好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

2019年11月のあれこれ。

<今月の読書>

デザインされたギャンブル依存症 ナターシャ・ダウ・シュール

すべての罪悪感は無用です 斎藤学

やめられない人々 榎本稔

フロー体験喜びの現象学  M.チクセントミハイ

神と獣の紋様学 林巳奈夫

音楽のリズム構造 G.W.クーパー

「ぐずぐず」の理由 鷲田清一

脳のリズム ジェルジ・ブザーキ

黒人リズム感の秘密 七類 誠一郎

語源から哲学がわかる事典 山口裕之

 

10月に読んだ本も混じってるが、今月はそれなりに本を読む時間がとれた。リズムのことが気になりだし、色々考えながら読んでみたところ、七類誠一郎さんの「黒人リズム感の秘密」がかなり参考になった。

裏打ちって何なのか、ずっと意味がわからず、表拍と裏拍って、逆になっているだけじゃないのかと思っていた。けれど、裏打ちのリズムを体を動かすことを前提として考えてみると、うまく理解できることがわかったのが、自分的に大発見だった。

言葉ではうまく説明できないかもしれないが、体の通常の動きと逆の呼吸(リズムのタイミング)になることで、点ではなく線で動き(音楽の場合は音の流れ)を考えるようになるという話だった。

表拍は、瞬間の拍であり、点の拍である。裏拍は複雑性の拍であり、流れの拍であるという説明が、ずどーん!とハマった。

早速、歌を歌う時に体の動きを逆にして確認してみた。単純に言えば、高音やキメの音を出す瞬間に、かがむように体を縮こませることを行ってみた。通常の場合、高音を出すためには体や喉を開く。横隔膜をあげるために、両手を上げて歌うと高音が出やすいのだが、それを手を上げずに行うのが通常の歌い方だった。

それを、逆。地面を意識して体を後ろに下げるイメージで歌い、高音の時は体を小さくするイメージで、裏拍でリズムをとってみたところ、いわゆるR&Bの曲や洋楽と簡単にシンクロした。

うそだろ、という驚愕の出来事だった。

表拍で歌っていた時は、リズムに遅れないようにと、一拍目を強く意識していたが、裏拍の場合は、とりあえず遅れてもいいし、二拍目が合えばいいだろうという気楽な気持ちでやってみると、これまで歌いにくいと思っていた歌が簡単に歌えるようになった。

世の中の人はいったいどれぐらいリズム感があるものなんだろうか。裏拍を軽々とマスターする人もいるんだろう。これは私が運動ができない影響もあるのかもしれないが、どれだけ音楽を聞いても、まったくたどり着けず、説明がなければわからなかった自分を思うと、音楽はやっぱりとても不思議なものだと思った。

 

そして、山口裕之さんの「語源から哲学がわかる事典」もとてもおもしろい本だった。哲学用語の解説書であり、哲学の基本的な言葉を通して全体像を見るための入門書だ。哲学書は原書を読むことは難しすぎてできないし、原書の翻訳ですらけっこうしんどい。解説書ぐらいしか読めない自分には、本当にわかりやすくて助かった。

この本を読み、改めて、文化を理解するには、その言語を知らなければならないと感じた。言語的な発端で哲学的な問いが生まれることも多いようで、日本語ではその問いは生まれないだろうというもがあるのは、考えてみれば当然かもしれないが、その考えに至るにはとても難しい。

私は大学生の頃に京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕」を読み、ハイデガーを知った。ちょうど同時期に授業でウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」学ぶ機会があり、哲学者がなぜこんなにも言語のことを語るのか、ずっと不思議に思っていた。この頃ようやく、その意味が実感を伴って理解できてきたように思う。

言葉という概念上の道具を使って、概念そのものを考察するのが哲学なんだろう。それは当然、道具である言葉への言及も含まれる。数学で言えば数論のように、常に一番厳格で正確な、学問の一段目が哲学なのだろう。

また、翻訳の問題も浮き彫りになった。そもそも、日本語にない概念を日本語で説明するというのは難しい。そして、過去の翻訳(誤訳であったり、現代では意味が変わっている・通じない言葉)を踏襲し続ける問題もある。

たとえばストーリーなど、実際に物事がどう動いたかという表面上の説明は、あまり勘違いが起きない。そういう翻訳はそれほど大変ではない。けれど、概念の説明は、その概念が何によって支えられているかという膨大な情報量が必要で、それをひとつひとつ説明していくことは困難だ。

言葉は単体で言葉であるのではない。それがどんな場面、どんな文脈で語られ、どういう属性や匂いを帯びているのか、そんなことが一番重要だ。言葉そのものではなく、そこにまとわりつくイメージや膨大な具体的事象によって支えられている。

私は数学がとても苦手で、特に数字という概念を頭で操ることがとても下手だ。それがなぜなのか、ずっと考えていた。

ひとつの結論として、数字には具体性がないからだと考えた。2つのリンゴや三人の子供、百万円や一万人の住人など、数字で表されるものは多い。けれど、1や2や3という数字は、それらあらゆる具体的な物事を概念化したものである。個別の情報をすべて落としたものが数字だ。私は頭の中で、常に映像を使って物事を考える人間なので、具体的な映像がなければうまく考えることができない。

