好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

人狼 JIN-ROH (アニメ映画)


Jin-Roh: The Wolf Brigade 人狼 (1998) HD trailer

 

 

今年からシネフィルWOWOWで毎月やっている「世界がふり向くアニメ術」というコーナーがある。

 

アニメ映画作品の放送と、それに関する解説を氷川竜介さんが行っていて、当時のスタッフさんへのインタビューなんかもある。

毎月楽しみにしていて、そんな裏話があったのかとか、そんな意味があったのか、なんて思いながら見ていた。

ひょっとすると本編よりも解説の方が好きかもしれないってぐらい気に入っているコーナー。

 

4月は、押井守原案・脚本、沖浦啓之監督の「人狼JIN-ROH」だった。

これまで、このコーナーで紹介されるアニメ映画は、すべて見たことがあるものだった。

攻殻機動隊カリオストロの城、パプリカなんかを放送していた。

けれど、この人狼はまったく知らなかった。

2000年のアニメ映画で公安やテロリストが出てくる作品、ということだったので、私がスルーしたのも納得だった。

もともとSF関連への興味のなさに加え、政治色の強い作品や戦争作品は完全スルーを決め込んでいたので、脳みそが拒否していたんだと思う。

最終的には、2004年の「イノセンス」をきっかけに、押井守大好きになってしまうんだから、好みっていうのはよくわからない。

そういうわけで私の押井守歴はイノセンスからさかのぼっていくことになる。

イノセンス」→「攻殻機動隊」→「攻殻機動隊TVシリーズ」→「パトレイバー劇場版」といった具合。

ビューティフルドリーマーに至っては、つい先日、全部見ることができたぐらい、新参者だと思う。

 

監督の沖浦啓之作画監督西尾鉄也など、ああ!ぽいな!ぽいな!というメンツが並ぶ。

最後のセルアニメとも呼ばれている作品らしい。

 

舞台が敗戦後の日本。昭和30年~40年ぐらい?だと思う。

テロリストの女と、特殊部隊の男の、恋愛なのか、恋愛にもならない何かを描いている。

この作品では、赤ずきんの物語がメタファーになっていて、テロリストの赤と赤ずきん、人殺し(人間ではないもの)の象徴としての狼というふうになっている。

 

私の個人的な違和感なんだけれど、私はどうも狼=悪だとは思えない。

私にとって狼=神の方がイメージに近い。

以前、動物というモチーフと文化の関連が気になって、ちょこちょこ調べていたことがあるんだけれど、西洋では狼は怖いもの・悪いものの象徴だったらしい。ヨーロッパもそうだし、アメリカ大陸のコヨーテなんかもそうだ。

田畑を荒らし、家畜を食い殺す、集団で襲ってくる悪魔のような存在。それが西洋における狼像だ。

カラスなんかもそうだけど、西洋と東洋では役割や意味が違う。

日本では八咫烏は神様の使いだし、カラスや狼と悪としてしまう感性が、どうも西洋的だなあと思う。そこにまずひっかかってしまった。

 

ひっかかると、この制作者の意図はどっちにあるのかがわからなくなった。狼=悪としているのか、日本的な狼=神々しいというメタファーも含んでいるのか、どっちだったんだろうか。

赤ずきんをモチーフにしているなら、西洋的な狼=悪として描いているのかなと、一応判断した。

そうすると、なんだか昭和の日本を描いているのに、モチーフが西洋風で、地味な違和感を覚えてしまった。

 

その違和感そのものが、戦後の日本の混乱期(西洋化・近代化)の違和感と合致すると言われれば、そうかもしれない。

なんとも座りの悪い、はっきりしない感じ。でもその効果は、たぶん物語に良い影響を与えている気がした。

 

どの人物にも共感はあまりできないし、おもしろい話かと聞かれれば、陰鬱な話だと答える。

でも、興味深い話ではあるし、映像は見る価値がある素晴らしいものだった。ただ、二度目はないかなと思う。

 

ひとつ、とても良かった点は、女テロリスト雨宮圭を演じた武藤寿美さんの演技だ。

終盤、主人公の伏に向かって思いの丈を叫ぶシーンがある。

その時の彼女の言い分が、まあ身勝手なのだ。利己的で、自分のことしか考えていない甘えたことを叫ぶんだけれど、武藤寿美さんの声は本当に身勝手で未熟な少女の残酷な声に聞こえる。

その時まで気づかなかったけれど、はっと思い出したのは「イノセンス」のシーン。

私はこれとまったく同じことをイノセンスで思った。

イノセンスでも、利己的なことを叫ぶ少女の声を、武藤寿美さんは演じていたのだ。

 

