悪夢を見るということ。
夢をよく見る。
私の場合は、淡くてくすんだ色合いの夢が多い。
夢の色は、記憶の色にとても似ている。過去の記憶が夢の中で再利用されているのか、それとも夢を過去の記憶のように勘違いしているのかはわからないが、とにかく夢と記憶はとても似ている。
ある人は、極彩色の夢を見るというし、またある人はモノクロの夢を見るという。現代人はおそらくカラーが多いんじゃないかと思う。それはテレビや映画の映像作品をよく見ているからだ。
だから、映像作品で見た映像を、自分の記憶と勘違いしたりする。もっといえば、自分の目で見た映像なんて、本当はたいしてないのかもしれないと思ったりする。
悪夢は、だいたいの場合決まったパターンがある。
私の場合は、とにかく試験に落ちたり、卒業できなかったり、仕事場でパワハラを受ける夢だ。これはほとんど現実に起こったことばかりで、そういう意味で夢だけれど過去の記憶みたいなものだ。
もう遠い昔のことなのに、ついさっき起こったことのように、現在進行形で起こり続けているかのように錯覚する夢は、本当におそろしい。
悪夢を見たあと、私は決まって自分の体を心配する。たとえば血糖値が乱高下するとリアルで苦しい悪夢を見ると聞いたことがある。どこまで真実かは知らないが、夢占いよりは私を納得させてくれる。
目覚めた瞬間、心が悪夢から離れない時も、体という現実を心配することに脳みそが切り替わるので、これはとても有効だ。
たいていの悪夢はそれだけのことで追い払える。けれど、時々忘れられない棘を、心に突き刺して消えていく悪夢がある。
疑惑のような夢だ。
今日の夢は、そういう夢だった。
別れた人の本心を知るという夢だった。
それが本当ではないと頭ではわかっているのに、私の疑念はどうしてもそこに戻ってしまう。こういう時、私は想像に殺されるような気がする。現実のその人ではなく、自分の頭の中で思い描く何かを、私の頭は信じそうになっている。それは想像に負けた状況だと思うのだ。
大げさな話に聞こえるかもしれないが、誰もが多かれ少なかれ想像には負けてしまう。思い込みだとか、疑いだとか、心配だとか、そういったものは現実の何かではなく、頭が勝手に考えたありもしないものだ。でも、人は簡単に想像に負けてしまう。
悪夢を見たあと、私は自分に対して強く思う。
想像には負けてはいけない。想像は自分の内側のもので、外側のものではないと。何度も何度も繰り返す。曖昧になった境界線を、くっきりと浮き上がらせるものは、現実の手触りや、誰かの声しかなく、急いで窓をあける。寒い冬の温度は、いつでも私を現実に引き戻してくれる。だから私は、冬がとても好きだ。