江戸の骨は語る 著者:篠田謙一
岩波書店のTwitterをフォローしていたら、とても印象的な表紙が目に飛び込んできた。
「江戸の骨は語るー甦った宣教師シドッチのDNA」というタイトルの本だった。
くすんだクラフト紙のような色紙に、クロッキー風の人物画。そこに透けるような白い骨が描かれていて、とても素敵な表紙だった。イラストは、 菊谷詩子さんというサイエンス系のイラストを多く手がける画家のものだと後からわかった。
昔、ルイーズ・ゴードンの「人体解剖と描写法」というクロッキー用の画集を見た時、人物の顔から骨が透けて見える表現に、とても心惹かれたことを思い出した。久々に読み返したくなり、濃いオレンジ色の表紙だったと思いながら、本棚を探してみた。けれど、しばらく見つからず、捨てたはずもないのに…と思っていたら、本棚の真ん中にちょこんと鎮座していた。背表紙は白に見えるほど薄くなった朱色になっていて、自分の思い出の中の鮮やかなオレンジとはまったく違っていた。
この本を買ったのは、それほど昔のことじゃないのにと思っていたけれど、軽く十数年は経っていた。こういう経年劣化を目の当たりにした時、人は時の流れを実感するのかもしれない。
そして、この「江戸の骨は語る」も、そんな時の流れについての本だ。
2014年7月、東京都文京区にある切支丹屋敷跡から、3体の人骨が発見された。その1体が、新井白石がかつて尋問した宣教師シドッチの骨ではないかという疑問が浮かび上がった。
著者である篠田謙一氏の元に、その骨の人物を特定する依頼がやってくるところから本書は始まる。
篠田謙一氏は国立科学博物館の副館長であり、人類研究部長である。平たく言えば研究者なのだけれど、彼の書く文章がとにかくおもしろい。
骨の鑑定に関する、細かい研究の進め方やDNA解析の方法を記した本なのだが、私は、この本をちょっとした探偵小説のように読みすすめた。
古人骨がどこからやってきて、どのような行政区分によって仕切られているのか、また研究費用はどこから出ているのか。そんな細かいディテールが描かれているのが興味深い。
建築物を立てる際、その土地の下に遺跡が発見されると、工事がストップしてしまうという話を聞いたことがある人も多いだろう。
奈良や京都ではとにかく遺跡が多く出てくるので、見つけた発見者は「見なかったこと」にして遺跡を埋めてしまう、なんていう笑い話もあるぐらいだ。
しかし、その発掘費用が施工主負担だと知る人は多くない。私もまったく知らなかった。工事がストップするだけかと思っていたら、その費用まで加算されるとなると、遺跡を埋没させたくなる気持ちもわからなくもない。
博物館に持ち込まれる古人骨の多くは、そういう遺跡由来のものが多いのだそう。だから、東京オリンピックや都市開発などの大型公共事業が盛んになると、遺跡が発掘される確率があがり、仕事が忙しくなるのだという。
世間の景気に左右されるというのは、言われてみれば至極当然なことだけれど、考古学者と日本の景気を結びつけて考えたことがなかったので、なるほど、と妙に納得してしまった。
また、考古学者やDNA解析者の間(いわゆる業界内)で使われている言葉の説明も面白い。
骨を専門に扱う人々を「骨屋」と呼び、化石を見つけるのが得意な人を「骨運がある」と表現する。いかにも通っぽい、その呼び名に、なんとなくフィクションのようなおもしろさを感じる。連続ドラマなどで、考古学者兼探偵役のキャラクターが言ってそうな感じとでも言うんだろうか。
また、DNA解析を行う際、目的のDNA以外の別人(または別の生物)のDNAが混じりこむことを「コンタミネーション」と言うそうだ。
略して「コンタミ」。
しかし、コンタミと外国人が言うのを聞いたことがないので、おそらく和製英語だろうと著者は書いていた。
細かいDNA解析の説明の最初に、コンタミという和製英語について、さらっと書くサービス精神が、なんだか軽妙でおもしろい。
また、研究費用についてもさらりと教えてくれている。
コンタミを防ぐための、DNAフリーの(不純物が一切入っていない)水は18mlで3万円もするそうだ。
ただの水に3万円!?(いや、DNAフリーだけど!)
ワインボトル1本分の量に換算すると約240万円。
けれど、本を読みすすめていくと、3万円の水の価値がよくわかってくる。DNAを採取する苦労を考えれば、水3万円は絶対に必要経費だ。しかも18mlあれば1年分の研究に使えるそうだ。1年持つなら安いもんだ!…そう思えるほど、DNAの採取や解析は大変で緻密な作業だ。
でも、この本を読まなければ、(水に3万円って…もうちょっとどうにかなるんちゃうん??)と思っていただろう。
無知って怖い。
DNA解析を行うマシーンも次々と新しいものが開発されていて、数年前とは比べ物にならないほど進歩しているらしい。けれど、最新型はもちろん費用もかさむので、少し前の型落ち機材で対応しているという話も、自分が家電を買う時に悩む気持ちとそっくりだ。
考古学者の気持ちとリンクしてしまうのが、なんだかおかしい。
また、研究における守秘義務についても、筆者のボヤキがところどころ顔を出して、たまらない。
今回のシドッチの遺骨鑑定は、トップレベルの非公開設定になっていたようで、文京区が発表する報告書よりも先に、学会発表などは一切行えないという決まりがあったそうだ。通常は、出版は無理でも学会発表ぐらいは許されるらしい。
また、その報告書から二年以上経過しないと、本の出版もできないという徹底っぷり。だから、この本は2018年4月に発行されたが、研究自体は2015年7月に終了していたそうだ。
外に出せない研究は、外から見ればやっていないのと同じ。というわけで、著者の研究へのモチベーションがだだ下がるという一場面に思わず笑ってしまう。
また、記者発表の席でイタリア大使やキリスト教関係者の話が長すぎて、肝心の研究発表の説明が10分足らずしかなかったことを、ぼやいていたのも、あけすけな感じで良かった。
本の内容のほとんどは、人骨についてや、DNA解析についての細かい説明なのだけれど、ところどころ見える著者の人間性にひっぱられて、かなり難しい説明も読みたいと思わせられた。
著者と一緒に、シドッチの骨の解析を行う日常に引っ張り込まれたような錯覚が起こる、とてもおもしろい本だった。
ミュージカルはなぜ歌い踊るのか <シー・ラブズ・ミー 松竹ブロードウェイシネマ>
