好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

やることがなくなった日常

2020年4月から、ほぼずっと自宅に引きこもりながら、ほそぼそと請負の仕事をしていた。それも年末あたりから業績悪化にともない、仕事がなくなってきている。どうしたものかと思いつつ、とりあえず未来のことは考えないようにして生きているが、どうにも何もやることがなくなった。

ゲームが好きなので、ほぼ毎日ゲームばかりしている。1日12時間ぐらいやっている。時々仕事が入ったらそっちをやるという、理想的な生活ではあるが、とにかくお金が続かないのが恐怖。かといって、外に出て仕事を探すわけにもいかず、どうしたもんかなーと思いながら、毎日やっぱりゲームをする。

未来さえ考えなければ、私にとっては幸せな日常だ。だから、できるだけ今の楽しみを見つめることにしている。何も考えずに家でゲームをしたり本を読んだり映画を見る毎日は、絶対に幸せだ。その幸せがたとえ終わるものだとしても、幸福を100%以上に感じたいと思ってしまう。こんなところも貧乏性かもしれない。

私はプレッシャーがかかると文章を書く癖がある。現実逃避の方法だからだ。初めて小説を完成させたのは、愛犬が病気で死にそうになっていた時だった。現実を見るのが怖くて、せめて空想の中で息抜きをして精神を保とうと必死になったのを覚えている。他のことを考えていないと愛犬のことばかりが頭に浮かんで怖くなってしまうからだった。つまり、このブログが発動しているということは、やはり精神的に追い詰められているんだろうと思う。

ただ、そういう状況も後から見返してみると、必死さにおもしろみがあったりするので、未来の自分のために書き残しておきたいと思う。

何かを作る時、いつも「恥ずかしくないもの」を作ろうとする癖がある。立派な話だとか、感動する内容だとか。でも、それは間違いだ。他人が見て「恥ずかしいな、こいつ」と思われるものこそが、見世物として価値がある。

深夜のラブレターは、もらう側は迷惑千万かもしれないが、それを遠くから見る人にとっては痛ければ痛いほどおもしろい。だから、ラブレターは深夜に書くべきだ。そして思い切り恥をかくのが素晴らしい。その瞬間にしか生まれないパワーがあるからだ。

このブログを立ち上げた時、なるべく本当のことを書きたいと思っていた。自分は他人に心の内をあまり見せないので、そういう見栄を取っ払ってみたいと思っていた。また哲学や学問が好きなことも、私の感覚では恥ずかしかった。気取った人間だと思われるのが怖かったからだ。けれど、自分は人間の生きる意味や、善悪や、社会のシステムに強い興味を持っている。解決能力があるわけではないが、ただ考えることが好きなのだ。そういう自分を、かつての配偶者以外には見せずに生きてきた。

現状、社会がどのように変わっていくのか、また自分がどうやって生きていくのかがまったく不明で、不安に取り憑かれつつある。結局、何をやっても不安なら、何も考えないのも手だと思ったりもする。

強い心、何があっても自分は大丈夫と思える自信は、人生を生き抜くための素晴らしい力だ。自信に根拠なし。それでいい。

私も根拠なき自信に満ちた人間になりたい。なるぞ。おう。どうにかなる。とりあえず今日もゲームをして遊ぶ。