数字を考える時、私の頭の中には1という文字のフォントが浮かんでいて、それが2や3と違う点は、形でしかない。だから混乱してしまう。2つのリンゴは見間違えないが、数字の2と3は見間違えてしまう。そんな感覚が頭の中にある。

哲学者の使う言語も、それと似たものを感じる。あらゆる具体性を集めて、そしてその個別情報を削ぎ落とした言語が、哲学における概念のような気がする。だから、通常の翻訳とはまったく違った難しさがつきまとうのだろう。

 

<今月の映画>

いろいろと映画も見ているが、毎日があっという間に過ぎていくので、ほとんど忘れている。

シティーハンターの実写版を見に行き、映画としてのクオリティはさておき、原作愛・アニメ愛に支えられた素晴らしい作品だと感じた。

フランス映画はほとんど見たことがないので、笑いのツボが違ったり、間が違うことが新鮮だった。そして、前フリの概念も違うため、普段なら絶対に読み切れるはずのストーリー展開が読めなかったことに驚いた。自分の先読み能力なんていうのは、所詮そんな程度のものなんだなと思った。

 

Amazonプライムで話題になっている「モダン・ラブ」も見始めた。評判通り、とても質の高い恋愛ドラマで、全部見終わってしまうのがもったいないほどだ。いつかまとめて感想を書きたい。

 

 

語源から哲学がわかる事典

語源から哲学がわかる事典

 

 

映画「彼女がその名を知らない鳥たち」 監督:白石和彌


彼女がその名を知らない鳥たち (2017) 映画予告編

 

この映画のジャンルは何かと問われれば、うまく答える自信がない。一見すると、ミステリーやホラーだ。けれど、トリックや犯人が誰かという点が物語の重要な要素ではない。むしろ、それはただの引きでしかなく、濃厚な人間ドラマが繰り広げられる。かと思えば、人の心は謎に満ちているという話でもある。また、ある視点から言えば、最大級の恋愛ドラマだろうし、笑えない喜劇だと言う人もいるかもしれない。

ジャンル分けが明確にできないという作品は、それだけで価値がある。それは、この作品がこれまでにない映画だという反証だからだ。

本編は、何の予備知識もなしに見始めた。あとから予告を見たところ、一応ミステリーとして宣伝されていたのだと気づいた。けれど、これをミステリーとしてしまうのは、あまりにもったいないし、それを期待させるのはよくないと思う。

ただ言えることは、リアリティに満ちたいい映画だ、ということだけだ。

 

白石和彌監督の映画は、私にとって鬱映画のジャンルに入る。

鬱映画とは、心にダメージを受ける映画という意味だ。ただ、ダメージと言っても、それは2種類ある。

ひとつは、「そんなことあるわけない!」という描写で描かれる殺人やいじめなどのシーンがある作品だ。物語展開のために(乱雑に)用意された非情なシーンに対して、私はひどく怒ってしまう。そして、文字通り「胸糞が悪い」と作品・監督に対して思う。見るんじゃなかったと後悔し、そういうものはすべて心のNGリスト入りする。

もうひとつのダメージは、「ああ、こういうことってあるよな…」と、思わず納得させられ、世界のありように極限まで落ち込んでしまうようなつらいシーンがある映画だ。質の良い、とても気持ちが落ち込む最悪の映画だ。こういう映画を、私は敬意を込めて鬱映画と呼んでいる。

映画「凶悪」を見た時、キメセクを行うピエール瀧のリアリティに震え上がった。人を物のように扱うことのリアリティが怖かったのだ。もちろん、私は現実の殺人犯や薬中の人を知らないので、それがリアルなのか、リアリティに満ちた虚像なのかは判断がつかない。けれど、それでも白石和彌が描く世界にリアリティを感じるのは、おそらく思考回路のリアリティなんだろうと思っている。

こういう状況にいる人は、こう考えるだろう、という方程式があまりにも明快で納得させられてしまう。今、現実にそういう人間が存在していなかったとしても、納得させられた私の脳内には、凶悪な人間が住み着いてしまう。そういう怖さが白石和彌の映画にはある。

 

彼女がその名を知らない鳥たち」を見始める時、いつでも再生を停止して、しんどくなったらすぐに見るのをやめようと思った。それぐらい、用心しながら見始めた。

そして、開始数分で物語に引き込まれた。

 

冒頭、蒼井優演じる十和子が、デパートに電話でクレームを入れるシーンから始まる。散らかったマンションの1室。テレビをつけたまま電話をしている。声が重なるのも気にせず、クレームを入れる姿。ひと目でマトモな人間じゃないのが伝わってくる。

ソファに寝転びながら、クレームを入れる十和子。その物言いが最悪にいやらしい。一見へりくだったような言葉で、敬語を交えつつ、相手を質問形式で非難していく。最悪にうざい関西弁を操る蒼井優から目が離せない。

 

この女、マジでどうしようもねえな!と思ったが最後。この女にどんな天罰が下るのか興味が湧いてしまった。

 

十和子のクレームは続く。どこにいても、何をしていても不機嫌で横柄な十和子に共感など抱かない。それのに。それなのに…!!!

