X-MEN:ダークフェニックス
映画『X-MEN: ダーク・フェニックス』本予告【最大の脅威】編
仕事帰り、初日のレイトショーで見てきた「X-MEN:ダークフェニックス」。
本国のアメリカでは先々週に公開されて、オープニングの観客動員数がかなり少なく、収益は見込めないだろうというニュースが流れていた。日本でも、試写会のレビューがあまり盛り上がっておらず、これは危ないかもなあ…と不安な気持ちを抱えながらの鑑賞。
結果的には…うん…そうか…という感じだった。
私はX-MENが好きだったのか、ブライアン・シンガー監督が好きだったのか、よくわからなくなった。それは本来、分割されるべきものではないのかもしれない。
というわけで、X-MENの映画全体を語りつつ、今回のダークフェニックスについて書いていきたい。
まず、私がX-MENの何に一番惹かれていたか、という点。
アメコミ映画は、大きくわけでMARVEL原作とDCコミック原作がある。そのどちらも、映像化がさかんで、現在の映画業界ではアメコミは一大産業になっている。
MARVELは「アイアンマン」や「キャプテン・アメリカ」などが活躍する「アベンジャーズ」を制作している。アクションが派手で、勧善懲悪的な世界観があり、とにかくヒーローが活躍するタイプの映画だ。興行収入がすこぶる良く、現在の映画界でトップに君臨する作品群だ。
一方、DCコミックは「バットマン」や「スーパーマン」が活躍する「DCユニバース」。クリストファー・ノーラン監督に代表されるような、ダークでクライム・サスペンス色が濃い映画が多い。善悪が渾然一体となっていて、哲学的なテーマが見え隠れする。しかし、興行収入はイマイチで、バットマン以外はコケまくっている。
本当に大きなざっくりとした流れで言うと、MARVELはエンタメ系映画で、DCコミックはノワール系映画だと私は思っている。
X-MENシリーズは、MARVELに属していながら、DCコミック映画的な世界観を持つシリーズで、特異な位置にある映画だ。それはこのシリーズが、映画界でMARVEL帝国を築く前に制作された映画だったからだろう。
2000年に制作されたX-MENは、アメコミ映画が今ほど「当たる」と思われていなかった時代の映画だ。監督はブライアン・シンガー。「ユージュアル・サスペクツ」の監督で、未だにオチでびっくりする映画と言えば、この作品の名前があがるほど人気のある映画だ。
系譜で言えば、ブライアン・シンガーは明らかにDCコミック系の監督に近い。フィルムノワールを撮るのがうまいタイプの監督だと私は思っている。一緒くたにするのはどうかと思うが、クリストファー・ノーランやデヴィット・フィンチャーのような監督と属性は近い。
彼らのようなクライム・サスペンスやフィルムノワールを得意とする監督の特徴は、人間の脳領域の話を映画に混ぜ込んでくることだ。
今見ている現実は本物か、また本物の定義は何か。
自分は何者か、自分という人間は存在するのか。存在とは何か。
一貫して、哲学的で本質的なことを問いかけ続けるという軸がある。
90年代後半から2000年代にかけて、彼らが作り出す映画が大流行した。本来ならば、低予算で小難しい話になるはずのテーマを、エンターテイメントと融合させたのが、アメコミ映画のいち側面だと私は解釈していた。
X-MENは、そういうエンタメ系と哲学系の間の存在だった。ノーラン監督やシャマラン監督ほど難しすぎない、エンタメ系でもあるというバランス感覚が好きだった。
シャマラン監督の作品は、ストーリーの本筋に哲学的要素が食い込んでくるが、X-MENはストーリーには食い込まない。ただ、キャラクターの内面には、そういう匂いがついている。このバランスがいい。
深掘りしようと思えば掘れるキャラクター設定でありながら、それをスルーしても作品自体は楽しめるエンタメ性がある。観客に様々な楽しみ方を提供してくれる作品だ。
今回のダークフェニックスは、これまでのシリーズを担当してきたブライアン・シンガーの手を離れ、サイモン・キンバーグが監督をした。それが、どれほどの影響があったのかは、観客の私にはまったくわからない。製作や脚本、演出や監督、誰の意図がどこまでどのように反映されているかはわからないため、サイモン・キンバーグ監督のせいだと言ってしまうのは違うのかもしれない。
ただ、ブライアン・シンガーではなくなった結果、X-MENのキャラクターの中に存在していた一貫性が消えてしまっていた。
チャールズは、これまでの彼とは思えない言動で人を傷つけ、最終的にはあっさりと改心する。改心することが悪いのではなく、あれだけ信念があり、エリックと対立していたチャールズが、そんな適当な理屈で考えを変えることがおかしい。善でも悪でもかまわないが、確固たる信念がないというチャールズはありえない。
ダークフェニックスが始まって1時間ほどは、これは新しいパラレルワールドで、チャールズが闇落ちする話なのか!?と期待したほどに、別人になっていた。
闇落ちなら闇落ちで、それを描ききればおもしろくなっていただろう。正義感に満ち溢れたプロフェッサーXの暴走を、逆にマグニートーが説得するという展開だったら、たまらない。
人の心が読めるプロフェッサーXが、人の心がわかりすぎるゆえの慢心から、人の心に真摯に向き合わないという欠点を持っていたとしたら。そう考えただけでもゾクゾクする。そういう展開にだって十分もっていけたはずだ。
ジーンの幸せを勝手に決めつけ、記憶を封じる。それにジーンが怒るという展開も、チャールズの闇落ちというラインで話が進めば納得できる。しかし、チャールズはただただバカな選択をしたというだけの適当な行動原理が見え隠れしていた。ご都合主義と言われても仕方がない。しかも、作中ではジーンの記憶を封じたとはっきり言っているわけではなく、過去に「何か」を封じたというような、非常に曖昧な説明で終わっている。
それが記憶なのか、ジーンの別人格なのか、それすらはっきり説明しない。そこが曖昧だと、ラストでジーンを説得する言葉が生きてこない。ジーンが何に怒っていたのかも、いまいち共感できない。それはチャールズが「何をしたか」をはっきり具体的に説明しないせいだ。
ラストに、チャールズがジーンを愛していたがゆえに嘘をついた、と納得するジーンだったけれど、その理屈で納得するなら、序盤にキレすぎだろうと思ってしまう。
エリックに至っては、ジーンを殺すぞ!から一転、守るぞ!に変わるのが早すぎる。「気が変わった」ってセリフがあったけれど、あれはあまり笑えない。本当に気まぐれに見えたからだ。レイブンを殺されて怒ってたんじゃないの???あれは何だったの???という気持ちになった。