松竹ブロードウェイシネマという企画で、「シー・ラブズ・ミー(She Loves Me)」という舞台映像を見てきた。
映画『松竹ブロードウェイシネマ 「シー・ラヴズ・ミー」』予告
ブロードウェイで上演された舞台を映画館で見られるという企画だ。料金は3000円で、公開期間は1週間。しかも昼1回しか上映しないうえに、東京・大阪・名古屋でのみ公開。公式サイトはフェイスブックのページのみという、なかなか縛りの多い興行だった。
それでも、ミュージカル映画に目がない私は、ずいぶん前から絶対に行こうと思っていた。かつて、ムーラン・ルージュを映画館で見ずにDVDで見てしまい、大変後悔したことがあったからだ。
結論から言うと、シー・ラブズ・ミーには満足できなかった。その理由が何なのか、帰り道でずっと考えていた。色々と要因はあるんだろうけど、その理由を言語化することで、自分がミュージカル映画の何を好きなのか、明らかにしていきたい。
まず、私が好きなミュージカル・およびミュージカル映画を箇条書きにしておく。
日本で公演されたものは、舞台もほぼ見ているが、基本的には"ミュージカル映画”が好きな映画オタクである。
▼舞台
・クレイジー・フォー・ユー(作曲:ジョージ・ガーシュウィン)
▼映画
・ウエストサイドストーリー(作曲:レナード・バーンスタイン)
・ジーザス・クライスト・スーパースター(作曲:アンドリュー・ロイド・ウェバー)
・コーラスライン(作曲:マーヴィン・ハムリッシュ)
・シカゴ(作曲:ボブ・フォッシー)
まず、一番目の問題点は、ミュージカルそのものの話ではない。
音響設計の話だ。
舞台ミュージカルでは、いつの頃からかピンマイクを使うことが一般的になった。マイクを通した声が嫌になり、舞台に熱心に通わなくなったことを覚えている。それなら家でCDを聞くのと変わらないじゃないか、と当時思っていた。
けれど、私はマイクを通した声そのものが嫌いなわけではなかった。例えば、クラブ音楽で多様される加工された声や、いわゆるオートチューンのかかった音声は大好きだ。蓄音機から漏れ出たような歪んだ声も好きだし、拡声器を使って歌われる歌声も好きだ。どちらかと言えば、機械的な音や加工された声は好きな方なのだ。
ただ、それを舞台空間で聞くことがどうしても耐えられなかった。なぜなら、舞台演劇でピンマイクを使うことは、音声を均一化してしまうことになるからだ。
人は音から方向を予測する。本来、自分の正面の舞台から声がするはずなのに、スピーカーから声がすると、役者の立ち位置とのズレが出てしまう。それが違和感になる。
役者が、舞台中央にいる時と、舞台端にいる時では、声は違って聞こえる。もっと言えば、役者が前を向いているか、横を向いているかでさえ声の響き方は変わる。
しかし、ピンマイクを使用すると、それらすべてが均一化されてしまい、方向性が失われてしまう。声を発しているはずの役者の声が、その人物の声に聞こえなくなり、まるで別人の吹き替えを聞かされているような錯覚が起こる。
さらに、音量の均一化も起こる。ミュージカルに限らず、オペラやオーケストラなどの舞台表現にはつきものだと思うが、小さな音と大きな音の差が激しく、広範囲に渡っているため、マイク調整(スピーカー調整)がとても難しい。そのため、ささやくような声と大声で歌い上げるシーンとのバランスをとるため、音量の調節がされてしまう。
小さい声は、はっきりと聞こえるほどクリアで大きくなる。しかし、その結果、大きな音が大きすぎたり、ささやきには聞こえない大きな声でしゃべっている変な人物になってしまう。
全体的に「大きくてクリアで平坦な音」が出来上がってくる。
歌手のコンサートなら、まだいい。
一人の歌手が歌う公演ならば、それほど距離感の把握は必要ではないだろう。でも、舞台演劇の場合は、各人の位置は重要である。生音・生演奏の信者ではない私が、舞台演劇においてだけは、どうしてもマイク音声を受け付けないのはこの点にある。
舞台ミュージカルでこの現象が起こるようになってから、ミュージカル映画にも逆輸入的に音響問題が発生してくる。
吹き替えによる音声加工の問題だ。
もちろん、吹き替えは昔からある手法で、ウエストサイドストーリーなどは主演の二人の歌声は別人による歌唱だ。
それでも、私はあの映画を愛しているし、吹き替えも素晴らしかったと思っている。だから吹き替えが悪いのではない。その設計に問題があると思っている。
2017年版「美女と野獣」の実写映画を見た時、エマ・ワトソンの歌声の違和感がぬぐえず、全編見ることができなかった。
映画なので、音声は後から重ねているのは明白だ。本人による吹き替え歌唱なのだが、音声加工の違和感がすごかった。
人間の歌い方ではありえない声の伸び方をするのだ。そのうえ、息つぎの音はなく、一切の雑音がない。音量も均一で、ハイトーンボイスで確実に音を突いていく。そんなことはありえない。超人的すぎる。
私は音声加工ソフトについては素人なので、何を使ってどうなったかはわからないが、おそらくオートチューン的な、音程をあわせるソフトも使っているんだろう。そのせいで、響きが機械的にぴったり重なっているのも気持ち悪かった。
音程は正しい。けれど、音量が正しくない。予備運動なしでいきなりトップスピードに達するような、妙な具合になっていた。
美女と野獣だけではない。最近のミュージカル映画の多くは、歌パートの音量が大きすぎで、そこだけ浮いてしまっている気がしてならない。
その始まりは、私が大好きな「ムーラン・ルージュ(2001年公開)」にあるとも言えるので苦しい問題だが、あの頃はまだ音声加工技術も進化していなかったので、ベストテイクを録る、つなぎ合わせるというぐらいに落ち着いていたのだろう。楽曲もロックやポップスなど、広く一般に親しまれている音楽を使っていた点も、違和感を少なくさせていた。
そんな状況下の中で、私がミュージカル映画ではなく、舞台ミュージカルの映像化に何を期待していたか、ということだ。
シー・ラブズ・ミーは、舞台ミュージカルだ。舞台を撮影し、それを映画館で流すという試みで、私はとても期待していた。映画ではなく舞台である意味は、やはり音響設定にあると思っていたからだ。
けれど、この公演の音声は、非常に大きくてクリアで平坦な音にされていた。