物語が進むにつれて、十和子の過去が少しずつ明らかになっていく。クズ男に夢中になって、ゴミのように扱われてしまう十和子。それでも好きで好きで仕方ない。言いなりになるしかない十和子。

好きな男の前では、冒頭のいやらしい関西弁は鳴りを潜め、柔らかくて媚をふくんだ女々しい関西弁に変わっている。時には標準語にすらなる。現在の十和子からは想像もできない可愛いくて可哀想な十和子が画面にあふれていく。

通常の物語の場合、こんな風にキャラクターを変質させることはめったにない。それは、キャラクターが作られた虚構であるからだし、一貫性を保つことが当然だと思われているからだ。

けれど、十和子は誰といるかによってキャラクターが変わってしまう。一貫性がなく、不安定な人間性が見え隠れする。十和子の変貌を見た瞬間、この演出意図はどこにあるんだろうと頭によぎった。けれど、よくよく考えてみれば、人間は誰しもこういうものだ。すべての人の前で同一の自分であるはずがない。怒る顔も甘える顔も悲しむ顔も、誰といるかで目まぐるしく変わるのが「普通」のことなのだ。

 

十和子はイケメンが好きだ。それもとびきり悪くてクズな男前を好きになってしまう。過去の恋人の黒崎(竹野内豊)には、いいように騙されて借金のカタに体を売らされてしまうし、現在の不倫相手である水野(松坂桃李)にも弄ばれて、あげく路上で咥えさせられるという有様。けれど言いなりになってしまう。抗えないイケメンの力。

こういう場合、見るからに悪くて男前な俳優を起用することが多いが、竹野内豊松坂桃李という、優しい男を演じることが多い俳優を起用しているのが恐ろしい。通常の彼らから受けるイメージと、役柄のギャップがありすぎて、騙されても仕方ない気分になってしまう。

現実では、悪いヤツはやっぱり悪い顔をしているし、クズなヤツはクズな空気をまとっている。けれど虚構の物語では、俳優と役柄のギャップが生じることで、ありえない現実がひろがっていく。それはリアルではないものの、十和子のリアリティ(イケメンに抗えないという状態)を疑似体験させてくれる。

松坂桃李の純真無垢な顔で迫ってこられて、こんなにドクズだなんて想像しないよ。竹野内豊が真面目な顔で体を売れって懇願してくる世界なんてあってたまるか! どんな無間地獄だ!

 

そんな十和子を健気に愛する男が、阿部サダヲ演じる陣治だ。陣治はとにかく汚い。食事中に靴下を脱ぎながら足の垢をとったりする。本気で汚い描写が多い。思わず早送りしそうになるほど汚くて、十和子が陣治を罵る気持ちが痛いほどわかってしまう。

陣治にどれほど尽くされようが、どれほど心配されようが、十和子はどうしても過去の男が忘れられない。そりゃそうだ。相手は竹野内豊だ。私も陣治は好きになれないな…と思いながら映画を見ていた。

 

いやしかし。

おそろしいな。阿部サダヲ。最後の最後には、陣治への愛がぶわあああっ!!!と芽生えて終わっていく。

生きていけないと絶望する十和子に、生きる意味まで与えてしまう陣治。この愛が正しいとか素晴らしいとか、そういうことじゃないんだけれど、陣治を思わず愛してしまう自分がいた。

物語の展開は読めていたけれど、十和子が救われるとは思えなかった。けれど、こういうオチで、十和子に希望すら残るなんてびっくりした。

 

そしてラストシーンは「彼女がその名を知らない鳥たち」が、まさに空を飛んでいく。

ずっとタイトルの意味がわからず、どこで回収するのかと思っていたけれど、物語上の意味らしい意味はないタイトルだった。けれど、とても良いタイトルだと思った。

 

 私の解釈では、自分の頭上を飛ぶ鳥、よく目にするものであるにも関わらず名前すら知らない、という意味なのかなと思った。見えているのに知りもしない。知らないとはおそろしいことだという感覚。そして、それに気がつき、ようやく知りたいと思ったとしても、それはあまりに遠くて手が届かない。あっという間に飛び去ってしまう。

もどかしくて苦しい。そういう感覚を表したタイトルなのかなと思った。原作小説では、正確な意味が描かれているかもしれないので、あくまで映画を見ただけの解釈ではあるんだけれど。

 

いや、それにしてもおもしろかった。

けれど、白石和彌の映画はやっぱり怖い。怖いので、心の準備ができない限りは見ることはできない。

 

好きだけどよくわからないもの<音楽について>

音楽が好き、と堂々と言うのは恥ずかしい気持ちがあった。それは、自分があまり音楽のことを理解していないからだ。

まず、楽器ができない。一応、8年ほど声楽をやっていて、連動してピアノも覚えなければならなかった。けれど、歌はともかく、ピアノに関しては熱心な生徒とは言えず、さぼってばかりいたので、譜面はうまく読めなかった。特に左手、ヘ音記号の楽譜になると「えーっと、いち、に、さん、し…」とラインを数えるほどに読めない。コードの概念はあるものの、シャープやフラットが3つ以上付き始めると、もう危ない。ほぼ手のポジショニング(形)を勘だけで押さえ、音が鳴ったら、「あ、合ってた…」とほっとする。8年やってそんな程度の成果しかあがらなかった。

好きでギターを始めた友人と話をすると、楽譜は読めないが、弾くのが楽しいと言うし、私よりもよほど体感で音楽理論を身に着けているように感じる。友人はリズム感もあるし、どんな音が鳴っているのかもわかるという。私には聞こえない音も聞こえているようで、驚くことが多い。つくづく、音楽的才能がある人というのは存在するんだなと思う。