映画はいろんな要素で成り立っていると思うし、それぞれのパーツが組み合わさって様々な効果を生んでいると思う。

 

でも、この武藤寿美さんの声を活かすためだけに、映画が作られたんじゃないかって錯覚するほど、耳に残って離れない印象的な声だった。

 

 

人狼 JIN-ROH

人狼 JIN-ROH

 

 

 

古典芸能への招待「野晒悟助」

3月末に録画していたけれど、ずっと見る時間が取れず、ようやく見ることができました。

土曜日の昼下がり、部屋を片付けたあとにごろごろしながら、三味線の音をバックに歌舞伎鑑賞できるなんて、幸せの極みです。

 

2018年6月の歌舞伎座で上演。

主演は尾上菊五郎

 

初めて見る演目で、「野晒悟助」がまず読めない。

ざらしごすけって読むみたいですね。

ざらしとは、主人公である悟助の職業が「葬儀屋」ということに由来してるそうです。

ざらしになってるドクロから来てる言葉だそうです。

 

悟助は、一休宗純に育てられた人物で、暴れん坊だったため俗世に戻されたという設定。元坊主だったこともあり葬儀屋を営んでいる男伊達。

 

この物語、男伊達と呼ばれるキャラクター設定の人物が3人出てくるのですが、私はこの「男伊達」というものが、未だによくわからない。

弱きを助け強きを挫く、平たく言えば、かっこいい男ってことなんですが、現代にこの概念が当てはまるちょうどイイものがなく、頭では理解できていても、いまいちしっくり来ていない。

 

姿形が良いという意味ではなく(いや、もちろん姿形もいいのですが)、心意気がかっこいい腕っぷしの強い男、っていうのが一番近いのかなあ。

そもそも、私が「男伊達」という言葉に出会ったのは、中学生の頃。

劇団四季の「CATS」でグロールタイガーの曲にあった「悪事の限りをやり尽くした のさばりかえってる 男伊達」だった。

厳密に言えば、これって歌舞伎で言う「男伊達」と違うんじゃないかと思うんだけど、言葉の変遷はどうなっているんだろう。

「任侠」という言葉も、昔と今と、そしてちょっと前と、意味がけっこう違っているんだけど、男伊達もそれに似た違いを感じてしまう。

 

つまり、アウトローな人間の扱いが違うんだろうと思う。

社会や文化によって、何を悪とするかが違っているせいで、ぴったりと理解することが難しい。

少なくとも、歌舞伎における男伊達に、アウトロー(脱法性)という属性は付随していても、(人間性における)悪人という属性はついていない。

現代ではアウトロー=ほぼ悪人として描かれるので、そういう間違いがこちら側にあるんだろう。

 

まあ、そんな色男、男伊達が主人公の悟助さん。

 

舞台は大阪の住吉大社から始まる。

ここがまたおもしろいところで、大阪なのに上方言葉ではなく江戸の言葉が使われ上演されている。

私はこういう演出が好き。

無理やり別の地域の言葉をしゃべるより、自分たちの言葉を使うのはとってもいいと思う。リアリティなんぞ知らん知らん。

以前に見た「夏祭浪花鑑」も舞台は大阪だったけれど、上方言葉ではなかった。もちろん、関西出身の役者さんなら上方言葉でぜひとも演じてほしいけれど、そうじゃないなら無理することはない。

その方が双方にとって幸せな気がする。

 

そういえば「夏祭浪花鑑」も住吉大社から話が始まっていた。

私は大阪というかほとんど京都みたいな場所に住んでいるので、関西では絶大な支持を誇っている住吉大社に行ったことがない。

でも、大阪に住んでる友達は住吉大社のことを「住吉さん」とめちゃくちゃ親しみを込めて言っているから、本当に愛されてる神社なんだなあと思う。

歌舞伎の演目で、住吉大社を見るたびに、こんなに以前から愛されているランドマークだったんだなあとしみじみしてしまう。

自分が知っている場所、よく通る場所が舞台になっていると思うと、ちょっとしたタイムスリップ感が沸き起こってくる。その感覚がなんだか好きだ。

 

話が逸れてしまった。

 

住吉大社でならず者どもを成敗した悟助は、そこで出会った二人の娘に惚れられてしまう。

翌日、それぞれの娘が結婚して欲しいとやってくる。

でまあ、いろいろあって、悪いヤツをやっつけて終わるっていう、ストーリーはそんなに重要じゃないお話。

 

