今月のドラマ>

黒川博之つながりで、森山未來主演の「煙霞」を見た。

監督は映画版の「破門」を撮った小林聖太郎

破門より、こっちのドラマの方がおもしろいなと思った。ちょっとテンポがゆっくりなのが気になったけれど、キャストが全員関西出身なので、しゃべりを聞いてるだけで心地良かった。

特に高畑充希の女教師がハマっていてびっくりした。清楚な女の子を演じているイメージが強かったので、こういう役もいいなと思った。森山未來とのかけあいも絶妙で、いいカップル。

森山未來演じる美術教師は、いまでこそ絶滅したと思うけれど、こういう先生いたな~と思わせられる妙なリアリティがあった。(作者本人に近いのかも)

ふと思い返してみると、小学四年生から高校三年生までの九年間、私の担任は全員こういう自由人な男性教師だった。仕事よりも優先するものがある人ばかりで、趣味に生きている人だった。教職というのは、昔はそれぐらい自由な面があったと懐かしく感じた。

 

 

英雄たちの選択「名人円朝 新時代の落語に挑む!~熊さん八っつぁんの文明開化~」

NHKのBSで放送している「英雄たちの選択」という番組がある。

歴史上の人物を解説し、何かを決断する瞬間をクローズアップした歴史番組だ。歴史番組なので、基本的に戦国武将やそれに関連する人物しか出てこない。日本史は平安時代までと、明治以降しかわからない超絶歴史オンチのため、少しでも楽しく知識を増やせればと、なかば義務のように見ている。番組を見ている瞬間は「ほほ~!」と納得するものの、知識は1週間ほどできれいサッパリ流れ落ちる。

あれだけ、「なるほど!」と思ったはずの応仁の乱も、今は薄ぼんやりとしており、誰にも説明することはできない。なんなんだろうか、この歴史オンチぶり。

 

歴史を理解できないのは、闘争心の欠落が原因じゃないかと思っている。負けず嫌いではあるけれど、たとえば誰かの何かを奪いたいとは思わない。功名心もなければ、支配欲もない。大勢の人間に何かをわかってもらいたいとか、大勢を従えたいとか、そういう巨視的な感覚もないので、土地を奪い合うことへの欲求が理解できない。

いや、もちろん、平和のための戦争ということはあるだろう。戦わなければならない瞬間もあるのは頭では理解できる。ただ、それを後世の私が「楽しめるか・興味を持てるか」は別問題だ。

戦略面で言えば、ゲーム的楽しさでもある。対戦系のゲームや、チームスポーツなどは戦争と通ずるものがあり、その戦略性を楽しむ人も多い。だからこそ、多くの人が戦国武将の戦い方に魅了されているのだろう。

 

日本史の授業を受けていた時、どうにも歴史に興味が持てなかった。それはすべて戦う人々の理論で成り立っていたからだと思う。

私は、和歌や絵や文学からでないと、その人物を理解することがうまくできない。たとえば、画家が世界に憤る気持ちは手に取るようにわかるのに、戦国武将が戦う理由はまったく理解できない。どこまでいっても、小さな個人の感情(欲)しか感覚的につかめない。それ以上を望む人の欲は体感がついていかない。たとえそれが、どれほど個人的な私の思い込みであったとしても。

 

そんな中で、珍しく戦国武将ではない人物が特集されていた。

三遊亭圓朝だ。

 

……え? 誰?

 

私の最初の感想は、こんなもんだった。

落語にあまり詳しくないうえに、上方落語しか知らないもんだから、初めて聞く名前だった。あの有名な「牡丹燈籠」とか「真景累ヶ淵」の圓朝だよと言われても、全然わからない。というか、そもそも落語が元ネタだと知らなかった。

 

そういえば、関東の落語は人情話や怪談話が多い気がする。上方落語には人情話は多少あっても、基本的に笑い話がメインだと思うし、私がこれまで聞いたことのある話も(たいした数ではないものの)笑い話しかなかった。

落語を題材にしたドラマや漫画を見るたびに、関東の落語に脈々と流れるあの感じ、のほほんとしてない感じって何なんだろうと、漠然と疑問に思っていた。そもそも、落語の始まりや発展の経緯がかなり違うのだと、この番組を見て感じた。

 

番組を見て、ちょっと気になったので圓朝についての本も数冊読んでみた。「牡丹燈籠」と「真景累ヶ淵」の詳細なあらすじも読んでみて、なんとも因縁深い話で、興味がわいた。

この番組でも、解説本でも書かれていたが、圓朝の怪談話は、幽霊そのものが怖いという話ではなく、そこで翻弄されていく普通の男が、欲望のままに変化していくことが「怖さ」だとされていた。

なるほど。

状況が整えば、人は人を殺してしまうし、人を殺しすぎると心理的ハードルが下がって次々に殺してしまう。そういうことの怖さとか、欲を描いていると言われると、とても興味深い。