私がピアノと声楽を始めたのは中学二年生の頃だった。ピアノを始めるには遅かったけれど、声楽を始めるにはちょうど良い頃合いだった。ガーシュウィンのミュージカルを見て、あれが歌いたい!と思い、始めた習い事だったけれど、当時は声楽とミュージカル音楽の違いがわかっていなかった。

歌の先生を前にして、緊張から「オペラがやりたいです」と言ってしまい、そこから8年、結局ミュージカルナンバーは1曲も歌わずにオペラの歌曲を歌い続けた。それはそれで楽しかったから、そこに後悔は一切ないんだけれど。

声楽を始めて、一番最初につまづいたのは、リズム感だった。私はリズム感が平均より悪い人間だった。たとえば、音楽ライブでの手拍子を間違えたりする。ごく普通の手拍子でも、どんどんずれていく。三本締めなんかも失敗するので、手を打ってるふりだけして音は出さないようにしている。

歌を歌い始める時、カウントがわからなくなって、出だしをトチることも多かった。学校の発表会で、出だしを間違えて大迷惑をかけたこともある。基本的に性格が臆病なので、前に出れないのだ。意を決して音を出すと、1小節早い、ということがよくあった。

 

リズム感とは、いったい何なんだろうか。どうしてこれほど私を悩ますのだろうか。

音痴というのは、音程(音の高低)が出せない状態だと思うのだけれど、それは喉や腹筋などの動かし方がスムーズじゃないという物理的な音痴と、耳(もしくは脳の感知)が悪くて音の高低そのものが理解しづらい状態があると思う。

一方、リズム音痴にも、体が動かない音痴さと、体の中にリズムを理解する感覚がないタイプがある。私は、感覚が鈍いタイプのリズム音痴だ。

音楽は、おそらく音程が合うことよりも、リズムが合うことの方が重要だ。リズムが合わない方が、下手さが際立つからだ。

 

ただ、不思議なことに、このリズム音痴の私が好きな音楽は、ダンスミュージックだ。

私は、ずっと自分が好きな音楽が何なのか、わからなかった。

小学生の頃にユーロビートにハマり、J-POPもアニソンも浴びるように聞いていた。中学生になるとミュージカルナンバーを聴き倒し、オペラを歌い、学校では長唄や三味線を習ったりしていた。大学生になると、洋楽が好きになって、クラッシックも聴くようになった。私の音楽プレイヤーは一見すると、何の関連性もないような音楽がごった煮のように並んでいた。

当然、どのジャンルでも、好きな曲と嫌いな曲がはっきりとあったが、なぜそれが好きなのか、なぜそれが嫌いなのかはわからなかった。ただ、非常に狭量な音楽的嗜好があるのだと思っていた。

私の好きな音楽の特徴を教えてくれたのは、ギター好きの友人だった。友人は、私が好きな音楽を聞き、「とても短い音が好きみたいだね」と言い当てた。

自分では、そんなことを意識してもいなかったので、とても驚いた。確かに、短ければ短いほど好きだった。伸びる音が苦手だったので、ギターやバイオリンの音は特に好きではなかった。それゆえロック全般が苦手だった。

この嗜好は、いったい何に由来しているのだろう。ますます音楽がわからなくなっていった。

理由のひとつはわかっている。音が短いと、音の把握がしやすいということだ。長い音は、最初のアタックから残響までの間に音程が変化する場合が多い。私はこの音の変化のグラデーションを気持ち悪く感じる。それは、自分の理解が追いつかないせいだろう。

ダンスミュージックは、当然ながら踊るための音楽だ。歌うための音楽や弾くための音楽などがある中で、体を動かすことを前提とする音楽がダンスミュージックだ。多少の好みの差はあれど、ダンスミュージックはほぼだいたい好きだった。

まずEDMが大好きだ。クラッシックならワルツが断然好みだ。古い歌謡曲ならブギが好きだし、スウィングやラグタイムもいい。邦楽なら長唄が好きで、義太夫節より常磐津や清元が好きだ。アフリカのリズム重視の民族音楽はドキドキする。すべて踊るための音楽だ。

 

踊るための音楽の特徴は、リズムがはっきりと聞こえるということだ。ズンチャッチャッのワルツでも、ズンズンズンズンの4つ打ちでも、ててつくつの太鼓でも、どれもこれもリズムが前面に出てくる音楽なのだ。

おそらく、リズム音痴の私には、これぐらいはっきり前にリズムが出てくれないと音楽がわからなくなる。ロックを聞いてもビートはあまり感じられない。なんというか、のっぺりした音楽に聞こえてしまうのだ。

 

リズム感のない人間だからこそ、リズムのはっきりした音楽が好きになる、というのはおもしろい発見だと思う。普通、ダンスミュージックが好きな人間と言われると、とてもリズミカルな人を想像するからだ。当然、作り手側は違う。明らかにリズムの塊のような人々が作っている。私は彼らの音楽を享受しながら、彼らの体感からはおそらく一番遠い場所にいる。それはなんだかおもしろい。

 

ギター好きの友人は、私が好きな音楽を聞くと、体調が悪くなると言う。それはあまりに様々なリズムが組み合わさっているから、だそうだ。

そう。私には、複雑なリズムが聞こえていないのだ。脳がスルーしてしまっている。極度に単純化して、好きな音だけを拾って音楽を聞いている。

 