でも、このかる~い話がイイ。

なんといっても役者をかっこよく見せるためのお話だからだ。それに楽屋落ち(内輪ネタ)のようなシーンもはさまれる。

うん。おもしろい。

 

歌舞伎には心中モノや仇討ちモノなんかの深刻な話も多いんだけれど、私はこういう人情話だとか色恋の話が大好きだ。

 

もともと、時代劇や歴史小説が苦手で、何の興味もなかった。

結局そういう話は、すべて戦いの話だったからだ。

挟持とか誇りとか恩義とか、そういうものをかけた切った張ったの世界というのは、現代人の私にはあまりに遠い価値観すぎる。

そこがイイというのもわかるけれど、私はどこまでいっても人間そのものにしか興味が持てない。

せせこましい人間の感情にしか、興味がないんだと思う。

 

そういう意味で、昔の風俗を描いた話はとても参考になる。

今に通じるものもあれば、通じないものもある。

今も昔も恋心には違いはないんだと思うことも楽しいし、まったく違う価値観であっても、自分の価値観を洗い直すきっかけになっておもしろい。

 

かっこいい男に惚れる娘の気持ちも可愛いと思うし、また当時の人がこの舞台を見て、こんな男伊達になって娘二人に言い寄られたいなんて夢を見ていたのかと思うと、それはそれで興味深い。

 

パーフェクト・ワールド 第一話

松坂桃李山本美月主演の恋愛ドラマだ。

 

主演の二人が好きで、見ようと決めていた。

ただ、障害者の人が絡む話に苦手意識があり、どうしたもんかと思っていたのも事実。

 

平たく言えば「感動ポルノ」なんて言われるたぐいのことを、どうしても頭の片隅で考えてしまうからだ。

まあ、ドラマなんだから、障害者が出てくる時だけ、不謹慎だとか妙に真剣な顔しても仕方ないって思う気持ちもある。

だって、いろいろな人物、いろいろな職業の人たちが、ドラマの中では「そんなやつおるかーい!」って状態で描かれているものだから。

 

そうは言っても、なんとなく、どっかの団体が怒ってきそうだなとか、これを感動してる自分って悪いことなのかなとか、罪悪感がつきまとう。

だから、このドラマの感想を書くことも少しためらってしまう。

 

主演の二人の見た目も、とびきりイイっていうところが、またこの問題の根深さを感じさせる。

松坂桃李くんはかっこいい。めちゃくちゃかっこいい。

正統派な二枚目だと思う。

イケメンだから、障害者でもアリって思えるんだろ、なんて声が聞こえてきそうで、なんだかビクビクしてしまう。

そして、その彼に恋をする山本美月ちゃんが、また可愛い。

 

アオイホノオでトンコさんを演じていた時から大好きなんだけれど、本当に可愛い。大好きだ。

だから、山本美月ちゃんを見るために見てるんだ…!などと、言い訳しながら第一話を見終わった。

 

思いの外、おもしろかったので驚いた。

もっと深刻な話なのかと思ったけれど、きれいなラブストーリーにまとまっていた。

でも、ちゃんと車椅子のシーンのリアリティもあって、感動ポルノ感も少なく、うまいバランスで作られているように思えた。

 

話の展開はベタだったし、少女漫画的にお約束満載だった。

それでも、不思議と飽きずに最後まで見終わったのは、やっぱり主演の二人に華があるからな気がした。

 

だって、松坂桃李山本美月だよ。

ずっと見ていたくなってしまうじゃないか。

 

私が山本美月が好きすぎて、目が曇っているって言われるかもしれないけれど、彼女が演じる女の子には嫌味がなくてとても可愛い。

だから思わず、美月ちゃんがんばれー!と応援したくなる。

 

なんかね、家に帰ってきて、娯楽としてドラマを見てる時に、嫌な奴とか見たくないんだよね。

あ~素敵な話だったわ~って、そう思って1日を終えたい。

そういう気分の時に、素直でまっすぐで可愛いヒロインの恋物語はぴったり合う。

 

それはそうと、このドラマ、関東での視聴率が6.9%と、かなり低かったらしい。そして関西では10.3%と、ずいぶん開きがある。

 

火曜9時(以前は10時)のカンテレ制作の枠は、いつもこの傾向があるけれど、なぜか関西の方が視聴率が良いことが多い。

 

もちろん、というか、やっぱりというか、私も関西人なので、この枠のドラマを好きになることは多い。

 