冒頭から音声が大きい。その大きさは、叫び声をあげているかのようだった。映画館そのものの音響もあるだろう。だから舞台か上映映画館、どちらの問題かはわからないが、観客の笑い声などが妙に鮮明に入り込んでいたので、もともとの映像作品となった時点で、かなり音声に手が加えられていたのではないかと予想している。
観客の声がそこまで拾えるなら、舞台での役者の靴音や衣擦れの音が入らなければおかしいと思うのだ。そして、そういうものが入り込むことが生っぽさじゃないのかと思う。
せっかくの舞台公演の上映なら、そういう方向性で音声を加工しなくてもよかったのにと思ってしまう。聞き取りにくい箇所があったとしても、全体の位置関係がわかるような集音の仕方が合うんじゃないかと思う。
舞台公演は、座席数の関係で儲からないという問題があるんだけれど、こういう劇場上映やライブビューイングは、小さな(音響的に最適な)劇場で公演し、しっかりと売上げを回収できるビジネスモデルなので、とても期待している。だからこそ、舞台の音響を全体的な集音にして欲しいと思ってしまう。
もともと、アメリカのブロードウェイチャンネルでの配信が目的の映像作品だそうなので、そちらの方針がこういったクリアで大きな音を流していくということなんだろう。重ね重ね残念でならない。
次に、シー・ラブズ・ミー本編について。
ここから、ようやく本題の<ミュージカルはなぜ歌い踊るのか>という話をしたい。
シー・ラブズ・ミーの世界観はとても可愛い。
いわゆるロマンティックコメディに分類される、男女のすれ違いを描いた恋愛喜劇だ。
衣装も舞台装置もとにかく可愛くて、最高だったと思う。特に、舞台装置の工夫が素晴らしく、メイン舞台となる香水店の中と外を表現するために、書き割りがくるくると回転する。書き割りの回転というアイデア自体はそれほど珍しくないが、3つの書き割りの回転、舞台を分割してしまうという大胆さ、そして大胆さを覆い隠すようなドールハウス的可愛さによって、不思議な空間が出来上がっていた。この舞台装置の愛らしさが、物語の愛らしさとリンクしていて、考え抜かれた素敵な仕掛けだった。
物語は単純な話だ。けれど、その単純さが可愛さでもあり、ハッピーエンドを予感させるものでもある。
問題はここからで、この物語、果たしてミュージカルである意味があったのだろうか?という点だ。
トム・ハンクス、メグ・ライアン共演の映画「ユー・ガット・メール」の原作という点で考えても、歌や踊りがなくても成立するのは明らかだ。そもそも、本作では踊りのシーンはほぼない。歌うシーンはあるけれど、踊りらしい踊りはない。
ロマンティックコメディが大好き。
ミュージカルも大好き。
そんな自分が、なぜこの舞台にときめかないのか。
そこまで考えて、ミュージカルにおける歌や踊りのシーンとは何なのか、私は初めて真剣に考えてみようと思った。
少し話は逸れるが、私はデフォルメされた絵がとても好きだ。
漫画文化に慣れ親しんできた影響も多いにあるだろうが、中でもデフォルメ絵に目がない。企業のロゴマーク的なものも好きだし、線数が少ない絵がとても好きだ。
たとえば、藤子不二雄の絵だったり、長谷川町子の絵が好きだ。現代漫画家でも好きな人は多いが、大ゴマ化や写実的な絵にはあまり魅力を感じていない。
たった一本の直線や曲線が、何かを意味している、という状態が好きなんだろう。パターンや家紋、文様、漢字やフォントにいたるまで、とにかくデフォルメされた記号的な何かがとても好きだ。
なぜこんなにデフォルメに「萌える」のか。
それは、デフォルメが「意味」の「濃縮」だからだ。
一本の線は、本来一本の線でしかない。
円もただの円で、そこに意味はないはずだ。
けれど、描き手はそこに意味を込めるし、読み手はそこから意味を感じ取る。普段、何気なく行っている行為だけれど、これは文化的な何かを共有していないと成り立たない行為だ。
たとえば卍マークは、どこで目にするかによって意味が変わる。
地図上で見ればお寺のマークだし、ネット上で見れば若い人の文章なのだろうと推測される。そして、ドイツでは禁止されているマークとなる。
同じ記号であるはずなのに、すべて意味が異なっている。
文字なども当然そうだ。
複数の直線と曲線の組み合わせで、我々は相手の話や思考を知ることができる。それがどれほどの精度かはさておき、コミュニケーションの手段として有効に使われている。
そこには、意味(や現象)の濃縮がある。太陽という文字を見て、私達は空に浮かぶ太陽や、誰かが描いた赤い太陽や、太陽に照らされた草花の輝きを頭に思い浮かべる。
たった2文字、「太陽」という文字からそれだけたくさんの映像や心象風景を思い浮かべる。人によっては、匂いや音、感覚を鮮明に呼び起こす人もいるかもしれない。
これが、デフォルメの濃縮効果だ。
ミュージカルにおける「音楽」とは、このデフォルメ効果があるのじゃないかという仮説を思いついた。
たとえば、ウエストサイドストーリーでは、2つの敵対するグループの抗争から物語はスタートする。
それぞれのグループ、ポーランド系アメリカ人と、プエルトリコ系移民の若者たちの抗争なのだが、彼らがどんな歌を歌うのか、どんな曲で踊るのかで、彼らのバックボーンまで語っていく。
たくさんのセリフを要さなくても、彼らが何に不満を感じ、どういう状況に置かれているのかを、音楽を通してダイレクトに(感覚的に)伝えていく。
これは物語の「濃縮」ではないだろうか。
一見すると、短い時間、少ないセリフなのだが、情報量自体はとても多い。しかし、音楽にするこによって多いと感じさせない。言語を司る部位以外をフル活用させて大量の情報を伝えていく。
音楽と踊りが、それを可能にさせている。
ジーザス・クライスト・スーパースターもそうだ。イエス・キリストの生涯を描いた作品で、これを文字で読むのは大変なのだが、映像と音楽で語られると、かなりクリアに脳に入り込んでくる。
もし、ジーザス・クライスト・スーパースターがセリフ劇だったとしたら、私の興味は2時間保たない。
音楽には、情報量を詰め込むだけでなく、場面転換が劇的に行えるという利点もある。
しかも1曲ごとではない。やり方さえ合えば、1小節ごとに別人物の心情を切り替えていくことができる。さながら、漫画のコマ割りのように、複数の心情を受け手に混乱なく伝えることができる。
ウエストサイドストーリーでは、トゥナイトが五重奏で歌われる印象的なシーンがある。