私は音楽が好きだ。でも理解しているわけではない。聞こえない音やリズムもたくさんある。けれど、だからこそ、音楽が何なのかを考えずにはいられない。

好きだけど、よくわからないもの。

おそらく、一生理解はできない。

令和元年版 怪談牡丹燈籠<全4話>

movie-a.nhk.or.jp

 

NHKBSプレミアムで放送された「令和元年版 怪談牡丹燈籠」を見終わった。録画したものの、なんとなく見る気が起こらず、最終回の放送が終わってからイッキ見した。そして、あまりのおもしろさに驚いた。

放送前の番組宣伝では、尾野真千子主演という話で、そこにはあまり興味がなかったので後回しになっていた。けれど、実際は群像劇だったので、話にぐいぐい引き込まれてしまった。

牡丹燈籠を知っている人にとっては、当たり前のことなのかもしれないが、私はあらすじもあまり覚えていなかったので、こんなに複雑で人々の思惑が絡まる話だとは想像していなかった。

むしろ、尾野真千子が演じたお国は脇役にさえ思える。彼女のせいで騒動が起こっているが、どこか狂言回しのように感じた。あえて主演は誰だと考えた場合、飯島平左衞門(高嶋政宏)もしくは、黒川孝助(若葉竜也)じゃないかと思う。

それぐらい、この二人が良かった。役者の力量なのか、脚本や演出なのかはわからないが、この二人の人生がまずあって、そのまわりの人々が描かれていたように思う。

 

まず、冒頭の「発端」が素晴らしい。

腕に覚えのある旗本のお坊ちゃん・飯島平左衞門が、浪人にケンカを売られたのをきっかけに、その浪人を斬り殺してしまう。表向きはケンカを買った形だったが、実は心中では、一度人を斬ってみたいと思っていた。剣豪の業とでもいうのか。自分の腕を試したい、刀の切れ味を試したいと思ってしまう。この描写がたまらない。銃があれば撃ちたくなる、刀を持てば斬りたくなる。そこへ殺して欲しそうな男が現れれば……。この欲望の描写のリアリティ。

高嶋政宏の大げさ、ともすればコミカルにも見える表情の演技が、飯島平左衞門の若さや無邪気さを感じさせて、ぞっとする。好奇心や興味本位で人を殺してしまう表現として、笑いに転じそうなギリギリの演技、素晴らしかった…!

場所は、昼間の刀屋なのだが、画面が暗い。暗いというか黒い。ところどころに差し込む光とのコントラストが非常に美しく、息苦しい。そこへ阿部海太郎の緊迫感のある音楽が入ってくる。音数を極限まで絞った不気味な三味線の音色。

音楽を担当する阿部海太郎と、監督の源孝志は「京都人の密かな愉しみ」シリーズや、夏目漱石の最後の恋を描いた「漱石悶々」などでおなじみだが、この二人は両者がいなければ成り立たない世界を感じさせる良いコンビだ。

音楽はおそらく当て書き。映像に合わせてしっかりと音楽を設定しているのがわかる。阿部海太郎の音楽は、音数を絞っているにも関わらず、情報量は多い。なぜそんなことができるのか、まったく理解できないが、少ない音数だけを鳴らし、弦楽器やピアノの余韻の音がはっきりと聞こえる作りになっている。それが映像作品のBGMになったときに、絶妙な抜け感を発揮し、聞き手の想像力を掻き立てる。

映像作品のBGMは、映像+音楽となるので、音数が多いと目にも耳にもうるさく感じられてしまう。けれど、単純に音数を絞ると、音楽を単体で聴いた時に物足りなさが出てしまうという問題がある。この両方を成立させる音楽というのは、本当に稀だ。そして、これが成功している映像作品は、間違いなく名作だ。

 源孝志の世界観は、阿部海太郎の音楽によって完結し増幅されている。二人の作品を見るたびにそう思わされる。

 刀屋のシーンから一転、話は二十年後に飛ぶ。そこには、壮齢の飯島平左衞門の姿がある。働き盛りで、部下思いの良い主君。二十年前に興味本位で人を斬り殺した若者とは思えない、穏やかな人柄が描かれている。けれど、彼は欲望にまかせて人を殺している人間だ。その対比、穏やかな人間の中にある泥のような欲望が怖い。そしてたまらなく魅力的だ。

そんな飯島平左衞門の元に、かつて斬り殺した浪人の息子、黒川孝助が奉公人としてやってくる。

 

続きが気になるー!!!!!と叫ばずにはいられない展開。

 

尾野真千子演じるお国は飯島平左衞門の妾におさまって、家を乗っ取ろうとする。彼女の画策によって飯島平左衞門の娘・お露(上白石萌音)は家を出ていくことになるが、そこで出会うのが萩原新三郎(中村七之助)だ。

二人はひと目で恋に落ちるが、身分違いの恋を止められる。そして、お露は新三郎に恋い焦がれ、ついには死んでしまう。

ここからが有名な、牡丹燈籠。新三郎を思い、幽霊になったお露が毎晩会いに来るという話だ。

ここからのシーンは、正直ちょっとどうなんだという仕上がりだった。というのも、幽霊の表現方法が安っぽいのだ。現実のシーンが良い映像なだけに、お露がキョンシー(古い)のように飛び回るシーンは笑ってしまう。なぜこの表現になったのだろうか。吸血鬼のように血を吸うシーンもあって、幽霊ってそんなだっけ…?と首を傾げた。むしろ、幽霊のようなシーンは見せないという表現で撮れたのではないかと思った。