私は怪談やホラーが苦手で、怪談の類はほとんど知らない。だから、ぼんやりした知識しかなく、怪談の本質をまったくつかめていないんだろう。

怪談のおもしろさは、おそらく「説明がつかないこと」なんだと思うが、私は答えがないものがとても苦手だ。不思議な話にも、徹底的に合理的な説明が欲しいと思ってしまう。不思議を不思議なままで受け止める度量がない。

「落ち」や「整合性」があることが、ある意味でエンターテイメントの魅力だと思っている。現実には、わからないことはたくさんあるし、知りたくても知れないことは多い。説明がつきすぎるエンターテイメントはつまらないと思うが、少なくとも作者や監督の中には合理性があるという前提だと推測する。答えはあるが、表現上、提示されていない、は受け入れられるが、怪談話はそうではない。落ちないことが、落ちなんだろう。

 そういうわけで、怪談を楽しむ人の気持ちがわからなければ、怪談の本質はつかめないような気がしていた。けれど、面白いと怖いは本質的には親しい位置にあるのかもしれないと思い始めた。

まあ、親しいということは、違うということでもあり、その小さな違いこそが大きな違いでもあると言えるんだけれど。

 

江戸落語は、鬱屈した気分を晴らしたい男たちのためにあったと番組では説明されていた。急速に発展していく江戸という街には、建設業に関わる男たちが多かったらしい。

東西の芸事の違いというのは、テレビやラジオが普及してなかった頃の芸能を見ると、如実に現れている。その理由がずっとよくわからなくて納得できなかった。けれど、男女比の偏りがあったという説を聞いた時、今までで一番腑に落ちた。

上方では長男以外の男手は必要とされず、女が多かったという資料もあるらしい。上方歌舞伎では、「つっころばし」や「ぴんとこな」と呼ばれる色男ながら頼りのないボンボンのキャラクターの型があるが、冷静に考えて、こんなキャラクターを好きになる男はそう多くない。観客は女だったと考える方が自然だ。

逆に、荒事と呼ばれる弁慶だとか、力強そうな武士たちは、男が好きそうな男だ。

落語の観客にも、こういった違いがあったと考えるのが自然だろう。

 

 

 話がずいぶんそれてしまった。

 

結局のところ、私自身が「いかがわしいもの」が好きすぎるがゆえに、勧善懲悪の荒事や、社会風刺を目的とした落語という芸を好きになれないんだろう。

 

けれど、圓朝の怪談話は「いかがわしいもの」の匂いがした。

だから、私は興味を持って見ることができたんだろう。

 

人間の欲望というものは、なぜこんなに魅力的なんだろうか。

 

 

三遊亭円朝と江戸落語 (人をあるく)

三遊亭円朝と江戸落語 (人をあるく)

 
三遊亭圓朝の明治 (朝日文庫)

三遊亭圓朝の明治 (朝日文庫)

 

 

 

アキラとあきら


アキラとあきら - WOWOW連続ドラマW特別映像

 

シネフィルイマジカがWOWOWになってから、WOWOWドラマがよく放送されるようになった。

テレビ好きならWOWOWに加入するべきだと思いつつ、どうにも加入する気になれない私にとって、連続ドラマWの一挙放送は本当にありがたい。「アキラとあきら」は3週間にわたって、3話ずつ放送されているのを視聴した。

 

いや~おもしろかった!

TBSの池井戸作品ほど、やりすぎていない演出がよかった。主演の二人、斎藤工向井理のスーツ姿がかっこいい。ちゃんとバブル期っぽい髪型とダサめのスーツなのに、しっかりかっこよく着こなしているのも良かった。高身長の二人なので、スーツが本当によく似合っていた。

自分のフェチなのかわからないけど、カッターシャツとスーツの襟元ばっかり目がいってしまった。とにかく襟がでかい。でもそれが心地よい。あの襟元は見事だった。

脇役の皆さんも豪華で、鶴見辰吾がチラッと出てきたり、ラスト近くで上川隆也がスッと出てきたり。えーっ!これだけのシーンでいいの!?と勝手にこっちが心配してしまった。この贅沢な配役、WOWOWドラマならでは。

石丸幹二がいて、利重剛がいて、羽場裕一がいて、小泉孝太郎がいて、松重豊がいて、何を望むよ、それ以上って感じだ。

 

群像劇の良いところは、役者がたくさん見られるところと、それぞれのキャラクターがいい加減にならないところだ。

出番が少ししかなくても、それぞれのキャラクターに役割と背景があって、画面には映らないキャラクターの過去がチラ見えする俳優の佇まいに「あ~っ!!たまらんっ!!!」と思いながら見る喜びがある。

 

池井戸作品は各テレビ局でドラマ化されているけど、ガチ系の演出はWOWOW版がお金もかかってておもしろい。

TBS系は半沢直樹以外はどれもイマイチで、ほぼチェックしてるもののギャグドラマとしてしか楽しめない。

日テレの花咲舞や、テレ朝の民王のように、ギャグ路線と割り切ってる演出もかなり好きなだけに、中途半端なTBS演出がなんだかな~と思ってしまう。

半沢直樹の続編、どうなるのか。心配と期待が半々。