物語の展開の犠牲になるキャラクターがいるのは仕方がない。すべてのキャラクターの一貫性を保つことは難しい。けれど、それは、主役やメインのキャラクターの一貫性を確保するための犠牲であって、すべてのキャラクターの一貫性が崩壊していてはいけないと思う。
これまでのシリーズでも、エリックは毎回、敵役を担っているために行動原理の一貫性が保たれていなかった。けれど、それはチャールズの引き立て役という側面があるからだった。良いことではないけれど、物語の制約上、仕方がないと思える範疇だった。
今回のダークフェニックスは、チャールズはもちろん、ジーンさえも一貫性がない崩壊した思考回路になってしまい、誰も得をしていない。
ブライアン・シンガーなら…と、どうしても考えてしまう。彼なら、もっとキャラクターを生かしてくれたんじゃないだろうか。けれど、セクハラ問題で訴訟を抱えているという残念なニュースも入ってきているため、もう彼が作る映画は見られないかもしれない。作品と製作者は別だという意見もよくわかるが、やはり事件が事件だけに(未成年へのセクハラは罪が深すぎる)簡単に復帰するのも間違っていると思う。もちろん、彼がそういう事件を起こしていないなら話は別だけれど。
あまりにモヤモヤしてしまい、どういう話なら納得できるだろうかと考えてしまった。
まず、チャールズの嘘について。
ジーンの父親が死んでいると嘘をついていたけれど、どうせなら、父親がジーンを何度も殺そうとして、それを阻止するために嘘をついた、ぐらいの重さが欲しい。
チャールズが隠したかった記憶は、「父親に何度も殺されかけた娘」という記憶だった、ぐらいの方がチャールズらしいと思う。
次に、上記をふまえて、ジーンの怒りの理由。
チャールズの愛は理解したうえで、それでも父親と話し合い、理解する時間を奪わないで欲しかった、と怒る。父親も生きておらず、再会が間に合わない方が良かったと思う。再会できたはずだったのに…というところでジーンの怒り爆発。
宇宙人の話は、あんまり大きくなくてよかったはず。出てこなくても話は成立する。
だって、これはジーンの心の問題という話だから。
細かいことを言い出すときりがないけど、ナイトクローラーが祈りの言葉を口にするシーンがないのもどうかと思った。
怒ってもいいし、牙を剥いてもいいんだけれど、怒った瞬間こそ祈りを唱えて神に許しを請うて欲しい。彼はそういうキャラクターだろう!
ここまで書いておいて、アレなんだけど、それでもキャラクターを無視して、映画として見た場合には60点ぐらいはある映画だと思う。
VFXが美しいし、とりあえず飽きずに見られるストーリーにはなっている。
ちなみに、ファースト・ジェネレーション、フューチャー&パストは名作なのでおすすめしておきます。
マイビューティフルガーデン(イギリス映画)
「図説 英国の住宅」という本を読んでいたら、冒頭にこの映画が紹介されていた。
2016年のイギリス映画「マイビューティフルガーデン」。
病的なほど几帳面な主人公・ベラは、元捨て子で修道院育ちの変人。植物の無秩序さが怖すぎて、一人で暮らす家の庭の手入れがまったくできないでいた。
隣に住む偏屈な老人・アルフィーは横暴な男だけれど、庭だけはとても美しい。植物を愛するアルフィーは、ベラの無秩序な庭に対して苛立っていた。
そこへアパートの管理人がやってきて、ベラの庭を見て呆れ果てる。1ヶ月以内に庭を元に戻さないと退去させると言われたベラは、なんとか庭の手入れをしようと、アルフィーの助言を受けながら、無秩序な植物と格闘することになる。
こんな展開の話だ。
少女漫画の王道、ハートフルな映画だった。
展開には、だいぶご都合主義かなと思うところもあったし、ラスト間際の詰め込みすぎは残念だったけれど、おおむねおもしろい映画だった。
もう少し本格的なガーデニングの話がある方が、個人的にはいいなと思った。恋愛模様がメインの話だったので、少女漫画好きにはおすすめの映画。
特に、ベラと恋に落ちるビリーが作っているロボットが、とても可愛い。ベラがビリーのロボットを見て、物語を紡ぎ出すシーンがあるんだけれど、その作り込みもけっこうクオリティが高くてびっくりした。ガーデニング描写より、そっちの方に力が入っていたように思うので、ガーデニング目当てで見ると肩透かしをくらう。
でも、ガーデニング入門として、気分を盛り上げるためならいいのかなという感じだった。
1ヶ月で庭を復元、という課題設定がちょっと無理があるのが残念。期限を半年に引き伸ばして、ガーデニングメインの映画にしたら、マニア受けした気がする。それぐらい、役者さんやモチーフはよかった。
そういえば2年ほど前、NHKのBSでやたらとイングリッシュガーデンやガーデニング関連の特集番組の再放送があって、かなり見ていたんだけれど、もしかしたらこの映画の公開と関係があったのかも、と今さらながら思い至った。
英国人の庭への熱狂っぷりも、なかなかすごい。切り花を飾るぐらいしかしない私からすると、そんな面倒な庭付きの物件、さっさと引っ越せばいいのでは……なんて無粋なことを考えてしまう。
でも、そこは「英国の住宅」冒頭でしっかりと解説されいた。
英国における庭の重要性と英国人の庭(もしくは家)に対する考え方は日本とはずいぶん異なっている。日本人も、そうとうな草花好き・庭好きだと思うけれど、また違った庭への熱狂が感じられた。
英国人は、家と土地を切り離して考えておらず、家は土地から生えているものだと表現するらしい。安易に家を取り壊すことはせず、少しずつ修繕しながらより良い家を作っていくのが英国流。
住人が良い家を作り上げ、さらに次の住人へと引き継ぎ、家の価値を高めていこうと考えるのだそう。湿気が多く、あまり長期間の使用に耐えられない木造日本家屋とは、考え方が違う。
私は、日本の刹那的とも言える建築も大好きだ。
たとえば、伊勢神宮の式年遷宮では、20年ごとに社殿をそっくりそのまま作り変える。社殿の新築化が行われるのだ。おそらく多くの外国人は、作り変えた社殿は、はたして本物の社殿と言えるのか、という疑問を抱くだろう。
私はこれを知った時、当たり前のように「神様も新築の方が気持ちいいだろう」と思った。依代という考え方が、自分の中にもしっかりあるんだなと感じた瞬間だった。
また、京都の上津屋橋(通称:流れ橋)を知った時も衝撃的だった。川が氾濫して、何度も橋が流されてしまう場所だったため、増水すると橋板が外れて浮かび上がるという設計になっている。
どうせ流れるんだから、流れる前提で橋にしよう、というとんでもないアイデア。こういう考え方は、できそうでできない。