ウエストサイド物語~トゥナイト五重唱(Tonight:Quintet)
わずか3分の間に、これだけの人物の状況と心情を的確に表現している楽曲なのだが、それが音楽的に成立していることがすごい。
戦いに挑むための「今夜」
恋人との逢瀬を待ち望む「今夜」
幸せな未来を夢見ている「今夜」
それぞれの思い描く今夜は違うというのに、そのすべてが「トゥナイト」という一言に集約されていく。
セリフ劇でこの情報量を3分に落とし込むことはできない。
この濃縮があるからこそ、名作のミュージカルナンバーというのは、それ単体でも長く愛されるのだと思う。
どこにでも当てはまる曲ではなく、そのシーン、その状況にしか当てはまらない曲だからこそ、普遍性がある。この1曲を聞くだけで、物語の中に引きずり込まれる快感が、ミュージカルナンバーにはある。
ジーザスやウエストサイドのような、ハードな内容のミュージカルとラブコメであるシー・ラブズ・ミーを比べるのは酷な話だろうか。
では、ラブコメの王道、クレイジー・フォー・ユーはどうだろうか。
こちらも物語としては、それほど複雑ではない。誤解が誤解を生み、男女がすれ違う喜劇だ。
けれど、この話には劇場再建というテーマや、音楽を通じて生きる喜びを見出すという複雑なモチーフが隠されている。
男女のラブコメは、メインではあるものの物語の一部なのだ。
つまり、ミュージカル作品とは、情報量を多く伝えることができるため、情報量が多くない脚本にしてしまうと、中身がすっからかんになってしまうという難しさがあるのだと気がついた。
シー・ラブズ・ミーの歌は、登場人物の心情をただ歌うだけだ。しかし、それはもうわかっている。キャラクターの表情や状況だけで、誰かのことを「想っている」というのは十分伝わっている。
そうじゃない別の顔、別の切り口で思いを伝えてくれれば、こちらも飽きずに見ることができたのだが、歌のシーンがただの説明と繰り返しになっているのだ。
キャラクター性による楽曲の変化も乏しい。統一感があるといえば聞こえはいいが、すべてが同じ曲調であるのも残念だ。
カフェのシーンでようやく踊りと別の曲調が出てきたのだが、物語が1時間以上経過した頃だった。
世界観にひたるという意味では、繰り返しの楽曲もいいのかもしれない。この物語には、合っていると言えばそうなのかもしれない。
すべては好みの問題で、自分が濃縮されたミュージカル表現が好きだということなのかもしれない。
ただ、やはり説明には緩急が必要だし、暗いものと明るいものが隣り合わせの方が、双方が輝くと思うのだ。
この物語が可愛い物語なのは間違いない。でも、その可愛さだけしかない世界は、可愛いさを体感できる世界ではないのだと思った。
She Loves Me (2016 Broadway Cast Recording)
- アーティスト: ジェリー・ボック& シェルドン・ハーニック
- 出版社/メーカー: Ghostlight Records
- 発売日: 2017/10/02
- メディア: MP3 ダウンロード
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戯曲 番町皿屋敷 岡本綺堂 平成31年1月公演
え!? こんな話だったの…!? と、見ながら驚いた。
今年の1月に上演された舞台の放送。
皿屋敷といえば、井戸からお菊さんが出てきて「1ま~い、2ま~い…」と数えていくアレ。
お菊さんの幽霊シーンがあるのかな? と思いながら見ていたら、怪談話じゃなくて、悲恋のラブストーリーになっていてびっくりした。
作者は岡本綺堂で、大正5年の作品。
お菊さんの話は江戸時代の話だから、現代的な物語に書き直されたのだと理解した。
皿屋敷の話を聞いた時、皿ごときで女中を殺すから恨まれるんだな、と勝手に思っていた。
でも、この番町皿屋敷では、お菊さんの気持ちもよくわかるし、主人である青山播磨がお菊さんを殺した気持ちもよく理解できる。
あらすじはこんな感じ。
女中のお菊は、主人である青山播磨とこっそり付き合っていた。でも播磨に縁談話が持ち上がって、ヤキモキしていた。
縁談は断る、愛しているのはおまえだけだと言われたお菊だったけれど、播磨を信じることができずにいた。
そこで、家宝の皿(割ったら死罪になるほど大事なお皿)をわざと1枚割って、播磨の気持ちを確かめようとしてしまう。本当に自分を好きでいてくれたら、皿1枚で死罪になんてしないだろうと考えた。
お菊は「うっかり」割ってしまったと嘘をつき、播磨は「仕方がない」とお菊を許す。けれど、お菊がわざと割ったことがバレてしまい、播磨はお菊を問い詰めた。
お菊の試し行動だとわかった播磨は、顔色を一変させて、皿が割れたぐらいで命は奪わないが、自分の真実の愛の言葉を疑った罪は重いと、刀に手をかける。
家来の仲裁も虚しく、播磨はお菊を斬り殺し井戸に投げ捨て、自分自身も自暴自棄になりながら、家を飛び出していく。
というお話。
これなら、確かに筋が通るというか、播磨がお菊を殺す理由がよくわかった。
家宝の皿を割られたことで怒ったのではなく、自分の言葉を信じてもらえなかった怒り、しかもそれを家宝の皿を割って確かめるという愚行に対して怒ったのだとしたら、納得の理由だと思う。
一方のお菊の気持ちもよく理解できる。理解できすぎるほどに理解できるから苦しいところ。
身分違いの男が、本当に女中の自分なんかと結婚してくれるのか、たとえ播磨が何と言おうとも、まわりが許さないんじゃないだろうか、と考えるのは自然なこと。
お菊はきっと播磨が信じられなかったのではなく、自分を信じることができなかったんだろう。自分なんかが…、という気持ちは、恋愛をしているとよく起こる心理で、実は相手がどうであろうと関係なかったりする。言葉で何を言われても、お菊はただただ不安で仕方がない。相手の本当の気持ちは、どうやってもわからない。わからないものを追いかけてしまうと、どツボにハマる。不安なお菊には、解消する手段がないのだから。
お菊が皿を手にして葛藤している姿は、見ているこっちもハラハラした。なにせ殺されるのを知っているもんだから、「あかん、割ったらあかん!お菊さん!」と思いながら見てしまう。
お菊が皿を割った瞬間、家政婦は見たばりに後ろで目撃する別の女中!
アアー!!!!バレとる!!!!