なぜ東西でこれほど傾向が変わるのか、不思議な気もする。

 

そういえば、歌舞伎の演目も、関東では荒事と呼ばれる勧善懲悪やヒーローモノが人気だ。

私は関西で発展した、和事と呼ばれる人情話や放蕩息子が遊郭で遊び呆ける話が大好物で、昔から荒事には魅力を感じない。

不思議だ、不思議だといつも思うのだけれど、その理由がまったく思い浮かばない。

関東は武家社会だったからとか、関西は商人の町だからとか、一応の説明は受けるけれど、どうにも納得はできない。

 

そういう意味では、パーフェクト・ワールドはお約束展開の「ベタ」な話と言える。

わかりやすい恋愛ドラマのベタさは、関西人受けは良さそうだ。

でも、ベタだから好きなわけじゃないんだよっていう、この微妙な気持ちをうまく伝える言葉が、今の私にはまだない。

ストロベリーナイトサーガ 第一話

Twitterが大荒れしていた。
前作のストロベリーナイトのファンの人たちが、前作のキャストや演出方法について熱く語っていたのを見かけた。

 

私は前作を知らなかったので、このリメイク版ともいえるストロベリーナイトサーガ第一話をそれなりに楽しんだ。

 

知らないというのは、幸せなことだなと思う。

 

小説や漫画をよく読んでいた頃は、映像化に対して不平不満がとても多かった。リメイクも好きでないことが多かったし、続編もあまり期待していなかった。だから何の前評判も知らずに、サーガを見られたのは良かったのかもしれない。ただ、何も知らなかったとはいえ、ところどころ気になる部分があった。


二階堂ふみ演じる姫川が、どうも幼い感じがして、警察官に見えないところや、妙な関西弁の男がストーカーにしか見えないところなど。
絶対に主人公を最後に殺しにくる男じゃないか!と思ったんだけど、実は全然違うキャラクターだったとあとでわかる。

 

犯人の犯行動機もいまいち納得できない。
全体的に厨二病っぽい雰囲気だなと思った。
これは脚本の出来が悪いのか、原作がいまいちなのか、そんなことをあれこれ考えて、感想をこねくりまわしていた。
それで、ずっとストロベリーナイトのことを考えていたら、前作が気になってきてしまい、前作の第一話を見てみた。

 

そして驚いた。

 

お…おもしろい…

 

これ、本当に同じ話なの?と思うほど、おもしろかった。

そして、ようやくTwitterで怒っていたファンの方たちの気持ちが理解できた。

 


結局のところ、物語のおもしろさとは「見せ方=演出方法」に集約されていくんだなと痛感した。

 

竹内結子演じる姫川は脆い部分もあるけれど、それを覆い隠すような強さがあった。特にどなる演技に迫力があり、叫びすぎかとは思いつつ、警察官らしいと思わせる説得力があった。

ヒールを履いてウロウロしているのはリアリティがないけれど、その嘘っぽさが、逆に彼女のキャラクターを際立たせている。

推理に至る展開も、時間をかけて丁寧に描かれており、姫川が直感的なひらめきだけで推理していくのではない。逆に、通常はしっかり考え、思い悩むからこそ、最後の飛躍のひらめきが生きてくる演出だった。

 

姫川の直感を演出するには、直感ではないシーンをたくさん描かなければならない。たとえば、彼女が母親との関係に苦悩していたり、夜道を怖いと感じていたり、整理整頓が苦手だったりするところだ。そういう彼女のダメな部分をしっかり描いてこそ、ひらめきのシーンが輝くのだと思う。

 

2時間ドラマと、1時間ちょっとのドラマを比べるのは酷だと思うが、やはりそういう丁寧なキャラクター性を描かなければ、話が上滑りしてしまうのだと思った。

 

犯人の犯行動機についても、サーガでは、最後のシーンで犯人が動機を語りだすが、それがどうもとってつけたような印象にしかならない。役者の力量もあるだろうけど、やはり前フリの違いや、音楽設計の違いは大きいと感じた。

 

前作では、何度もしつこくしつこく、姫川と犯人のシーンと、ガンテツと菊田のシーンで、カットバックが繰り返され、緊迫感が生まれていた。その間に、見る側は姫川の気持ちに同調していくのだと思う。

 

物語の筋や登場人物のセリフは理解できても、ドラマの中に感情移入するには、どうしても時間が必要だと思う。心が感情に追いつく時間とも言える、そんな時間だ。

 