自然現象を、コントロールするのか、それともそこに身を任せるのか、そういう考え方の違いが端的に現れている。どちらが良いという話ではなく、風土が文化に影響を与えるという点がとてもおもしろい。
英国では、すべての土地は英国王室のものであると考えるらしい。そこから貴族が”借りて”、さらに庶民が貴族から”借りる”ということなんだとか。
土地の権利はフリーホールド(永久所有権)とリースホールド(借地権)に分かれる。リースでも90年~999年なんていう幅があるようで、日本の借地とイメージが違う。売り出す時は、土地と家とリースホールド、すべてまとめて売りに出される。リースホールドがこれほど長い期間であるのは、それだけ建物も長く使えるということなんだろう。
また、街並みにも一定の基準があり、道路に面して玄関が作られる。日本のように日当たりによって玄関や庭の位置を変えるわけではないのだという。
それによって、景観に統一感が出て、庭と庭が横につながり、小さな森を形成していく。そこに野生動物が住みやすい環境ができあがるという効果があるそうだ。
こういう前提を知って映画を見ると、なるほど、隣人の偏屈老人が、ベラの荒れた庭に文句を言う気持ちもわからなくはない。庭は個人の楽しみである以上に、地域社会への貢献でもあるのだ。
「地域社会への貢献」。
都会に住み慣れた現代人には、聞くだけでも苦しい気持ちになる言葉だ。こんなことを言われたら、引っ越しするしかない、きっと数年前の私なら間違いなくそう言っていた。
でも、近頃思うのは、「せねばならぬことがある」という状況は、人を幸せにもするということだ。
地域の行事には一切参加せず、冠婚葬祭もろくにせずに生きてきた合理主義の権化みたいな家庭に育った私は、こういう面倒事が、ひどく羨ましい瞬間がある。
私は確かに自由だ。隣に住む人の名前すら知らない。それでも生きていける。それは悪いことじゃない。けれど、そういう私の生活の優先順位の一番上には、たいてい「仕事」が大きくのさばっている。
これは怖いことだ。
だんじりがあるから仕事を休みにする岸和田の友人を見て、私は心から羨ましいと思う。仕事よりも優先させることがある、それが当たり前な世界はきっと豊かな世界だ。
自分の庭を懸命に手入れすれば、それが誰かの役に立つかもしれないというのは、不自由にも見えるけれど、素敵な世界でもある。
これがファンタジー的であったとしても、そういう世界を目指すというのも悪くないな~なんて思う映画だった。
江戸の骨は語る 著者:篠田謙一
岩波書店のTwitterをフォローしていたら、とても印象的な表紙が目に飛び込んできた。
「江戸の骨は語るー甦った宣教師シドッチのDNA」というタイトルの本だった。
くすんだクラフト紙のような色紙に、クロッキー風の人物画。そこに透けるような白い骨が描かれていて、とても素敵な表紙だった。イラストは、 菊谷詩子さんというサイエンス系のイラストを多く手がける画家のものだと後からわかった。
昔、ルイーズ・ゴードンの「人体解剖と描写法」というクロッキー用の画集を見た時、人物の顔から骨が透けて見える表現に、とても心惹かれたことを思い出した。久々に読み返したくなり、濃いオレンジ色の表紙だったと思いながら、本棚を探してみた。けれど、しばらく見つからず、捨てたはずもないのに…と思っていたら、本棚の真ん中にちょこんと鎮座していた。背表紙は白に見えるほど薄くなった朱色になっていて、自分の思い出の中の鮮やかなオレンジとはまったく違っていた。
この本を買ったのは、それほど昔のことじゃないのにと思っていたけれど、軽く十数年は経っていた。こういう経年劣化を目の当たりにした時、人は時の流れを実感するのかもしれない。
そして、この「江戸の骨は語る」も、そんな時の流れについての本だ。
2014年7月、東京都文京区にある切支丹屋敷跡から、3体の人骨が発見された。その1体が、新井白石がかつて尋問した宣教師シドッチの骨ではないかという疑問が浮かび上がった。
著者である篠田謙一氏の元に、その骨の人物を特定する依頼がやってくるところから本書は始まる。
篠田謙一氏は国立科学博物館の副館長であり、人類研究部長である。平たく言えば研究者なのだけれど、彼の書く文章がとにかくおもしろい。
骨の鑑定に関する、細かい研究の進め方やDNA解析の方法を記した本なのだが、私は、この本をちょっとした探偵小説のように読みすすめた。
古人骨がどこからやってきて、どのような行政区分によって仕切られているのか、また研究費用はどこから出ているのか。そんな細かいディテールが描かれているのが興味深い。
建築物を立てる際、その土地の下に遺跡が発見されると、工事がストップしてしまうという話を聞いたことがある人も多いだろう。
奈良や京都ではとにかく遺跡が多く出てくるので、見つけた発見者は「見なかったこと」にして遺跡を埋めてしまう、なんていう笑い話もあるぐらいだ。
しかし、その発掘費用が施工主負担だと知る人は多くない。私もまったく知らなかった。工事がストップするだけかと思っていたら、その費用まで加算されるとなると、遺跡を埋没させたくなる気持ちもわからなくもない。
博物館に持ち込まれる古人骨の多くは、そういう遺跡由来のものが多いのだそう。だから、東京オリンピックや都市開発などの大型公共事業が盛んになると、遺跡が発掘される確率があがり、仕事が忙しくなるのだという。
世間の景気に左右されるというのは、言われてみれば至極当然なことだけれど、考古学者と日本の景気を結びつけて考えたことがなかったので、なるほど、と妙に納得してしまった。
また、考古学者やDNA解析者の間(いわゆる業界内)で使われている言葉の説明も面白い。
骨を専門に扱う人々を「骨屋」と呼び、化石を見つけるのが得意な人を「骨運がある」と表現する。いかにも通っぽい、その呼び名に、なんとなくフィクションのようなおもしろさを感じる。連続ドラマなどで、考古学者兼探偵役のキャラクターが言ってそうな感じとでも言うんだろうか。
また、DNA解析を行う際、目的のDNA以外の別人(または別の生物)のDNAが混じりこむことを「コンタミネーション」と言うそうだ。
略して「コンタミ」。
しかし、コンタミと外国人が言うのを聞いたことがないので、おそらく和製英語だろうと著者は書いていた。
細かいDNA解析の説明の最初に、コンタミという和製英語について、さらっと書くサービス精神が、なんだか軽妙でおもしろい。
また、研究費用についてもさらりと教えてくれている。
コンタミを防ぐための、DNAフリーの(不純物が一切入っていない)水は18mlで3万円もするそうだ。
ただの水に3万円!?(いや、DNAフリーだけど!)