私はホラー映画はほぼ見たことがないので、的外れを承知で言えば、天海祐希主演の「狗神」のように、いるけど(目には)見えないという表現で押し通す方が怖いし美しいんじゃないかと思う。

 落語は、話芸だ。当然のごとく映像はない。小説でもそうだが、想像の方が怖いということはよくある。見えてしまえば、それがどれほどリアリティのある何かであっても、あまり怖くない。見えないところ、見れないところにこそ、一番怖いものがスッと入り込む。

お露の幽霊のシーンは、通常の逢瀬として見せて、新三郎の体の変化が異常になっていく、という方が良かったように思う。ただ、この表現はホラー映画でのベタなのかもしれない。そのあたりはよく知らないので、この映像の必然性が別のところにあれば申し訳ない。

物語は、この後、黒川孝助の仇討ちの話に展開していく。金に目がくらんだ人々が、次々に人を殺し、殺されていく展開が続く。そこもおもしろい。一度タガが外れた人間が、どんどん転がり落ちていく。

これを寄席で話されたら、そりゃ毎晩通うわな、という引きの強さ。怪談話と謳っているが、落ちのない怪談ではないし、むしろそこは客寄せなんだろう。

怪談話というオブラートに包んで、まったく別の人間ドラマを見せる話についつい引き込まれ、4話をあっという間に見終わった。

語りたい部分はまだまだあるが、本当におもしろい作品だったので、再放送や、地上波で放送があればぜひ見ていただきたいなと思う。

映画「ジョーカー JOKER」 ネタバレ感想


映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開

 

これがずっと見たかった!!

そう叫ばずにはいられないアメコミ映画だった。

 

こういう暗い内容の映画が、アメコミである必要性は、誰もが偏見なく物語に入り込める点だと思う。現実世界の具体的な何かを批判する、という方法はあまり好きではない。それはドキュメンタリーや論文でいいと思うからだ。

架空の話であるという前提は、価値観の違う人々を結びつける強さがある。アメコミでこそ、こういった社会問題を扱う作品を作ってほしいと強く願う。

もちろん、アメコミのサブストーリーとしても楽しめる。スーパーヴィランのジョーカー誕生の物語が、これほどリアリティに満ちた映画として作られるのだから、本編のバットマンへの想像力が広がるのは間違いない。

戦いとは暴力抗争ではなく、価値観の対立である。価値観の対立は、どちらに善悪があるという話ではなく、ただ「違っている」ことのどうしようもない対立なのだ。

善と悪が対立するのではない。何を「善」とし、何を「悪」と見なすのか、そこが対立しているのだ。

 

映画「ジョーカー」では、主人公のアーサーは善性のある人間として描かれている。本人も精神的な病を抱えながら、病人である母親を看病しているアーサー。母親から「ハッピー」と呼ばれ、人を笑顔にするべくピエロの仕事をしている。

お金も儲からない、同僚もいけ好かない最悪の環境。それでも彼は、誰かを笑顔にしたいと思って、道化師の仕事を必死に続けている。あまりに健気すぎて、たまらない気持ちになった。

アーサーは、なんとも気持ち悪い人物だ。けれど、それは彼の本性(心根)が気持ち悪いのではない。彼の外側が、どうにも気持ち悪いだけなのだ。

突然笑い出すという障害や、痩せこけた顔。状況が理解できていない笑いのセンスや、リアクションの遅さや奇妙さ。妄想のせいで他人と現実の認識が違っているところなど、とにかく何を考えているのか、外側からはわかりづらい。意思疎通がうまくいかない気持ち悪さだ。

人が一番怖いと感じるものとは、よく知っているはずなのによくわからないもの、だと思う。

例えば、タコと意思疎通ができなくても、私達は怖くはない。見た目も生態系も違う生き物なので、言葉は通じなくて当たり前。けれど、アーサーは人間だ。同じ人間のように見えるのに、うまく意思疎通ができない異物を、人はことさら嫌う。それは恐怖にも似た嫌悪感だろう。

アーサーが見るからにヤバそうなイカれた外見なら、それはそれで救いがあったようにも思う。一見普通、善良ささえある人物だからこそ、何を考えているのか理解しづらいという異物感が目立ってしまう。

人は誰しも他人を見誤っている。けれど、それが表面化するかしないかは、大きな違いだ。間違っていても、合っているかのように思えればコミュニケーションはうまくいく。アーサーは、善良な人間だけれど、その異物感は拭いきれないほど表面に現れていた。

 

度重なる不幸がアーサーを襲い、唯一の肉親である母親の嘘をきっかけに、アーサーは完全に社会(ゴッサムシティ)における善悪(ルール)を捨て去る。

けれど、彼の中の理屈は終始間違ってはいなかった。彼は、彼の中の正当な理由によって人を殺していたし、見知らぬ他人を殺したわけではなかった。そのうえ、できれば人殺しなどはしたくないとさえ思っていたように感じられた。

アーサーは、なぜ人は善良ではないのか、という点を怒っていたのだろう。ゴッサムシティで人々が幸せに暮らす世界を夢見ていたと思う。それはバットマンと同じ気持ちだったはずなのに。