そのためには、一見無駄とも思えるシーンが必ず必要になってくる。セリフはなく、音楽があり、何かが映っている、というような、無駄に見えるシーンだ。「間」と呼ばれるものでもある。

 

漫画でも同じことがいえる。捨てゴマと呼ばれるような、「いるけどいらない、いらないけどいる」コマが、ものすごく重要になってくる。すべては、心が感情に追いつく時間を稼ぐためなのだ。

 

丁寧に作るとは、そういう一見無駄に思える(けれど本当は必要な)シーンを、たくさん積み重ねていくことなんだろう。

 

そういうシーンを作ることは難しい。意味がないシーンというのは、間が持たない。意味がないとわかられても困るし、必要以上に意味があってもいけない。どうでもいいんだけれど、見ている側が飽きない最低限の工夫はしなくてはいけない。

 

しゃべらないシーンを撮るのはきっと勇気のいる作業なんじゃないだろうか。映像をゆったりとした時間経過で作り込むというのは、見ている側には簡単に見えて、実はとても難しい作業なのかもしれない。

 

そんなことをつらつら考えてしまった。

 

ラジエーションハウス 第一話

窪田正孝主演の医療ドラマ。

 

月9で医療系というのが定番になりつつある。

視聴率が安定するんだろうな~と、時代の変化を感じつつ視聴。

 

漫画原作らしいのですが、漫画は未読。

 

画面はラブストーリー系のキラキラした照明で、医療ドラマっぽい雰囲気はない。

こういうところは月9っぽいなと思っていたら、演出が鈴木雅之さんだった。

この方の演出は、どうも光に目がいく。

記号的ともいえるわかりやすいキラキラ感は好きですが、この医療ドラマにとって吉と出るか凶と出るか。

個人的には、キラキラ系の演出は嫌いじゃない。

何せ90年代、00年代と、この方のドラマを見て育ってきたので、安心と安定の鈴木雅之演出だ。

ただちょっと古いかなとも思う。判断が難しいところ。

 

ストーリーは、よくある医療モノの感じだった。

天才主人公と悪役がいて、感動するタイプのオチ。

新人技師の葛藤があったり、できる先輩の暗い過去とか、そういうものがちりばめられていて、最終的にはチームで病魔と闘うという、定番の形。

一話完結のチームもの、と言えばだいたいの想像はできる。

 

悪くはない。

悪くはないけど、楽しみかと言われると難しい。

ストーリーには引きがない。

キャストに興味がなければ、おそらく見ない。

それぐらい見慣れたドラマだと思う。

 

ストーリーで引き込まれるドラマもあれば、キャストが輝くドラマもある。

だから、どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、おもしろいかおもしろくないか、次も見たくなるかどうかが重要だと思っている。

 

主演の窪田正孝は、なぜか目がいってしまうタイプの役者さん。

個人的には好きではないけれど、それでも見てしまう。

これはなかなかすごいことだと思う。

今回の主人公もハマっている。

医師免許を持っていて、天才的な推察力があるレントゲン技師を、ダメ人間っぽい雰囲気で演じている。

 

脇を支える遠藤憲一もすごい。

最初のカット、登場しただけで、このキャラクターがどういう人間なのかが瞬時にわかる。

仕事ができるけど粗野な部長職。

ドラマに絶対いる「対外的にはダメっぽくみえてめちゃくちゃ有能な上司」感が存分に出ている。

医療関係者がはいているスリッパを、ちょっと乱暴にすべらしながら歩く仕草が、なんかとっても「っぽい」のだ。

しかも「医師」ではなく、ちゃんと「技師」に見えるのだ。

なぜかはわからない。見てるこっちの思い込みなのかもしれないけれど、医者を演じている時の遠藤憲一とは違って見える。

医者ほどの学歴も頭脳もあるわけじゃないけれど、技師の遠藤憲一には努力して技術を体得してきたという自信があるように見えた。

この演じ分けをどうやっているのか、衣装なのか立ち振る舞いなのか、髪型なのか、私には理由はわからないけれど、この技術がすごいと思った。

 

和久井映見は主人公の秘密を知る病院長の立場。

優しい母親のような雰囲気ながら、なんでもお見通しといった曲者感もほんの少し見え隠れする。

ビブラートがかった、少し震えた声がとても良かった。

彼女が出るシーンは安心感しかない。

 

そして、新人技師の広瀬アリス

とにかく可愛い。

おてんばな女の子や、ちょっと悪い女の子を演じている印象が強かったので、真っ直ぐに前向きな新人キャラは合わないんじゃないかと思っていた。

でも、とても合っていて驚いた。

主人公との恋は実らないだろうから、それは残念だなと思う。

 