ワインボトル1本分の量に換算すると約240万円。
けれど、本を読みすすめていくと、3万円の水の価値がよくわかってくる。DNAを採取する苦労を考えれば、水3万円は絶対に必要経費だ。しかも18mlあれば1年分の研究に使えるそうだ。1年持つなら安いもんだ!…そう思えるほど、DNAの採取や解析は大変で緻密な作業だ。
でも、この本を読まなければ、(水に3万円って…もうちょっとどうにかなるんちゃうん??)と思っていただろう。
無知って怖い。
DNA解析を行うマシーンも次々と新しいものが開発されていて、数年前とは比べ物にならないほど進歩しているらしい。けれど、最新型はもちろん費用もかさむので、少し前の型落ち機材で対応しているという話も、自分が家電を買う時に悩む気持ちとそっくりだ。
考古学者の気持ちとリンクしてしまうのが、なんだかおかしい。
また、研究における守秘義務についても、筆者のボヤキがところどころ顔を出して、たまらない。
今回のシドッチの遺骨鑑定は、トップレベルの非公開設定になっていたようで、文京区が発表する報告書よりも先に、学会発表などは一切行えないという決まりがあったそうだ。通常は、出版は無理でも学会発表ぐらいは許されるらしい。
また、その報告書から二年以上経過しないと、本の出版もできないという徹底っぷり。だから、この本は2018年4月に発行されたが、研究自体は2015年7月に終了していたそうだ。
外に出せない研究は、外から見ればやっていないのと同じ。というわけで、著者の研究へのモチベーションがだだ下がるという一場面に思わず笑ってしまう。
また、記者発表の席でイタリア大使やキリスト教関係者の話が長すぎて、肝心の研究発表の説明が10分足らずしかなかったことを、ぼやいていたのも、あけすけな感じで良かった。
本の内容のほとんどは、人骨についてや、DNA解析についての細かい説明なのだけれど、ところどころ見える著者の人間性にひっぱられて、かなり難しい説明も読みたいと思わせられた。
著者と一緒に、シドッチの骨の解析を行う日常に引っ張り込まれたような錯覚が起こる、とてもおもしろい本だった。
ミュージカルはなぜ歌い踊るのか <シー・ラブズ・ミー 松竹ブロードウェイシネマ>
松竹ブロードウェイシネマという企画で、「シー・ラブズ・ミー(She Loves Me)」という舞台映像を見てきた。
映画『松竹ブロードウェイシネマ 「シー・ラヴズ・ミー」』予告
ブロードウェイで上演された舞台を映画館で見られるという企画だ。料金は3000円で、公開期間は1週間。しかも昼1回しか上映しないうえに、東京・大阪・名古屋でのみ公開。公式サイトはフェイスブックのページのみという、なかなか縛りの多い興行だった。
それでも、ミュージカル映画に目がない私は、ずいぶん前から絶対に行こうと思っていた。かつて、ムーラン・ルージュを映画館で見ずにDVDで見てしまい、大変後悔したことがあったからだ。
結論から言うと、シー・ラブズ・ミーには満足できなかった。その理由が何なのか、帰り道でずっと考えていた。色々と要因はあるんだろうけど、その理由を言語化することで、自分がミュージカル映画の何を好きなのか、明らかにしていきたい。
まず、私が好きなミュージカル・およびミュージカル映画を箇条書きにしておく。
日本で公演されたものは、舞台もほぼ見ているが、基本的には"ミュージカル映画”が好きな映画オタクである。
▼舞台
・クレイジー・フォー・ユー(作曲:ジョージ・ガーシュウィン)
▼映画
・ウエストサイドストーリー(作曲:レナード・バーンスタイン)
・ジーザス・クライスト・スーパースター(作曲:アンドリュー・ロイド・ウェバー)
・コーラスライン(作曲:マーヴィン・ハムリッシュ)
・シカゴ(作曲:ボブ・フォッシー)
まず、一番目の問題点は、ミュージカルそのものの話ではない。
音響設計の話だ。
舞台ミュージカルでは、いつの頃からかピンマイクを使うことが一般的になった。マイクを通した声が嫌になり、舞台に熱心に通わなくなったことを覚えている。それなら家でCDを聞くのと変わらないじゃないか、と当時思っていた。
けれど、私はマイクを通した声そのものが嫌いなわけではなかった。例えば、クラブ音楽で多様される加工された声や、いわゆるオートチューンのかかった音声は大好きだ。蓄音機から漏れ出たような歪んだ声も好きだし、拡声器を使って歌われる歌声も好きだ。どちらかと言えば、機械的な音や加工された声は好きな方なのだ。
ただ、それを舞台空間で聞くことがどうしても耐えられなかった。なぜなら、舞台演劇でピンマイクを使うことは、音声を均一化してしまうことになるからだ。
人は音から方向を予測する。本来、自分の正面の舞台から声がするはずなのに、スピーカーから声がすると、役者の立ち位置とのズレが出てしまう。それが違和感になる。
役者が、舞台中央にいる時と、舞台端にいる時では、声は違って聞こえる。もっと言えば、役者が前を向いているか、横を向いているかでさえ声の響き方は変わる。
しかし、ピンマイクを使用すると、それらすべてが均一化されてしまい、方向性が失われてしまう。声を発しているはずの役者の声が、その人物の声に聞こえなくなり、まるで別人の吹き替えを聞かされているような錯覚が起こる。
さらに、音量の均一化も起こる。ミュージカルに限らず、オペラやオーケストラなどの舞台表現にはつきものだと思うが、小さな音と大きな音の差が激しく、広範囲に渡っているため、マイク調整(スピーカー調整)がとても難しい。そのため、ささやくような声と大声で歌い上げるシーンとのバランスをとるため、音量の調節がされてしまう。
小さい声は、はっきりと聞こえるほどクリアで大きくなる。しかし、その結果、大きな音が大きすぎたり、ささやきには聞こえない大きな声でしゃべっている変な人物になってしまう。
全体的に「大きくてクリアで平坦な音」が出来上がってくる。
歌手のコンサートなら、まだいい。
一人の歌手が歌う公演ならば、それほど距離感の把握は必要ではないだろう。でも、舞台演劇の場合は、各人の位置は重要である。生音・生演奏の信者ではない私が、舞台演劇においてだけは、どうしてもマイク音声を受け付けないのはこの点にある。
舞台ミュージカルでこの現象が起こるようになってから、ミュージカル映画にも逆輸入的に音響問題が発生してくる。
