好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

1年ぶりの面接

仕事もなくなってきたので、適当な仕事でもやろうかと面接に行ってきた。時給1000円ほどの仕事だった。しかし、思いのほか厳しい雇用条件で、責任も重そうな仕事だったため早々に退散。

仕事内容と給料がまったく釣り合わないというのは、よくあることだと思うが、いまだにそれが続いていることに驚く。以前なら、それでもたぶん働いていただろうなと思うと、私もずいぶん適当になったなと思う。

やりたくないことはやらない。そんな当たり前のことを押し通せるまでに20年もかかるなんて、思ってもみなかった。

すべての努力が報われるとは思ってなかったが、それなりに判断されるんだと思っていた。けれど、仕事においての努力は、ただの搾取に変わってしまうことばかりだった。それもこれも、自分が交渉力に長けていないせいだった。まあ、交渉したところで、クビになるんだろうけど。

でも、不満を持ちながら働くことよりは、交渉してクビになる方が好きだ。そういう選択ができるようになった自分を褒めたい。

 

従順さ、というのはどこで獲得するものなんだろうか。

 

私は、学校教育に対して従順な生徒ではなかった。遅刻欠席は当たり前だったし、宿題もしていかない日の方が多かった。提出物は出さないし、単位も足りず、大学は留年に次ぐ留年だった。勉強が嫌いだったわけではない。むしろ、学問が好きすぎて、学校教育という場が合わなさすぎたのだと思う。本を読むだけで理解できることを、さらに授業で説明する意味がわからなかったのだ。教科書の知識をふまえて、議論や対話をすることが講義の本質だと(少なくとも大学では)期待していた。けれど現実は、論文が書けなかろうが、テストの点が悪かろうが、ただその場にいて出席しさえすれば、単位がもらえるシステムだった。その現実に、ひどく落胆した。あまりに退屈で苦しかった。そして、学校には行かずに家でゲームをするようになった。

 

教育とは、学問を学ぶ場ではないのだと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。毎日決まった時間に起き、決まった時間に通学し、極端な欠点のない能力を持つことが求められるのが、現実の教育だった。それは社会に出て、迷惑をかけずに従順に働くための準備だったのだ。

 

いわゆる普通の会社に行くと、私はいつもこの問題にぶち当たる。毎日会社に通うことが苦痛になってしまうのだ。それは、通うことそのものも苦しいのだが、むしろ、それを「当たり前」としている人々の価値観に苦しめられる。

家族よりも仕事を優先し、自分の待遇の不満も言わず、顧客に尽くし、会社のために働く人々の価値観が、怖くて怖くて仕方がなくなるのだ。

ある会社に勤めていた時、オフィスビルが大量に立ち並ぶ大通りを深夜に歩いていた。その時、私は急に涙が止まらなくなってしまった。ここにいたくないと、強く思ってしまった。泣きながら電車に乗ることが恥ずかしくて、私は3駅分の道のりをひたすら歩いて帰った。

あの日の夜景は忘れられない。

月明かりの中、まっすぐに立ち並ぶビルはきれいだった。舗装された道路にゴミはなく、整えられた街路樹が並んでいた。美しい景色だった。でも、ただ怖かった。なぜここで働けるのか、理解できなかった。

会社勤めは何度か経験したけれど、いつもこの感覚が襲ってきてしまう。でも私は、この感覚が特別だとはまったく思わない。

あのビルの中で働く多くの人が、私と同じような感覚を持っているんだと思う。仕事なんて辞めたくて仕方がない。そういう人はたくさんいる。誰にとっても素晴らしい環境は存在しないが、なるべく多くの善良な人が幸せになる世界の設計。そういうものを、実行はできなくとも、考えることだけはやめたくない。