それなのに、お菊が「うっかり」割ったことを播磨に伝えた時の、播磨の優しい対応がたまらない。
お菊のことが本当に好きで、「おまえの母親を屋敷に呼び寄せて、結婚の許しをもらおうか~♪」なんて話しているんだから。
そこから、お菊の試し行動がバレて、播磨が静かに怒り狂うシーンもとても良かった。お菊に残りの皿を畳に置かせ、「数を数えろ」と命じる。お菊が震えた声で「1枚…」と言うと、播磨がその皿を刀の柄で割っていく。2枚、3枚と、声が出せないほど怯えたお菊に向かって、家宝の皿をバンバン割っていく播磨。
皿なんぞ惜しくもなんともない。こんなものはただの皿じゃ!と言わんばかりの播磨。それだって大切な家宝の皿なのだから、播磨の男っぷりがすごい。
そんな家宝の皿よりも大事なもの、それが青山播磨という男の真実の言葉である、という強い信念が伝わってくる。
これは大げさな話だと思うけれど、こういうすれ違いは恋愛によくあるすれ違いな気がする。
信用や信頼というものが、愛情より上回る男性(あえて男性と言わせてもらうけれど、女性でもそういう人はいる)は多くて、そこを傷つけられるともう後戻りできない、というのはめちゃくちゃリアルな話だなと思う。
まして侍。
他の女に目もくれず、女中の恋人を嫁にしようと思っていたのに、それを信じてもらえなかった悔しさは計り知れない。
お菊の気持ちも、播磨の気持ちもよくわかる。よくわかるからこそ、どうしようもない。どうしようもないから、悲劇になるという、なんという理屈の通った話だろうか。
まさか皿屋敷がこんな話になっているなんて!と驚いた。
でも、これは怪談話である皿屋敷を、岡本綺堂が筋の通ったラブストーリーに変換したからこうなったんだろう。とても現代的な話で、びっくりした。
ただ、この終わり方だと皿屋敷は「怪談話」にはならない。
なぜなら、お菊さんは自分が死ぬことを「恨んで」はいないからだ。納得して殺されたので、井戸から湧き出てきて「うらめしや~」と言う必然性がなくなってしまう。
皿屋敷は各地に色々なバージョンがあるらしいので、また見る機会があったら怪談話も含めて見てみたい。
とりあえず、途中で放置していた京極夏彦の「数えずの井戸」をちゃんと読もうと思う。
京都ミライマツリ 南座 5月17日夜マツリ tofubeats (DJset)
十代目松本幸四郎の襲名公演、そして片岡仁左衛門のすし屋を見た舞台で、まさかDJ tofubeatsを初めてみることになるとは、去年の自分はまったく想像もしていなかった。
2017年頃から、どハマリしているtofubeats。
CDを買い集め、公開されているyoutubeの音源なども聞いたりして楽しんでいたんだけれど、クラブにはどうしても行こうとは思えなかった。
というのも、かれこれ20年前。大学生になったばかりの頃に、友達に誘われ大阪のクラブに行った。
そこで、酔っ払った男に絡まれまくったことと、ソファで死んでるのかというぐらいぐったり倒れ込んだ(おそらくキメてた)女子たちを見たトラウマで、二度とクラブには行くまいと思ったからだ。
なんと恐ろしいところか。ここにいたらいずれは全身タトゥーとピアスで薬中になって死ぬ運命を辿るんだ…と、本気で思わされた経験だった。
クラブ音楽は大好きだったけれど、CDを買って、家でヘッドホン越しに聞いてニタニタしてるだけで十分幸せだった。
それはtofubeatsにハマった2017年においても、何にも変わらなかった。
クラブ音楽というのは、本来は表に出てこない音楽だったと思う。その場に行かなければ聞けない音楽が、クラブ音楽だ。
でも、2009年、The Black Eyed Peasの”I Gotta Feeling”が大ヒットしたおかげで、日本に暮らす引きこもりな私の元まで、EDMというジャンルにくくられて、様々なクラブ音楽が手の届くところに出現した。
それまで聞いたこともなかった、トランスとかディープハウスとかダブステップとかバウンスとかダーティーハウスとか、そういうジャンル名すら知らないような音楽が、10年前、私の元にあふれ出した。
いよいよ、私がクラブに行く必要はなくなった。
CDを買えば好きな音楽があるという状況に、私はずっと満足していた。ありがたいな~なんて思いながら、毎日EDMの新曲を探しては、ニタニタしながら聞いていた。
CD最高!生音なんて興味なし!ライブ感とか関係ない!と思っていた。そもそもDJが何をしているのかも知らなくて、私にとって音楽はどこまでいっても個人的なものでしかなかった。
ただ、ライブに興味を持ったのにはきっかけがあった。
電気グルーヴの30周年アルバムを聞いた時、アレンジの良さにびっくりしてしまったのだ。インタビューを読むと、クラブではこういうアレンジでずっとやっていたから、改めて録り直したというようなことが書かれていた。電気グルーヴのこれまでの音源は、あまり好みじゃなかったから、自分は電気の音楽を好きじゃないと思っていた。でも、アレンジが変わるだけでこんなに好きになるなんて、驚きしかなかった。
自分が知らないだけで、クラブでは毎日こうやって、いろんなアレンジが産まれて消えていってるんだろうなと思った。こうして煮詰められた音楽の一部が、商業ベースに乗って自分の元へ届いているのだと実感した瞬間だった。
いつか行ってみたい。そう思っていた矢先に、ああいうことが起こり、電気のライブに行くことはできなくなった。
まさかまさか。人生にはいろんなことがあるものだと思ったし、いいなと思った時に行かないと後悔することもあると知った。
そんな時、京都ミライマツリのイベントを知った。
南座でクラブイベントという、風変わりな企画。
歌舞伎芝居を行う南座を、若い人にも慣れ親しんでもらおうという主旨で開催されたクラブイベントだったけれど、私にとっては逆にありがたかった。
南座なら昨年何度か観劇に行って、見知った劇場だった。それに、あそこにはすごい酔っぱらいはいないだろう…と安心できたからだ。
それでも、クラブのことを知らない自分が浮くんじゃないか、若い人ばっかりだったら怖いな、みんな踊りまくってたらどうしようとか、色々考えた。
毎日、南座の夜マツリの様子を画像検索して、二階席か三階席から見れば安全そうだとあたりをつけて、勇気を出して遊びに行った。
結論から言うと、私はこのイベントに行って本当に良かったと思った。
まず、音量が違うと音楽の聞こえ方が変わる、という当たり前のことに自分がまったく気づいてなかったことを知った。
これまで流し聞きしていたtofubeatsのインスト曲は、なるほど、こうしてDJsetで使用することを視野に入れて作られていたのか!と、心底驚いた。こういう場では、歌入りの楽曲は浮いてしまうんだと知り、びっくりした。
決して歌入りも悪くないし、私も好きな曲はいっぱいあるし、お客さんも盛り上がりはするんだけれど、ああいう場では盛り上がりの方向性が違ってくるんだと思った。
DJがうまいってどういう意味だろう?と疑問に思っていたけれど、自分なりにうまさが何なのか、少しわかった気もした。
盛り上がりというのは、おそらく観客の呼吸コントロールのことなんだろう。音の速さや大きさ、リズムの間隔を調整して、人の呼吸を恣意的にコントロールし、気持ちよくさせていく。気持ちよさにも色々と種類があって、上がる系もあれば心地よい系もあり、楽しい系もある。それを組み合わせて、観客の感覚を思い通りに動かしていくことが、DJのうまさのひとつなのかなと推測した。
そして、単純に、自分と同じ音楽が好きな人がこんなに存在することに、私はとても驚いた。
