ストロベリーナイトサーガ 第一話
Twitterが大荒れしていた。
前作のストロベリーナイトのファンの人たちが、前作のキャストや演出方法について熱く語っていたのを見かけた。
私は前作を知らなかったので、このリメイク版ともいえるストロベリーナイトサーガ第一話をそれなりに楽しんだ。
知らないというのは、幸せなことだなと思う。
小説や漫画をよく読んでいた頃は、映像化に対して不平不満がとても多かった。リメイクも好きでないことが多かったし、続編もあまり期待していなかった。だから何の前評判も知らずに、サーガを見られたのは良かったのかもしれない。ただ、何も知らなかったとはいえ、ところどころ気になる部分があった。
二階堂ふみ演じる姫川が、どうも幼い感じがして、警察官に見えないところや、妙な関西弁の男がストーカーにしか見えないところなど。
絶対に主人公を最後に殺しにくる男じゃないか!と思ったんだけど、実は全然違うキャラクターだったとあとでわかる。
犯人の犯行動機もいまいち納得できない。
全体的に厨二病っぽい雰囲気だなと思った。
これは脚本の出来が悪いのか、原作がいまいちなのか、そんなことをあれこれ考えて、感想をこねくりまわしていた。
それで、ずっとストロベリーナイトのことを考えていたら、前作が気になってきてしまい、前作の第一話を見てみた。
そして驚いた。
お…おもしろい…
これ、本当に同じ話なの?と思うほど、おもしろかった。
そして、ようやくTwitterで怒っていたファンの方たちの気持ちが理解できた。
結局のところ、物語のおもしろさとは「見せ方=演出方法」に集約されていくんだなと痛感した。
竹内結子演じる姫川は脆い部分もあるけれど、それを覆い隠すような強さがあった。特にどなる演技に迫力があり、叫びすぎかとは思いつつ、警察官らしいと思わせる説得力があった。
ヒールを履いてウロウロしているのはリアリティがないけれど、その嘘っぽさが、逆に彼女のキャラクターを際立たせている。
推理に至る展開も、時間をかけて丁寧に描かれており、姫川が直感的なひらめきだけで推理していくのではない。逆に、通常はしっかり考え、思い悩むからこそ、最後の飛躍のひらめきが生きてくる演出だった。
姫川の直感を演出するには、直感ではないシーンをたくさん描かなければならない。たとえば、彼女が母親との関係に苦悩していたり、夜道を怖いと感じていたり、整理整頓が苦手だったりするところだ。そういう彼女のダメな部分をしっかり描いてこそ、ひらめきのシーンが輝くのだと思う。
2時間ドラマと、1時間ちょっとのドラマを比べるのは酷だと思うが、やはりそういう丁寧なキャラクター性を描かなければ、話が上滑りしてしまうのだと思った。
犯人の犯行動機についても、サーガでは、最後のシーンで犯人が動機を語りだすが、それがどうもとってつけたような印象にしかならない。役者の力量もあるだろうけど、やはり前フリの違いや、音楽設計の違いは大きいと感じた。
前作では、何度もしつこくしつこく、姫川と犯人のシーンと、ガンテツと菊田のシーンで、カットバックが繰り返され、緊迫感が生まれていた。その間に、見る側は姫川の気持ちに同調していくのだと思う。
物語の筋や登場人物のセリフは理解できても、ドラマの中に感情移入するには、どうしても時間が必要だと思う。心が感情に追いつく時間とも言える、そんな時間だ。
そのためには、一見無駄とも思えるシーンが必ず必要になってくる。セリフはなく、音楽があり、何かが映っている、というような、無駄に見えるシーンだ。「間」と呼ばれるものでもある。
漫画でも同じことがいえる。捨てゴマと呼ばれるような、「いるけどいらない、いらないけどいる」コマが、ものすごく重要になってくる。すべては、心が感情に追いつく時間を稼ぐためなのだ。
丁寧に作るとは、そういう一見無駄に思える(けれど本当は必要な)シーンを、たくさん積み重ねていくことなんだろう。
そういうシーンを作ることは難しい。意味がないシーンというのは、間が持たない。意味がないとわかられても困るし、必要以上に意味があってもいけない。どうでもいいんだけれど、見ている側が飽きない最低限の工夫はしなくてはいけない。
しゃべらないシーンを撮るのはきっと勇気のいる作業なんじゃないだろうか。映像をゆったりとした時間経過で作り込むというのは、見ている側には簡単に見えて、実はとても難しい作業なのかもしれない。
そんなことをつらつら考えてしまった。