ヒロインの本田翼は、あまり演技がうまくないので、キャラクターが崩壊しているように見えた。

主人公に対する冷淡な態度と、医療現場で熱心に対応する姿のギャップが嘘くさく、ストーリーの犠牲になってしまったキャラクターだと思う。

主人公に冷たくする必然性は、物語のため以外にはない。

ここにもっともらしい動機があれば、もっとこのヒロインも活きたんじゃないかなと思ってしまう。

たとえば、仕事に熱中するあまり他人には無関心であるとか、これまでのレントゲン技師の技術に不満があり、主人公への偏見があったなど、いくらでも理由も演出もつけれそうだった。

もしくは、主人公と出会う前、ワンシーンでもいいから仕事熱心な姿を見せていれば、印象はまったく違ったのにと思う。

逆に、冷淡なキャラクターで押すなら、熱心な姿はもっと後に見せて欲しかった。

どっちにしろ、ストーリーのためにないがしろにされたキャラクターだったのが残念。

うまい俳優さんが演じれば、限られたシーンでもキャラクターを再現できただろうけど、それを彼女に求めるのは酷な話だと思う。

もっと演出つけてあげて欲しいなあと、テレビの前でそんなことを思ってしまった。

 

話はうまくまとまっているし、キャストもうまい人も多いので、見やすいドラマだと思う。

ただ、全体で見た時に、色々なバランスが悪いのが気になった。

 

画面構成がラブストーリー演出なのに、チームもので、医療もの。

キャラクターの設定が盛りぎみ(天才・天然・人数が多い)なのに、一話完結で毎回ミステリー仕立てのストーリー展開。

すべてがどこかで見たことがある既視感があり、軸がどこにあるのかわからない作りだった。

大はずれもないかわりに、大当たりもなさそうだなと思った。

きのう何食べた? 第一話

ついに始まってしまった…!

 

よしながふみ原作のゲイカップル漫画「きのう何食べた?」の実写ドラマ化が決まったと聞いたとき、嬉しさ95%の中に、不安が5%ほどあった。

 

キャストが合ってるのだろうか、とか。

原作と違った解釈をされるんじゃないだろうか、とか。

腐女子勢とドラマ勢と色々なものが、ぐっちゃぐちゃになって炎上するんじゃないだろうか、とか。

そんなことを色々と考えた。

 

とても見たい。でも不安もあるという心境。

おそらく原作ファン、俳優ファン、腐女子のみなさん、それぞれがそんな風に思っていたように思う。

 

私はゴリゴリの腐女子文化に浸ってきた人間で、よしながふみさんと言えばバスケ漫画の二次創作が最初の出会い。

当時から異色の作風で、とにかく鬱な作風が大好きだった。

カラッとしてるのに鬱。特に男の泣き顔がたまらなく切ないし、悪い顔してるキャラがとにかくかっこいい。

キャラクターが情けない顔しているシーンも多かったように思う。

 

そんなよしながさんが、一般向けの商業誌で連載を始めた時の衝撃はすごかった。

男女逆転大奥という、とんでも設定の時代劇漫画。

でもやっぱりちゃんと鬱。明るいのに鬱。よしながふみテイストがそのまま残っているのに、ちゃんと一般向けの漫画になっていた。

ああ、よしながふみって天才すぎる……!と、単行本を読んではもだえ苦しんで転がっていた。

 

そして、この「きのう何食べた?」。

こちらの連載も衝撃的だった。

なにせ掲載誌は週間モーニング。

男性読者向けに、少女漫画的BL文化の中で連載していた漫画家さんが、ゲイカップルの話を描くなんて、どういうことなんだ!?と驚いた。

 

と同時に、自分はこの漫画を、なんとなく読む気になれなかった。

理由は色々とあったけれど、一番は女性向けの甘いBL漫画ではないと思ったから。

モーニングで連載するからには、よしながふみらしい鬱々とした現実へのやるせなさが全面に出てくるんだろうと思った。

そして、たぶんゲイ文化への冷静な視点を持って、作品を描きたいのかなと考えたからだ。

よしながふみは大好きだ。

でも、彼女の作風が心に刺さりすぎるため、元気な時しか読めない気もしていた。

 

連載が終わったら、まとめて読もう。

そう思って十数年。

まさか原作が終わるよりも先にドラマになってしまうとは思わなかった。

 