学校でも職場でも、これだけ長く生きてきて、自分と同じ音楽が好きな人に私は出会ったことがなかった。ネット上で熱く語っている人はいるものの、現実には見たことがなかったから、南座のフロアで楽しそうに踊る人たちを見ながら、なんだか涙ぐみそうになった。
自分が好きなフレーズで、歓声が湧き上がったりすると、たまらない気持ちになった。
一体感とかバカじゃないの?と思っていたくせに、あんなに嬉しい気持ちになるなんて知らなかった。
この音楽のこの部分の音やばいよね!?とか、このリズムたまらないよね!?とか、私はそういうことを人と話したかったんだなあと思った。それが、観客の歓声ではっきりと、みんなそう思っているというのが伝わってきて、もう話さなくても大丈夫だなと思った。
ただ音楽が好きで踊っているだけの場というのは、不思議な心地よさがあった。会社員でも学生でもない、何者でもない自分が存在しているようで、クラブの空間は不思議だと思った。
きっと昔のインターネットに通じる匿名性の心地よさにも似ていて、何者でもない自分が、ただ好きな音楽を聞いて、誰とも知らない人が踊っているのを眺めているなんて、とても贅沢な気がした。
一人ひとりに生活があって日常があるんだろうけど、そういうのがすべて関係なくなる場があるということを、知った。
”I Gotta Feeling”のMVで、仕事のストレスを踊って忘れるという主旨の歌詞と映像があったけれど、私は「へえ~そういうもんか」と思いながら他人事のように見ていた。でも今日、あの場に行ってはっきりと実感した。
これがあれば、けっこう大変な仕事もこなせてしまうなと。
それが良いことか悪いことかは別として(個人的には大変な仕事はしない方が良いと思っているので)、日常のやるせなさを吹き飛ばす効力があるのだと体感した。
歌舞伎を見た時にも感じたんだけれど、自分の時間感覚を強制的に変化させられる感じがした。
些末なことが気になり、細かいことを考えてしまう切り替えの悪い脳みそを持った自分が、すべてのことが気にならなくなるという開放感を感じた。
それは目の前の現実が、極めて狭い視野の範囲のものだと教えてくれるようだった。
それが、ああいう空間の中で音楽を聞くだけで得られるというのは、なんとも不思議で、人間の脳みその謎だなあと思う。
爆音に馴染んだ耳のまま外に出たら、耳が敏感になっていたのか、それともバカになっていたのか、京都の街の音がやけに色々と聞こえだした。
いつもはうるさいと思う車の音や、人の話し声、靴音なんかが、ひどく愛しい音に聞こえた。
非日常を体験すると、日常がこんなにも愛しくなるのかと、これも驚きだった。
そして、自分にとって大切なものが何なのか、自分が好きなものは何なのか、そんなことだけがぐるぐると頭の中をめぐっていた。
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The Black Eyed Peas - I Gotta Feeling (Official Music Video)
ミスターガラス(スプリット・アンブレイカブル)
<ネタバレしてます>
もともと、ヒーローには興味がなかった。
日本の少年漫画はもちろん、日本にもファンが多いと言われるアメコミにも興味がなかった。
私が小学生や中学生の頃にやっていた夕方のアメコミアニメは苦手だったし、ティム・バートン監督のバットマンシリーズも苦手だった。
だから、ヒーローモノには一生縁がないだろうと思っていた。
それが覆ったのが2000年公開、Mナイト・シャマラン監督の「アンブレイカブル」だった。
「アンブレイカブル」はスリラーやサスペンスに見せかけた、アメコミヒーローの誕生物語だ。
物語の種類(ジャンル)が実は違っていた、というのがネタバレのオチなんだけれど、これが当時とても評判が悪かった。
少なくとも私の周辺で、この映画を好きだと言っている人はいなかった。
作中内で展開する物語のオチではなく、その外側、小説で言えば叙述トリックにも似た手法の騙し方を、おもしろいとは思えなかった人が多かったのだろう。
その意見はよくわかる。
そういう、どんでん返しが見たくて見ると、肩透かしをくらう人がいるのも想像がつく。
でも、私はどんなヒーローモノよりも、この「アンブレイカブル」が大好きだった。
それは、この物語が、<ヒーローがこの「現実に」存在したらどうなるだろうか>という思考実験を私に与えてくれたからだ。
かつてこれほど、現実的なヒーロー像を私に提供してくれた物語はなかった。映画でも漫画でも、異次元の力を持つヒーローは最初から存在を許されていた。
そこはスルーするのがお約束。特に語るべきところではなく、ヒーローが悪とどう戦うかに焦点が絞られていた。
でも、アンブレイカブルは、そういうヒーローの存在そのものを問う話になっている。
とにかく私にはこの物語が新鮮に映り、大好きになった。
そこから5年後。
アメコミ映画の金字塔とも言える最高傑作、クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズが始まる。
ノーラン監督のバットマンシリーズは本当に素晴らしいと思うし、私も大好きなんだけれど、アメコミ映画というジャンルに「現実感」という最高のスパイスを持ち込んだのは、「アンブレイカブル」なんじゃないかとずっと思っている。
「アンブレイカブル」がなければ、ノーラン監督のバットマンもなく、X-MENのリブートもなかったんじゃないか、そんなふうにさえ思う。
次元が変わる、とはまさにこのことで、これまで荒唐無稽で非現実的な演出だったアメコミというジャンルを一変させてしまい、ここまでの市場規模に拡大させたのは「アンブレイカブル」なくして、ありえなかったと思う。
ノーラン監督のバットマンにおける現実感と、シャマラン監督の現実感は似ているようで、違う。
ノーラン監督は、ゴッサムシティという架空の犯罪都市が「現実にあったとしたらどうだろうか?」という点に、徹底的なリアリズムを持ち込んだ。
街に住む人々の感情や、行動原理、映像的にももちろん、重力を無視しない演出だとか、爆破できっちり建物が壊れるところなどもそうだ。そして、ブルースの使う車や武器などにもリアリティが宿っている。善悪という哲学的なテーマで主人公が苦悩する姿も素晴らしかった。アメコミの演出を最大限、リアルにしたらノーラン監督のような映画になると思う。
でも、シャマラン監督は違う。
彼の作品は、どこまでいっても「現実にヒーローを持ち込む」という姿勢だ。私達が住む「現実の世界」に「ヒーローがいたら」というラインを絶対に崩さない。これはすごいことだ。
なぜなら、現実の物語には制約が大量に含まれてしまうから。
異能の者を描く時、その根拠を宇宙人説や、とにかく不思議な力として片付けてしまうのは簡単だ。そこにはそれ以上の理由は必要ない。そういうものだと言ってしまえば、とりあえず脚本上の問題はなくなる。
けれど、それにどこまで「現実的な」説明を付け加えるか、その一点に腐心した作品が、シャマラン監督のこのシリーズなんだろう。
それは、あたかも、別の現実を作り出す作業のようだ。
別の空想を作り出すことは簡単だが、別の現実を作り出すことはとても難しい。現実とは、誰もが「納得しうる」ものでないとダメだからだ。
たとえば、ヒーローが活動すれば、それにともなって傷つく人々がおり、世界が変容してしまう。それをすべて考慮しながら、現実に落とし込むには、脚本上の制約があまりに多すぎる。
それなのに。
それなのにだ!!!!
