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光 監督:河瀨直美


河瀬直美監督×永瀬正敏主演!映画『光』予告編

 

最近、邦画をチェックしていなかったなぁとしみじみ思いながら見ていた。

橋口亮輔監督や西川美和監督のような、純文学っぽい作風の邦画は、けっこう重いので、気力のある時にしか見ない。

20代の頃は、むしろそういう作風が好きで、「あ~ヒリヒリする~!」と思いながら見ていたのに、いったいどういうことなんだろう。歳を取るって、こんなことにも影響するのかと驚く。

最後に見たのは、濱口竜介監督の「寝ても覚めても」なので、かれこれ1年近く邦画は見ていなかったようだ。

 

そんなわけで、河瀨直美監督作品「光」。

河瀨直美監督の作品は、おそらく初めて。「萌の朱雀」は見たような気もするけどまったく覚えていない。

 

この「光」という作品は、映画の音声ガイドを作成する女性が主人公だ。目が見えない人に向けてのガイドを作っていくなかで、言葉を使って映像を伝えるという難しさや、感性の違い、言葉そのものへの言及などがあって、前半は見応えがあった。

冒頭、ヒロインが街行く人々に対して、心の中でガイドをつけていく。彼女が音声ガイドの練習をしているシーンだ。

次々に現れる人物の背格好や雰囲気、表情をせわしなく説明していく。そのシーンだけで、自分がいかに無自覚に映画を見ていたのかを自覚させられた。何の事前情報もなしに見たが、これほど引きのある冒頭も珍しい。俄然、興味がわいた。

 

目で見たものを見たままに感じることと、それを言語化することの間には、ずいぶんと隔たりがある。目で認識することや、そこから何かを感じることというのは、自分だけがわかっていればそれでいい。けれど、言語化は常に他者を想定したものだ。他者を想定するという作業には客観視が必要で、それはただ「感じている」だけではできない。

ヒロインの音声ガイド作成にも、その葛藤が現れている。ヒロインが一生懸命に作成した文章に対して、「主観が混じっている」「押し付けではないか」という注文がつくが、彼女はそれをうまく修正することができない。主観を消そうとすると、文章をまるごと削ることになってしまう。客観的であり、想像力をかきたてるような、まさにガイドのような文章がうまくつくれないでいる。

彼女がどのような文章を作り上げるのか、それがラストで明かされる。この大筋はとても良くて、そこだけで十分見応えがあった。

 

ただ、後半の恋愛物語の部分は、あまり共感できず、唐突に恋愛が始まる感じがしておもしろくなかった。時間を半分にして、音声ガイドの話だけで十分だったように思う。それはあまりに野暮な注文だろうか。

 

映像は、極端に寄りのシーンが多く、圧迫感があった。ほとんど引きの画がなく、擬似的に視覚障害を体感させる映像になっていて、アイデアがすごい。

映像の枠の外が見たい、全体像が見たいと、何度も何度も思わされた。でも見ることができない。このもどかしさ、もっといえば苦しさのようなものが、視覚が失われている感覚に近い。画面に映像を映しながらも、視覚の不自由さを見せるなんて、とんでもない発想だ。

 

私自身も、およそ3年ほど、視覚が不自由だった時期がある。半年ごとに片目の手術を行い、両方があまり見えない状態だった時期を、ほんの数ヶ月だが経験している。あの時のもどかしさや、不安感が蘇ってきて、映像を見ているだけで息苦しくなってしまった。

永瀬正敏演じるカメラマンが、徐々に視覚を失っていく時の視野の映像は、とてもリアルで、私もあんな風に視覚が極端に狭まったりしていた。そんな個人的事情もあって、身につまされる内容だった。

 

そういえば、「京都人の密かな愉しみ」などを撮影している源孝志監督も、去年「わたしだけのアイリス」という小説で、色彩が失われていくカメラマンを描いていた。

 

映画監督にとって、カメラは体の一部、目と同じようなものだからこそ、こういうモチーフが描きやすいのかと、勝手に推測している。