吹き替えによる音声加工の問題だ。
もちろん、吹き替えは昔からある手法で、ウエストサイドストーリーなどは主演の二人の歌声は別人による歌唱だ。
それでも、私はあの映画を愛しているし、吹き替えも素晴らしかったと思っている。だから吹き替えが悪いのではない。その設計に問題があると思っている。
2017年版「美女と野獣」の実写映画を見た時、エマ・ワトソンの歌声の違和感がぬぐえず、全編見ることができなかった。
映画なので、音声は後から重ねているのは明白だ。本人による吹き替え歌唱なのだが、音声加工の違和感がすごかった。
人間の歌い方ではありえない声の伸び方をするのだ。そのうえ、息つぎの音はなく、一切の雑音がない。音量も均一で、ハイトーンボイスで確実に音を突いていく。そんなことはありえない。超人的すぎる。
私は音声加工ソフトについては素人なので、何を使ってどうなったかはわからないが、おそらくオートチューン的な、音程をあわせるソフトも使っているんだろう。そのせいで、響きが機械的にぴったり重なっているのも気持ち悪かった。
音程は正しい。けれど、音量が正しくない。予備運動なしでいきなりトップスピードに達するような、妙な具合になっていた。
美女と野獣だけではない。最近のミュージカル映画の多くは、歌パートの音量が大きすぎで、そこだけ浮いてしまっている気がしてならない。
その始まりは、私が大好きな「ムーラン・ルージュ(2001年公開)」にあるとも言えるので苦しい問題だが、あの頃はまだ音声加工技術も進化していなかったので、ベストテイクを録る、つなぎ合わせるというぐらいに落ち着いていたのだろう。楽曲もロックやポップスなど、広く一般に親しまれている音楽を使っていた点も、違和感を少なくさせていた。
そんな状況下の中で、私がミュージカル映画ではなく、舞台ミュージカルの映像化に何を期待していたか、ということだ。
シー・ラブズ・ミーは、舞台ミュージカルだ。舞台を撮影し、それを映画館で流すという試みで、私はとても期待していた。映画ではなく舞台である意味は、やはり音響設定にあると思っていたからだ。
けれど、この公演の音声は、非常に大きくてクリアで平坦な音にされていた。
冒頭から音声が大きい。その大きさは、叫び声をあげているかのようだった。映画館そのものの音響もあるだろう。だから舞台か上映映画館、どちらの問題かはわからないが、観客の笑い声などが妙に鮮明に入り込んでいたので、もともとの映像作品となった時点で、かなり音声に手が加えられていたのではないかと予想している。
観客の声がそこまで拾えるなら、舞台での役者の靴音や衣擦れの音が入らなければおかしいと思うのだ。そして、そういうものが入り込むことが生っぽさじゃないのかと思う。
せっかくの舞台公演の上映なら、そういう方向性で音声を加工しなくてもよかったのにと思ってしまう。聞き取りにくい箇所があったとしても、全体の位置関係がわかるような集音の仕方が合うんじゃないかと思う。
舞台公演は、座席数の関係で儲からないという問題があるんだけれど、こういう劇場上映やライブビューイングは、小さな(音響的に最適な)劇場で公演し、しっかりと売上げを回収できるビジネスモデルなので、とても期待している。だからこそ、舞台の音響を全体的な集音にして欲しいと思ってしまう。
もともと、アメリカのブロードウェイチャンネルでの配信が目的の映像作品だそうなので、そちらの方針がこういったクリアで大きな音を流していくということなんだろう。重ね重ね残念でならない。
次に、シー・ラブズ・ミー本編について。
ここから、ようやく本題の<ミュージカルはなぜ歌い踊るのか>という話をしたい。
シー・ラブズ・ミーの世界観はとても可愛い。
いわゆるロマンティックコメディに分類される、男女のすれ違いを描いた恋愛喜劇だ。
衣装も舞台装置もとにかく可愛くて、最高だったと思う。特に、舞台装置の工夫が素晴らしく、メイン舞台となる香水店の中と外を表現するために、書き割りがくるくると回転する。書き割りの回転というアイデア自体はそれほど珍しくないが、3つの書き割りの回転、舞台を分割してしまうという大胆さ、そして大胆さを覆い隠すようなドールハウス的可愛さによって、不思議な空間が出来上がっていた。この舞台装置の愛らしさが、物語の愛らしさとリンクしていて、考え抜かれた素敵な仕掛けだった。
物語は単純な話だ。けれど、その単純さが可愛さでもあり、ハッピーエンドを予感させるものでもある。
問題はここからで、この物語、果たしてミュージカルである意味があったのだろうか?という点だ。
トム・ハンクス、メグ・ライアン共演の映画「ユー・ガット・メール」の原作という点で考えても、歌や踊りがなくても成立するのは明らかだ。そもそも、本作では踊りのシーンはほぼない。歌うシーンはあるけれど、踊りらしい踊りはない。
ロマンティックコメディが大好き。
ミュージカルも大好き。
そんな自分が、なぜこの舞台にときめかないのか。
そこまで考えて、ミュージカルにおける歌や踊りのシーンとは何なのか、私は初めて真剣に考えてみようと思った。
少し話は逸れるが、私はデフォルメされた絵がとても好きだ。
漫画文化に慣れ親しんできた影響も多いにあるだろうが、中でもデフォルメ絵に目がない。企業のロゴマーク的なものも好きだし、線数が少ない絵がとても好きだ。
たとえば、藤子不二雄の絵だったり、長谷川町子の絵が好きだ。現代漫画家でも好きな人は多いが、大ゴマ化や写実的な絵にはあまり魅力を感じていない。
たった一本の直線や曲線が、何かを意味している、という状態が好きなんだろう。パターンや家紋、文様、漢字やフォントにいたるまで、とにかくデフォルメされた記号的な何かがとても好きだ。
なぜこんなにデフォルメに「萌える」のか。
それは、デフォルメが「意味」の「濃縮」だからだ。
一本の線は、本来一本の線でしかない。
円もただの円で、そこに意味はないはずだ。
けれど、描き手はそこに意味を込めるし、読み手はそこから意味を感じ取る。普段、何気なく行っている行為だけれど、これは文化的な何かを共有していないと成り立たない行為だ。
たとえば卍マークは、どこで目にするかによって意味が変わる。