ミスターガラスがおもしろいんだから、度肝を抜かれた。
展開も、最大限にどんでん返しを加えていたと思う。たぶん、この制約の中でできる最上の脚本だと思う。
物語をおもしろくするために、びっくりするような展開を付け加えることはできるだろう。でも、シャマラン監督には「現実のヒーロー」を描くというとんでもない制約がある。
だから、物語は自由に動かすことはできない。自由に動かせば、これまで積み上げてきたリアリティが無に帰してしまう。そういう中で、この脚本を書き上げることは並大抵のことではない。物語は、ある意味、当然の帰結とも言える展開で幕を閉じる。
それなのに、1秒たりとも目が離せないのだから、すごすぎる。
演出面でもいろいろな工夫はあった。
個人的に気に入っているのは、惨殺シーンが引きのカットで撮られているところだ。
ビーストが暴れまわり、警察官を食い殺すシーンも、遠くの映像でしか映らない。映画の演出上、寄りのカメラで撮影して、臨場感を出すことは簡単にできる。ビーストが迫ってくる画面を見せれば、びっくりするし、簡単に怖がらせることができるだろう。
でも、現実に目の前で事件が起こった時、当事者以外の人間には、それがまるで「映画のワンシーンのように遠くの出来事」に映ることの方が「現実感」があるのだと思う。
何かの異変があった時、その場にいる当事者は、その全貌を目撃することは絶対にできない。切り取られた現実しか、私達は見ることができない。
その「映画みたいな映像」こそが「現実的」であり、そんな簡単に残虐なことが起こることこそが「恐怖」だと思うのだ。
ただし、ビーストが傷つくシーンは寄りのシーンで、鮮明な赤い血が映り込む。これは、ビーストの現実を映した映画なのだというメッセージなんだろう。
それから、いかにも壊れそうな「オオサカタワー」という名称。もう、すっかり騙された。絶対に壊れると思って疑わなかった。
そんなふざけた名前のタワーは壊れされるから、こんな名前なんだろうな、アメリカ人は日本のこと、それぐらいの知識しかないよね、なんてめちゃくちゃ舐めた見方をしていた。
それなのに、壊れない。マジか。壊れないのか!?
オオサカタワーをフェイクに使うというセンスがやばすぎた。
かくして、フィラデルフィアにオオサカタワーなる塔が爆誕してしまうという、アホみたいな話とヒーロー物語のギャップがいい。
そして、最終決戦の場が、オオサカタワーではなく病院の庭先だというのもとても良かった。ダンは小さな水たまりで溺れ死ぬ。なんて、映像的に矮小な終わり方だろうか。
でも、そこがシャマラン監督がこだわる「現実感」のような気がした。
映画はとても不思議なもので、大きな世界を描けば描くほど、世界は小さく感じられていく。
でも、小さな一コマを描くと、なぜか世界は大きな広がりを見せる。
世界とは、私たち人間が感知できるほど小さくはないのだろう。私はそう思っている。
カメラに収まるぐらいの世界には、世界のリアリティはない。
だから、病院の庭先の小さな水たまりで、無敵のヒーローが溺れ死ぬなんて世界、どんなに広いんだろうと実感せざるを得ない。
無限の広がりを感じさせる終わり方だったと思う。
悪の側が強くなければ、物語はどんどん矮小になっていく。だからヒーローモノでは、悪は強くなければならない。強さのインフレを起こさないための工夫が素晴らしいと思う。
映画としてのおもしろさを問われれば、見る人を選ぶ映画だと思うし、多くの人がおもしろがれる話ではないだろう。
けれど、こんな話を作ろうとしてくれる監督は、この世にそんなに多くない。
シャマラン監督が、この誇大妄想を映画にしてくれて、私は本当に嬉しくてたまらない。
人狼 JIN-ROH (アニメ映画)
Jin-Roh: The Wolf Brigade 人狼 (1998) HD trailer
今年からシネフィルWOWOWで毎月やっている「世界がふり向くアニメ術」というコーナーがある。
アニメ映画作品の放送と、それに関する解説を氷川竜介さんが行っていて、当時のスタッフさんへのインタビューなんかもある。
毎月楽しみにしていて、そんな裏話があったのかとか、そんな意味があったのか、なんて思いながら見ていた。
ひょっとすると本編よりも解説の方が好きかもしれないってぐらい気に入っているコーナー。
4月は、押井守原案・脚本、沖浦啓之監督の「人狼JIN-ROH」だった。
これまで、このコーナーで紹介されるアニメ映画は、すべて見たことがあるものだった。
攻殻機動隊やカリオストロの城、パプリカなんかを放送していた。
けれど、この人狼はまったく知らなかった。
2000年のアニメ映画で公安やテロリストが出てくる作品、ということだったので、私がスルーしたのも納得だった。
もともとSF関連への興味のなさに加え、政治色の強い作品や戦争作品は完全スルーを決め込んでいたので、脳みそが拒否していたんだと思う。
最終的には、2004年の「イノセンス」をきっかけに、押井守大好きになってしまうんだから、好みっていうのはよくわからない。
そういうわけで私の押井守歴はイノセンスからさかのぼっていくことになる。
「イノセンス」→「攻殻機動隊」→「攻殻機動隊のTVシリーズ」→「パトレイバー劇場版」といった具合。
ビューティフルドリーマーに至っては、つい先日、全部見ることができたぐらい、新参者だと思う。
監督の沖浦啓之や作画監督の西尾鉄也など、ああ!ぽいな!ぽいな!というメンツが並ぶ。
最後のセルアニメとも呼ばれている作品らしい。
舞台が敗戦後の日本。昭和30年~40年ぐらい?だと思う。
テロリストの女と、特殊部隊の男の、恋愛なのか、恋愛にもならない何かを描いている。
この作品では、赤ずきんの物語がメタファーになっていて、テロリストの赤と赤ずきん、人殺し(人間ではないもの)の象徴としての狼というふうになっている。
私の個人的な違和感なんだけれど、私はどうも狼=悪だとは思えない。
私にとって狼=神の方がイメージに近い。
以前、動物というモチーフと文化の関連が気になって、ちょこちょこ調べていたことがあるんだけれど、西洋では狼は怖いもの・悪いものの象徴だったらしい。ヨーロッパもそうだし、アメリカ大陸のコヨーテなんかもそうだ。
田畑を荒らし、家畜を食い殺す、集団で襲ってくる悪魔のような存在。それが西洋における狼像だ。
カラスなんかもそうだけど、西洋と東洋では役割や意味が違う。
日本では八咫烏は神様の使いだし、カラスや狼と悪としてしまう感性が、どうも西洋的だなあと思う。そこにまずひっかかってしまった。
ひっかかると、この制作者の意図はどっちにあるのかがわからなくなった。狼=悪としているのか、日本的な狼=神々しいというメタファーも含んでいるのか、どっちだったんだろうか。