ドラマが始まると聞いたとき、原作を読もうか迷った。

でも、せっかくの未読。

ドラマを思う存分楽しむために、原作はドラマ終了後まで待とうと思った。

 

そして昨日。ついに始まってしまった。

きのう何食べた?」が。

 

弁護士で倹約家のシロさん(西島秀俊)と美容師でおおらかな性格のケンジ(内野聖陽)の同棲生活。

この二人が並んでいるだけで、俳優オタクとしては嬉しい。

原作ファンの人は、あまりの再現度に驚いたと言っていた。

 

硬派な役が多かった西島秀俊が、ここ数年、エプロン西島と呼んでも差し支えないほど柔らかい役が増えてきていた。

その中でもこのシロさんのエプロンは、別格に似合っている。

なんといっても、気難しいところがいい。

優しい夫、柔らかい男性の象徴のようなエプロン姿は、それはそれで素敵なんだけれど、このシロさんは、そういう記号としてのエプロン姿ではないからだ。

毎日節約のために料理を作る。

自分の楽しみ、恋人の喜ぶ顔が見たい、そういう料理でもあるんだけれど、「お金を貯める」という現実感がいい。

数円の節約は、将来のため。

子どもを望めない自分にとって、お金はとても大切な味方だと、シロさんは思っている。

だからシロさんのエプロンは伊達ではないのだ。

 

一方のケンジも、とても可愛い。

美容師で男くさい見た目なのに、仕草はどこか女性的。

おそらく、ゲイと聞いて多くの人がイメージする姿に近い。

でも、誇張しすぎていないバランスが素晴らしい。

過剰なオネエ言葉でもなく、過剰なエロスもない。でも、にじみ出てくるゲイ感。

現実にケンジみたいな人がいたら、私は「そっちの人かな?」とは思っても、絶対に確証は得られない気がした。

 

 ゲイを隠すシロさんと、オープンにしているケンジ。

私はゲイの人たちを知らないから、簡単にリアルだとか現実的だというのは的外れだと思うけれど、それでも二人には妙なリアリティがある。

それはおそらく、生活している人間のリアリティなんだろう。

 

毎日ご飯を作って、誰かと食べて過ごす。

数円の買い物に一喜一憂して、アイスが美味しいと笑いあう姿は、性別やセクシャリティを超えて、普通の生活の話だった。

 

腐女子の間では「丁寧な生活」となかば揶揄されながら使われる言葉がある。

ハイクオリティでおしゃれな生活をする描写のことだ。

たとえば、豆から挽いたコーヒーを丁寧にいれる描写だったり、生花が飾られている空間だったり、仕立ての良いスーツを着る描写だったりする。

もちろん、腐女子だけの言葉ではなく、広く使われている概念なんだけれど、この「丁寧な生活」という描写は、腐女子の中で根強い人気を誇っている。

どれだけハードボイルドな世界に身をおこうとも、美しい生活の描写は「萌える」のだ。

ある意味、女性の理想を具現化しているとも言える。

 

きのう何食べた?の生活描写は、そういう「丁寧な生活」とは少しだけ違う。

食材を使いまわし、献立を考え、倹約に励むシロさんは、ハイクオリティな生活をしているわけではない。

むしろケチと呼ばれたり、せせこましいと言われかねないほどの倹約ぶりだ。

もちろん、シロさんのその生活はある意味で理想的な素晴らしい生活なんだけれど、あくまで倹約という前提があることで、現実感がぐっと増している。

それが、よしながふみがBL雑誌ではなく、モーニングでこの漫画を連載する意味のような気がした。

 

それでも、きのう何食べた?は、とても「萌える」。

おそらく腐女子である人にも受けるだろうし、普通のドラマファンにも受け入れられると思う。

二人の生活は、とにかく素敵だ。

お互いがお互いを思い合っているのが画面からあふれんばかりに伝わってくる。

なんて素晴らしいキャストとスタッフなんだろう。

 

今後も二人の生活を見守っていこう。

そんな風に思える第一話だった。

 

 

公式ガイド&レシピ きのう何食べた? ~シロさんの簡単レシピ~

公式ガイド&レシピ きのう何食べた? ~シロさんの簡単レシピ~

 

 

きのう何食べた? Blu-ray BOX(5枚組)

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フルーツ宅配便・最終話

明日は仕事で、寝不足になるのはわかっていたのに、『フルーツ宅配便』の最終話を見てしまう。

そして案の定、感想を書きたくなってしまう。

 

2019年冬のドラマの中でダントツで好きな作品だった。

デリヘル店長の話だから、ギャグ路線なのかと思っていたら、実はどシリアスな話で、毎回毎回、胸が締め付けられた。

 