地図上で見ればお寺のマークだし、ネット上で見れば若い人の文章なのだろうと推測される。そして、ドイツでは禁止されているマークとなる。
同じ記号であるはずなのに、すべて意味が異なっている。
文字なども当然そうだ。
複数の直線と曲線の組み合わせで、我々は相手の話や思考を知ることができる。それがどれほどの精度かはさておき、コミュニケーションの手段として有効に使われている。
そこには、意味(や現象)の濃縮がある。太陽という文字を見て、私達は空に浮かぶ太陽や、誰かが描いた赤い太陽や、太陽に照らされた草花の輝きを頭に思い浮かべる。
たった2文字、「太陽」という文字からそれだけたくさんの映像や心象風景を思い浮かべる。人によっては、匂いや音、感覚を鮮明に呼び起こす人もいるかもしれない。
これが、デフォルメの濃縮効果だ。
ミュージカルにおける「音楽」とは、このデフォルメ効果があるのじゃないかという仮説を思いついた。
たとえば、ウエストサイドストーリーでは、2つの敵対するグループの抗争から物語はスタートする。
それぞれのグループ、ポーランド系アメリカ人と、プエルトリコ系移民の若者たちの抗争なのだが、彼らがどんな歌を歌うのか、どんな曲で踊るのかで、彼らのバックボーンまで語っていく。
たくさんのセリフを要さなくても、彼らが何に不満を感じ、どういう状況に置かれているのかを、音楽を通してダイレクトに(感覚的に)伝えていく。
これは物語の「濃縮」ではないだろうか。
一見すると、短い時間、少ないセリフなのだが、情報量自体はとても多い。しかし、音楽にするこによって多いと感じさせない。言語を司る部位以外をフル活用させて大量の情報を伝えていく。
音楽と踊りが、それを可能にさせている。
ジーザス・クライスト・スーパースターもそうだ。イエス・キリストの生涯を描いた作品で、これを文字で読むのは大変なのだが、映像と音楽で語られると、かなりクリアに脳に入り込んでくる。
もし、ジーザス・クライスト・スーパースターがセリフ劇だったとしたら、私の興味は2時間保たない。
音楽には、情報量を詰め込むだけでなく、場面転換が劇的に行えるという利点もある。
しかも1曲ごとではない。やり方さえ合えば、1小節ごとに別人物の心情を切り替えていくことができる。さながら、漫画のコマ割りのように、複数の心情を受け手に混乱なく伝えることができる。
ウエストサイドストーリーでは、トゥナイトが五重奏で歌われる印象的なシーンがある。
ウエストサイド物語~トゥナイト五重唱(Tonight:Quintet)
わずか3分の間に、これだけの人物の状況と心情を的確に表現している楽曲なのだが、それが音楽的に成立していることがすごい。
戦いに挑むための「今夜」
恋人との逢瀬を待ち望む「今夜」
幸せな未来を夢見ている「今夜」
それぞれの思い描く今夜は違うというのに、そのすべてが「トゥナイト」という一言に集約されていく。
セリフ劇でこの情報量を3分に落とし込むことはできない。
この濃縮があるからこそ、名作のミュージカルナンバーというのは、それ単体でも長く愛されるのだと思う。
どこにでも当てはまる曲ではなく、そのシーン、その状況にしか当てはまらない曲だからこそ、普遍性がある。この1曲を聞くだけで、物語の中に引きずり込まれる快感が、ミュージカルナンバーにはある。
ジーザスやウエストサイドのような、ハードな内容のミュージカルとラブコメであるシー・ラブズ・ミーを比べるのは酷な話だろうか。
では、ラブコメの王道、クレイジー・フォー・ユーはどうだろうか。
こちらも物語としては、それほど複雑ではない。誤解が誤解を生み、男女がすれ違う喜劇だ。
けれど、この話には劇場再建というテーマや、音楽を通じて生きる喜びを見出すという複雑なモチーフが隠されている。
男女のラブコメは、メインではあるものの物語の一部なのだ。
つまり、ミュージカル作品とは、情報量を多く伝えることができるため、情報量が多くない脚本にしてしまうと、中身がすっからかんになってしまうという難しさがあるのだと気がついた。
シー・ラブズ・ミーの歌は、登場人物の心情をただ歌うだけだ。しかし、それはもうわかっている。キャラクターの表情や状況だけで、誰かのことを「想っている」というのは十分伝わっている。
そうじゃない別の顔、別の切り口で思いを伝えてくれれば、こちらも飽きずに見ることができたのだが、歌のシーンがただの説明と繰り返しになっているのだ。
キャラクター性による楽曲の変化も乏しい。統一感があるといえば聞こえはいいが、すべてが同じ曲調であるのも残念だ。
カフェのシーンでようやく踊りと別の曲調が出てきたのだが、物語が1時間以上経過した頃だった。
世界観にひたるという意味では、繰り返しの楽曲もいいのかもしれない。この物語には、合っていると言えばそうなのかもしれない。
すべては好みの問題で、自分が濃縮されたミュージカル表現が好きだということなのかもしれない。
ただ、やはり説明には緩急が必要だし、暗いものと明るいものが隣り合わせの方が、双方が輝くと思うのだ。
この物語が可愛い物語なのは間違いない。でも、その可愛さだけしかない世界は、可愛いさを体感できる世界ではないのだと思った。
She Loves Me (2016 Broadway Cast Recording)
- アーティスト: ジェリー・ボック& シェルドン・ハーニック
- 出版社/メーカー: Ghostlight Records
- 発売日: 2017/10/02
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戯曲 番町皿屋敷 岡本綺堂 平成31年1月公演
え!? こんな話だったの…!? と、見ながら驚いた。
今年の1月に上演された舞台の放送。
皿屋敷といえば、井戸からお菊さんが出てきて「1ま~い、2ま~い…」と数えていくアレ。
お菊さんの幽霊シーンがあるのかな? と思いながら見ていたら、怪談話じゃなくて、悲恋のラブストーリーになっていてびっくりした。
作者は岡本綺堂で、大正5年の作品。
お菊さんの話は江戸時代の話だから、現代的な物語に書き直されたのだと理解した。
皿屋敷の話を聞いた時、皿ごときで女中を殺すから恨まれるんだな、と勝手に思っていた。
でも、この番町皿屋敷では、お菊さんの気持ちもよくわかるし、主人である青山播磨がお菊さんを殺した気持ちもよく理解できる。