 

前半、アーサーが笑うシーンはすべて泣き声のように聞こえる。笑っているはずなのに、彼はずっと泣いていた。けれど、徐々にジョーカーに変貌していき、人を殺しだした彼は、楽しくて笑っていた。

この演技の違い、演出方法に鳥肌がたった。私は、アーサーがジョーカーとして階段で踊るシーンや、人を殺すシーンで、ようやく彼が何かから解放されたのだと思った。そこには幸せすらあるように感じられた。ジョーカーの視点でみれば、物語はすべて必然だった。

 

彼は悪のカリスマになり、多くの暴動を起こす人々に取り囲まれて、物語は終わっていく。

けれど、それもアーサーが望んだ未来とは違っているように思えた。燃える街を笑いながら見ていたアーサーだったけれど、彼が望む街の形はそうでないと思う。暴動を起こす人々とも、どこか共感できない、アーサーの善性が最後まで見え隠れしていたように思う。

 

自分の出生もわからず、養父から虐待を受けて育ったアーサーを思うと、あれだけ健気に生きているだけで十分立派な人間だ。よくそんな善良な人間に育ったなと驚くほどだ。けれど、だからこそ、彼は社会の不誠実さに叩きのめされたのかもしれない。

 

アーサーが、ブルースの父であるトーマス・ウェインに食って掛かるシーンの一言が心に突き刺さった。

アーサーは、金がほしいんじゃない、ただ優しい言葉とハグが欲しいだけだと叫ぶ。

けれど、それが一番手に入れるのが困難なものなのだ。簡単に手に入るものなはずなのに、ハグひとつ、優しい言葉ひとつが手に入らない。この事実は本当に重い。

 

映画はけっこう地味な展開で、映像的に大きな見せ場があるわけではない。じわじわとアーサーがジョーカーに変化していくが、どこかの点で、という演出ではない。何なら最後までアーサーはアーサーでしかない。

けれど、この先、この映画を何度も見てしまうに違いない。

その度に落ち込むのだろうけど、素晴らしい映画だったと思う。

日記。

近頃、退屈だと思うことが増えた。

バラエティを見ても、映画を見ても、ドラマを見ても、本を読んでも、以前ほどは楽しめていないと感じる。自分が何を楽しがっていたのか、うまく思い出せないことがある。

 

 半分、リハビリのような気分でブログに感想を書いていると、色々なことが鮮明になったり、逆にぼんやりしてくることがある。

 自分が何を考えているのか、言語化することで客観視しているのだろう。客観視すると、鬱屈した感情の整理がついて、自分が何に怒っていたのかが曖昧になっていく。冷静になると言い変えてもいい。

 後から自分の書いた感想を読み返すと、とても同一人物とは思えない感想だったりする。人間の整合性なんてものは、あるような、ないような適当なものだ。

 ぼんやりしていると、すぐに怒ってしまう。怒ることは生きることのエネルギーのようにも思うし、決して悪いことではない。

理屈ではそう思っている。でも感情がついていかない。怒る自分に罪悪感を覚えている。

 

慣れであったり、先読みする能力があがった影響もあるだろう。物事はいつか飽きることがあるのは仕方がない。

思い返せば、様々なことに飽きてきたように思う。

 

私が漫画を書いたり、文章を書くというような創作行為が好きなのは、創作そのものではなく、物事を考えることが好きだったからだ。漫画に落とし込んだり、文章化することで、事象をより深く理解するのが楽しかったのだろう。

そこで思いがけない自分の考えや、驚くような思考回路にたどり着く。その発見こそが最大の喜びだ。

だから、創作活動は他者のためにやっていることではない。自分が自分を(ひいては他人を)よりよく知るためにやっていることだ。

ここにレビューを書く行為も、自分の考えを整理することと、自分用のメモの意味合いが強い。

頭の中にはイメージ映像が飛び回っている。どうも、映像記憶と感情記憶がセットになっていることが多いらしく、言語化できていない感情が映像となって頭に浮かんでいる。

私はずっと、自分の言語能力が高いとは思っていなかった。それは、自分の中にある映像や感覚や感情をうまく説明できなかったからだ。映像、音、色、匂いや皮膚感覚。それを言語化するのはとても難しい。

記憶は、その複合体で構成されている。言語というのは、単一でシンプルな一本の線(ライン)のようだ。記憶には複数のラインがあるのに、言語という単一ラインに乗せるというのは、そもそも無理な話だ。

けれど、単一ラインだからこそ、他者との共有が可能であるのも、言語の魅力だ。言語は時間をも超えていく。たくさんのイメージ映像が飛び回る頭の中で、言語化されたものだけが記録として確実に残っていく。

時間が経った後に、自分の文章を読み返すことがよくある。

8割ぐらいは覚えているが、こんなことを考えていたのか、と驚く2割が必ずある。この感覚がたまらない。文章を書いていた瞬間の匂いや味まで思い出すような、妙な感覚だ。

よく知っているはずなのに、誰だこいつと、自分自身に対して思う。

そういう時、朝と夜の自分が同一人物だなんて思えなくなる。そうして、どんな怒りも、一過性のもの、もしくは私の脳みそが見せている幻なんじゃないかと思えてくる。

東海道四谷怪談 2019年9月 南座

念願の四谷怪談

関西では26年ぶりの上演。私にとっては初であり、生の舞台で鶴屋南北の作品を見るのも初めてだった。

 