こういうバランスは大好きだ。

ただ明るいだけでもなく、ひたすら暗いだけでもない。

悲しいことも楽しいことも、どっちも起こる感じ。すっきり割り切れない感じは、なんだか現実に似ている。

映画やドラマの虚構に現実を見るというのは、矛盾している気もするけれど、それはどこにリアリティを感じるかの違いのような気がする。

 

状況が嘘で、思考回路がリアルなら、それは超現実と呼べるんじゃないかとずっと思っている。

自分が本当に体験することはできないけれど、妙な実感を持って疑似体験する。それを勝手に超現実と呼んで納得している。

 

楽しむためのドラマ(虚構)がある横で、ヒリヒリするような現実を感じさせてくれるドラマ(超現実)がある。

フルーツ宅配便は、私にとってそういうドラマだった。

 

ストーリーはおおむね明るいギャグ路線で進んでいく。

オーナーのミスジさん(松尾スズキ)やマサカネくん(荒川良々)など、個性が強くて現実的ではないキャラクターたちが、平凡な主人公咲田くん(濱田岳)を取り囲んでいる。

 

咲田くんにとって風俗業は未知の世界で、別世界だ。

でもそこにいる人々は、決して別世界の人間ではない。

自分と同じ日常を送る延長線上に、その人たちは存在している。

 

咲田くんは、デリヘル嬢を真っ当な世界の人間として扱う。

そのことで、咲田くん自身が裏切られ傷つくこともあったけれど、それでも咲田くんは彼女たちを、どうしても助けようとしてしまう。

 

その普通さ、真っ当さが、驚くような輝きになって最終話で実を結ぶ。

それは、本当に小さな実で、それが実ったからといって、デリヘル嬢を救えるようになるわけではないし、何かが大きく変わるわけでもない。

でも、咲田くんの覚悟だけが違っている。

 

外側の世界には何の変化も(まだ)もたらしていないけれど、咲田くんの内側の世界は確実に変わっている。

 

咲田くんが変われば、それはやがて小さな変化を外側の世界にもたらしていくのかもしれない。

そう予感させてくれる希望のあるラストだった。

 

うまく練られた脚本だなと思うと同時に、それを可能にしている濱田岳仲里依紗の演技力について、考えずにはいられない。

 

彼らの言葉、セリフの呼吸があまりにも自然で、本当にすぐ隣にいる誰かのように思えてしまう。

セリフがセリフに聞こえない。彼らが心からそう思ってしゃべっているようにしか思えない。

 

もちろん、シーンによっては芝居がかったセリフもあるんだけれど、最終話のラスト、港のシーンでのえみ(仲里依紗)は、彼女自身の言葉なんじゃないかって錯覚するほど胸に迫ってきた。

 

「一緒に苦しんでくれて」というセリフを照れ笑いを交えて涙声で言う彼女。

苦しいという言葉を素直に言うことは難しい。

本当に苦しい時ほど、人は苦しいなんて言えなくなってしまう。

自分の弱さをさらけ出すのは恥ずかしいし勇気がいる。

それでも、えみには咲田くんに伝えたい気持ちがあって、それが恋愛感情なんかではなくて、感謝の気持ちだというのが、あまりに素敵だった。

 

それを受けた咲田くんの「元気でね」の一言。

 

なんとなく、男の子のキャラクターなら「元気でな」って言いそうなのに、「な」じゃなくて「ね」。

この「ね」が濱田岳らしい甘やかで優しい響きを持っている。

 

夕陽に照らされた咲田くんは、髪もボサボサで、泣きそうな顔をしていて、なんだかかっこ悪い。

でも、ここでかっこいい顔をしないことが、最高にかっこいい。

 

デリヘル嬢というハードな世界で働く人々を描きながら、ラストにはほのぼのとしたエンディング曲が流れる。

このギャップがまたたまらない。

 

きっとこの曲を普通に聴いただけだったら、絶対に好きにはならなかった。

でも、この物語の最後に流れると、まったく違う印象になる。

 

良いものや悪いもの、正しいものや間違っているもの、優しいものや怖いもの、楽しいものや悲しいもの。

そういう色々な状態のバランスを、絶妙に配置して、三ヶ月楽しませてくれたフルーツ宅配便。

 

続編があれば見てみたい。

できれば幸せな彼らがみたい。

でも、それはなんだか嘘になってしまいそうで、やっぱり見たくないのかもしれない。

 

第01話「ゆず」

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