あらすじはこんな感じ。
女中のお菊は、主人である青山播磨とこっそり付き合っていた。でも播磨に縁談話が持ち上がって、ヤキモキしていた。
縁談は断る、愛しているのはおまえだけだと言われたお菊だったけれど、播磨を信じることができずにいた。
そこで、家宝の皿(割ったら死罪になるほど大事なお皿)をわざと1枚割って、播磨の気持ちを確かめようとしてしまう。本当に自分を好きでいてくれたら、皿1枚で死罪になんてしないだろうと考えた。
お菊は「うっかり」割ってしまったと嘘をつき、播磨は「仕方がない」とお菊を許す。けれど、お菊がわざと割ったことがバレてしまい、播磨はお菊を問い詰めた。
お菊の試し行動だとわかった播磨は、顔色を一変させて、皿が割れたぐらいで命は奪わないが、自分の真実の愛の言葉を疑った罪は重いと、刀に手をかける。
家来の仲裁も虚しく、播磨はお菊を斬り殺し井戸に投げ捨て、自分自身も自暴自棄になりながら、家を飛び出していく。
というお話。
これなら、確かに筋が通るというか、播磨がお菊を殺す理由がよくわかった。
家宝の皿を割られたことで怒ったのではなく、自分の言葉を信じてもらえなかった怒り、しかもそれを家宝の皿を割って確かめるという愚行に対して怒ったのだとしたら、納得の理由だと思う。
一方のお菊の気持ちもよく理解できる。理解できすぎるほどに理解できるから苦しいところ。
身分違いの男が、本当に女中の自分なんかと結婚してくれるのか、たとえ播磨が何と言おうとも、まわりが許さないんじゃないだろうか、と考えるのは自然なこと。
お菊はきっと播磨が信じられなかったのではなく、自分を信じることができなかったんだろう。自分なんかが…、という気持ちは、恋愛をしているとよく起こる心理で、実は相手がどうであろうと関係なかったりする。言葉で何を言われても、お菊はただただ不安で仕方がない。相手の本当の気持ちは、どうやってもわからない。わからないものを追いかけてしまうと、どツボにハマる。不安なお菊には、解消する手段がないのだから。
お菊が皿を手にして葛藤している姿は、見ているこっちもハラハラした。なにせ殺されるのを知っているもんだから、「あかん、割ったらあかん!お菊さん!」と思いながら見てしまう。
お菊が皿を割った瞬間、家政婦は見たばりに後ろで目撃する別の女中!
アアー!!!!バレとる!!!!
それなのに、お菊が「うっかり」割ったことを播磨に伝えた時の、播磨の優しい対応がたまらない。
お菊のことが本当に好きで、「おまえの母親を屋敷に呼び寄せて、結婚の許しをもらおうか~♪」なんて話しているんだから。
そこから、お菊の試し行動がバレて、播磨が静かに怒り狂うシーンもとても良かった。お菊に残りの皿を畳に置かせ、「数を数えろ」と命じる。お菊が震えた声で「1枚…」と言うと、播磨がその皿を刀の柄で割っていく。2枚、3枚と、声が出せないほど怯えたお菊に向かって、家宝の皿をバンバン割っていく播磨。
皿なんぞ惜しくもなんともない。こんなものはただの皿じゃ!と言わんばかりの播磨。それだって大切な家宝の皿なのだから、播磨の男っぷりがすごい。
そんな家宝の皿よりも大事なもの、それが青山播磨という男の真実の言葉である、という強い信念が伝わってくる。
これは大げさな話だと思うけれど、こういうすれ違いは恋愛によくあるすれ違いな気がする。
信用や信頼というものが、愛情より上回る男性(あえて男性と言わせてもらうけれど、女性でもそういう人はいる)は多くて、そこを傷つけられるともう後戻りできない、というのはめちゃくちゃリアルな話だなと思う。
まして侍。
他の女に目もくれず、女中の恋人を嫁にしようと思っていたのに、それを信じてもらえなかった悔しさは計り知れない。
お菊の気持ちも、播磨の気持ちもよくわかる。よくわかるからこそ、どうしようもない。どうしようもないから、悲劇になるという、なんという理屈の通った話だろうか。
まさか皿屋敷がこんな話になっているなんて!と驚いた。
でも、これは怪談話である皿屋敷を、岡本綺堂が筋の通ったラブストーリーに変換したからこうなったんだろう。とても現代的な話で、びっくりした。
ただ、この終わり方だと皿屋敷は「怪談話」にはならない。
なぜなら、お菊さんは自分が死ぬことを「恨んで」はいないからだ。納得して殺されたので、井戸から湧き出てきて「うらめしや~」と言う必然性がなくなってしまう。
皿屋敷は各地に色々なバージョンがあるらしいので、また見る機会があったら怪談話も含めて見てみたい。
とりあえず、途中で放置していた京極夏彦の「数えずの井戸」をちゃんと読もうと思う。
京都ミライマツリ 南座 5月17日夜マツリ tofubeats (DJset)
十代目松本幸四郎の襲名公演、そして片岡仁左衛門のすし屋を見た舞台で、まさかDJ tofubeatsを初めてみることになるとは、去年の自分はまったく想像もしていなかった。
2017年頃から、どハマリしているtofubeats。
CDを買い集め、公開されているyoutubeの音源なども聞いたりして楽しんでいたんだけれど、クラブにはどうしても行こうとは思えなかった。
というのも、かれこれ20年前。大学生になったばかりの頃に、友達に誘われ大阪のクラブに行った。
そこで、酔っ払った男に絡まれまくったことと、ソファで死んでるのかというぐらいぐったり倒れ込んだ(おそらくキメてた)女子たちを見たトラウマで、二度とクラブには行くまいと思ったからだ。
なんと恐ろしいところか。ここにいたらいずれは全身タトゥーとピアスで薬中になって死ぬ運命を辿るんだ…と、本気で思わされた経験だった。
クラブ音楽は大好きだったけれど、CDを買って、家でヘッドホン越しに聞いてニタニタしてるだけで十分幸せだった。
それはtofubeatsにハマった2017年においても、何にも変わらなかった。
クラブ音楽というのは、本来は表に出てこない音楽だったと思う。その場に行かなければ聞けない音楽が、クラブ音楽だ。
でも、2009年、The Black Eyed Peasの”I Gotta Feeling”が大ヒットしたおかげで、日本に暮らす引きこもりな私の元まで、EDMというジャンルにくくられて、様々なクラブ音楽が手の届くところに出現した。