私の初めての四谷怪談は1997年発行の京極夏彦の小説「嗤う伊右衛門」だった。怪談も歴史モノも苦手だった私が、人生で初めて読んだ時代物小説でもある。

京極夏彦が、定説となっている四谷怪談を読み替えるというのが、おそらくこの本の凄みだと思うのだが、いかせん私は元を知らなかった。ただただこの小説が好きで好きで、実際の四谷怪談とはどんなものなんだろうかと夢を膨らませていた。

歌舞伎などの四谷怪談と、京極小説はまったく違う、とは思ってた。けれど、想像以上に違っていたので、ここまで読み替えるなんて、京極夏彦ってすごすぎるなと改めて「嗤う伊右衛門」という作品が異質だったことを思い知った。

 

歌舞伎版を見て思ったのは、自分が「四谷怪談」を好きなのではなく「嗤う伊右衛門」という作品が好きだということだった。怪談話はどうも腑に落ちない。エンターテインメントとして楽しめない、という感覚だ。

私自身にコンテクスト(文脈)を読み解く力がないという問題もあるだろう。また、現代において数多くの物語を読み聞きした自分にとって、展開の面白味を感じにくいという問題もある。そうなると、どうしても役者の魅力で作品を見るしかなくなる。こういう状況だったので、ついつい役者の方へ、厳しい目が向いてしまった。

 

もともと、歌舞伎芝居というのは、物語(ストーリー)が主役ではなく、役者をより魅力的に感じるためのエンターテインメントだ。

愛之助伊右衛門は、悪くはない。でも魅力的かと言われるとそうは思わない。立ち姿もかっこいいし、顔もかっこいい。芝居も間違っていないと思うけれど、それ以上の何かがない。おそらく、好きになれないんだと思う。

妻に毒を盛る極悪な男の、どこに好きになる要素があるんだ、と思われるかもしれない。しかし、この色悪の代表である伊右衛門。彼がなぜただの悪役ではなく「色悪」と呼ばれているのか、という点を考えてみたい。

 

「色悪」は歌舞伎のキャラクター用語で、鶴屋南北が作り出したとも言えるキャラ類型だ。現代で言えば「地味っ子メガネ」とか「天然美少女」とか、そういう言葉に当たる。

辞書には、「外見が二枚目で性根が悪人」とか「表面は二枚目であるが、色事を演じながら、実は残酷な悪人で女を裏切る悪人の役」と書かれている。

これだけ聞くと、いわゆる「悪美形」か、と思わなくもない。美しくて悪いヤツ。そういう意味は多分にあるのだろう。ただ、私はこの「色」という言葉はただの「美形」を意味しているのではないと思っている。

「美しいもの=魅力的なもの」と考える人は多いが、それは決してイコールで結ばれるものではない。魅力的なものの一部に「美しいもの」は入っているが、美しいもののすべてが「魅力的なもの」ではない。

「色」は「色事」のイロで、性愛を含む恋愛の概念だ。そこには、現代で想像する恋愛とはかなり違った価値観があるだろうし、性愛を突き詰めた遊び(であり本気)なのだと思う。

民谷伊右衛門は悪い男だ。妻に毒を盛って殺し、死体を川に流したりする。でも、彼が「悪人」ではなく「色悪」なのは、見た目が良いという意味だけではなく、「好きにならずにはいられない」という点だと思うのだ。

こんなに悪いヤツなのに、目がそらせない、ついつい見てしまう。惹きつけられて魅入られてしまう。それこそが「色悪」なんじゃないかと私は思う。

観客は、悪に恋をしてしまう。だめだと思っているのに好きになってしまう。そういうジレンマを感じることがエンターテインメントなんじゃないだろうか。

だから、伊右衛門は魅入られてしまうほどかっこよくなければならない。それは見た目の美しさだけではない。人間的な魅力、思わず愛してしまいそうになる何かが見えなければならない。

そういう意味で、愛之助演じる伊右衛門はかっこよかったものの、魅力的ではなかった。ただの悪役に見えた。

七之助にしても中車にしても、また脇役の演者にしても、全体的に声がよくないのが気になった。壮絶なシーンが多いので、怒鳴り気味になるのは仕方がないのかもしれないが、一本調子なので飽きてしまう。声の強弱だけではなく、高低の変化でセリフを言って欲しいと思うところがあった。

演出に関してもメリハリの薄さが気になった。直助がお袖に横恋慕する前半のシーンは、もっと軽妙に、笑いが起こるぐらいの演出の方が良かったと思う。ほのぼのした日常から、突然、殺人のような陰湿なシーンに切り替わる方がショッキングだ。さっきまで一緒に楽しくすごしていた人物が、人殺しをしているなんて、とても刺激的だと思う。

 

鶴屋南北という人の作品を、あらすじだけでたどると、とても好きだなと思うのだけれど、いざ歌舞伎を見るとハマらないという、なんとも消化不良なことが多々ある。

役者が違ったり、演出が違うと、ガラリと意味が変わるのが舞台のおもしろいところでもある。いつか理想の南北作品に出会えるといいなと思う。

 

嗤う伊右衛門 (中公文庫)

嗤う伊右衛門 (中公文庫)