赤ずきんをモチーフにしているなら、西洋的な狼=悪として描いているのかなと、一応判断した。
そうすると、なんだか昭和の日本を描いているのに、モチーフが西洋風で、地味な違和感を覚えてしまった。
その違和感そのものが、戦後の日本の混乱期(西洋化・近代化)の違和感と合致すると言われれば、そうかもしれない。
なんとも座りの悪い、はっきりしない感じ。でもその効果は、たぶん物語に良い影響を与えている気がした。
どの人物にも共感はあまりできないし、おもしろい話かと聞かれれば、陰鬱な話だと答える。
でも、興味深い話ではあるし、映像は見る価値がある素晴らしいものだった。ただ、二度目はないかなと思う。
ひとつ、とても良かった点は、女テロリスト雨宮圭を演じた武藤寿美さんの演技だ。
終盤、主人公の伏に向かって思いの丈を叫ぶシーンがある。
その時の彼女の言い分が、まあ身勝手なのだ。利己的で、自分のことしか考えていない甘えたことを叫ぶんだけれど、武藤寿美さんの声は本当に身勝手で未熟な少女の残酷な声に聞こえる。
その時まで気づかなかったけれど、はっと思い出したのは「イノセンス」のシーン。
私はこれとまったく同じことをイノセンスで思った。
イノセンスでも、利己的なことを叫ぶ少女の声を、武藤寿美さんは演じていたのだ。
映画はいろんな要素で成り立っていると思うし、それぞれのパーツが組み合わさって様々な効果を生んでいると思う。
でも、この武藤寿美さんの声を活かすためだけに、映画が作られたんじゃないかって錯覚するほど、耳に残って離れない印象的な声だった。
古典芸能への招待「野晒悟助」
3月末に録画していたけれど、ずっと見る時間が取れず、ようやく見ることができました。
土曜日の昼下がり、部屋を片付けたあとにごろごろしながら、三味線の音をバックに歌舞伎鑑賞できるなんて、幸せの極みです。
2018年6月の歌舞伎座で上演。
主演は尾上菊五郎。
初めて見る演目で、「野晒悟助」がまず読めない。
のざらしごすけって読むみたいですね。
野ざらしとは、主人公である悟助の職業が「葬儀屋」ということに由来してるそうです。
野ざらしになってるドクロから来てる言葉だそうです。
悟助は、一休宗純に育てられた人物で、暴れん坊だったため俗世に戻されたという設定。元坊主だったこともあり葬儀屋を営んでいる男伊達。
この物語、男伊達と呼ばれるキャラクター設定の人物が3人出てくるのですが、私はこの「男伊達」というものが、未だによくわからない。
弱きを助け強きを挫く、平たく言えば、かっこいい男ってことなんですが、現代にこの概念が当てはまるちょうどイイものがなく、頭では理解できていても、いまいちしっくり来ていない。
姿形が良いという意味ではなく(いや、もちろん姿形もいいのですが)、心意気がかっこいい腕っぷしの強い男、っていうのが一番近いのかなあ。
そもそも、私が「男伊達」という言葉に出会ったのは、中学生の頃。
劇団四季の「CATS」でグロールタイガーの曲にあった「悪事の限りをやり尽くした のさばりかえってる 男伊達」だった。
厳密に言えば、これって歌舞伎で言う「男伊達」と違うんじゃないかと思うんだけど、言葉の変遷はどうなっているんだろう。
「任侠」という言葉も、昔と今と、そしてちょっと前と、意味がけっこう違っているんだけど、男伊達もそれに似た違いを感じてしまう。
つまり、アウトローな人間の扱いが違うんだろうと思う。
社会や文化によって、何を悪とするかが違っているせいで、ぴったりと理解することが難しい。
少なくとも、歌舞伎における男伊達に、アウトロー(脱法性)という属性は付随していても、(人間性における)悪人という属性はついていない。
現代ではアウトロー=ほぼ悪人として描かれるので、そういう間違いがこちら側にあるんだろう。
まあ、そんな色男、男伊達が主人公の悟助さん。
舞台は大阪の住吉大社から始まる。
ここがまたおもしろいところで、大阪なのに上方言葉ではなく江戸の言葉が使われ上演されている。
私はこういう演出が好き。
無理やり別の地域の言葉をしゃべるより、自分たちの言葉を使うのはとってもいいと思う。リアリティなんぞ知らん知らん。
以前に見た「夏祭浪花鑑」も舞台は大阪だったけれど、上方言葉ではなかった。もちろん、関西出身の役者さんなら上方言葉でぜひとも演じてほしいけれど、そうじゃないなら無理することはない。
その方が双方にとって幸せな気がする。
そういえば「夏祭浪花鑑」も住吉大社から話が始まっていた。
私は大阪というかほとんど京都みたいな場所に住んでいるので、関西では絶大な支持を誇っている住吉大社に行ったことがない。
でも、大阪に住んでる友達は住吉大社のことを「住吉さん」とめちゃくちゃ親しみを込めて言っているから、本当に愛されてる神社なんだなあと思う。
歌舞伎の演目で、住吉大社を見るたびに、こんなに以前から愛されているランドマークだったんだなあとしみじみしてしまう。
自分が知っている場所、よく通る場所が舞台になっていると思うと、ちょっとしたタイムスリップ感が沸き起こってくる。その感覚がなんだか好きだ。
話が逸れてしまった。
住吉大社でならず者どもを成敗した悟助は、そこで出会った二人の娘に惚れられてしまう。
翌日、それぞれの娘が結婚して欲しいとやってくる。
でまあ、いろいろあって、悪いヤツをやっつけて終わるっていう、ストーリーはそんなに重要じゃないお話。
でも、このかる~い話がイイ。
なんといっても役者をかっこよく見せるためのお話だからだ。それに楽屋落ち(内輪ネタ)のようなシーンもはさまれる。
うん。おもしろい。
歌舞伎には心中モノや仇討ちモノなんかの深刻な話も多いんだけれど、私はこういう人情話だとか色恋の話が大好きだ。
もともと、時代劇や歴史小説が苦手で、何の興味もなかった。
結局そういう話は、すべて戦いの話だったからだ。
挟持とか誇りとか恩義とか、そういうものをかけた切った張ったの世界というのは、現代人の私にはあまりに遠い価値観すぎる。
そこがイイというのもわかるけれど、私はどこまでいっても人間そのものにしか興味が持てない。
せせこましい人間の感情にしか、興味がないんだと思う。
そういう意味で、昔の風俗を描いた話はとても参考になる。
今に通じるものもあれば、通じないものもある。
今も昔も恋心には違いはないんだと思うことも楽しいし、まったく違う価値観であっても、自分の価値観を洗い直すきっかけになっておもしろい。
かっこいい男に惚れる娘の気持ちも可愛いと思うし、また当時の人がこの舞台を見て、こんな男伊達になって娘二人に言い寄られたいなんて夢を見ていたのかと思うと、それはそれで興味深い。