それまで聞いたこともなかった、トランスとかディープハウスとかダブステップとかバウンスとかダーティーハウスとか、そういうジャンル名すら知らないような音楽が、10年前、私の元にあふれ出した。
いよいよ、私がクラブに行く必要はなくなった。
CDを買えば好きな音楽があるという状況に、私はずっと満足していた。ありがたいな~なんて思いながら、毎日EDMの新曲を探しては、ニタニタしながら聞いていた。
CD最高!生音なんて興味なし!ライブ感とか関係ない!と思っていた。そもそもDJが何をしているのかも知らなくて、私にとって音楽はどこまでいっても個人的なものでしかなかった。
ただ、ライブに興味を持ったのにはきっかけがあった。
電気グルーヴの30周年アルバムを聞いた時、アレンジの良さにびっくりしてしまったのだ。インタビューを読むと、クラブではこういうアレンジでずっとやっていたから、改めて録り直したというようなことが書かれていた。電気グルーヴのこれまでの音源は、あまり好みじゃなかったから、自分は電気の音楽を好きじゃないと思っていた。でも、アレンジが変わるだけでこんなに好きになるなんて、驚きしかなかった。
自分が知らないだけで、クラブでは毎日こうやって、いろんなアレンジが産まれて消えていってるんだろうなと思った。こうして煮詰められた音楽の一部が、商業ベースに乗って自分の元へ届いているのだと実感した瞬間だった。
いつか行ってみたい。そう思っていた矢先に、ああいうことが起こり、電気のライブに行くことはできなくなった。
まさかまさか。人生にはいろんなことがあるものだと思ったし、いいなと思った時に行かないと後悔することもあると知った。
そんな時、京都ミライマツリのイベントを知った。
南座でクラブイベントという、風変わりな企画。
歌舞伎芝居を行う南座を、若い人にも慣れ親しんでもらおうという主旨で開催されたクラブイベントだったけれど、私にとっては逆にありがたかった。
南座なら昨年何度か観劇に行って、見知った劇場だった。それに、あそこにはすごい酔っぱらいはいないだろう…と安心できたからだ。
それでも、クラブのことを知らない自分が浮くんじゃないか、若い人ばっかりだったら怖いな、みんな踊りまくってたらどうしようとか、色々考えた。
毎日、南座の夜マツリの様子を画像検索して、二階席か三階席から見れば安全そうだとあたりをつけて、勇気を出して遊びに行った。
結論から言うと、私はこのイベントに行って本当に良かったと思った。
まず、音量が違うと音楽の聞こえ方が変わる、という当たり前のことに自分がまったく気づいてなかったことを知った。
これまで流し聞きしていたtofubeatsのインスト曲は、なるほど、こうしてDJsetで使用することを視野に入れて作られていたのか!と、心底驚いた。こういう場では、歌入りの楽曲は浮いてしまうんだと知り、びっくりした。
決して歌入りも悪くないし、私も好きな曲はいっぱいあるし、お客さんも盛り上がりはするんだけれど、ああいう場では盛り上がりの方向性が違ってくるんだと思った。
DJがうまいってどういう意味だろう?と疑問に思っていたけれど、自分なりにうまさが何なのか、少しわかった気もした。
盛り上がりというのは、おそらく観客の呼吸コントロールのことなんだろう。音の速さや大きさ、リズムの間隔を調整して、人の呼吸を恣意的にコントロールし、気持ちよくさせていく。気持ちよさにも色々と種類があって、上がる系もあれば心地よい系もあり、楽しい系もある。それを組み合わせて、観客の感覚を思い通りに動かしていくことが、DJのうまさのひとつなのかなと推測した。
そして、単純に、自分と同じ音楽が好きな人がこんなに存在することに、私はとても驚いた。
学校でも職場でも、これだけ長く生きてきて、自分と同じ音楽が好きな人に私は出会ったことがなかった。ネット上で熱く語っている人はいるものの、現実には見たことがなかったから、南座のフロアで楽しそうに踊る人たちを見ながら、なんだか涙ぐみそうになった。
自分が好きなフレーズで、歓声が湧き上がったりすると、たまらない気持ちになった。
一体感とかバカじゃないの?と思っていたくせに、あんなに嬉しい気持ちになるなんて知らなかった。
この音楽のこの部分の音やばいよね!?とか、このリズムたまらないよね!?とか、私はそういうことを人と話したかったんだなあと思った。それが、観客の歓声ではっきりと、みんなそう思っているというのが伝わってきて、もう話さなくても大丈夫だなと思った。
ただ音楽が好きで踊っているだけの場というのは、不思議な心地よさがあった。会社員でも学生でもない、何者でもない自分が存在しているようで、クラブの空間は不思議だと思った。
きっと昔のインターネットに通じる匿名性の心地よさにも似ていて、何者でもない自分が、ただ好きな音楽を聞いて、誰とも知らない人が踊っているのを眺めているなんて、とても贅沢な気がした。
一人ひとりに生活があって日常があるんだろうけど、そういうのがすべて関係なくなる場があるということを、知った。
”I Gotta Feeling”のMVで、仕事のストレスを踊って忘れるという主旨の歌詞と映像があったけれど、私は「へえ~そういうもんか」と思いながら他人事のように見ていた。でも今日、あの場に行ってはっきりと実感した。
これがあれば、けっこう大変な仕事もこなせてしまうなと。
それが良いことか悪いことかは別として(個人的には大変な仕事はしない方が良いと思っているので)、日常のやるせなさを吹き飛ばす効力があるのだと体感した。
歌舞伎を見た時にも感じたんだけれど、自分の時間感覚を強制的に変化させられる感じがした。
些末なことが気になり、細かいことを考えてしまう切り替えの悪い脳みそを持った自分が、すべてのことが気にならなくなるという開放感を感じた。
それは目の前の現実が、極めて狭い視野の範囲のものだと教えてくれるようだった。
それが、ああいう空間の中で音楽を聞くだけで得られるというのは、なんとも不思議で、人間の脳みその謎だなあと思う。
爆音に馴染んだ耳のまま外に出たら、耳が敏感になっていたのか、それともバカになっていたのか、京都の街の音がやけに色々と聞こえだした。
いつもはうるさいと思う車の音や、人の話し声、靴音なんかが、ひどく愛しい音に聞こえた。
非日常を体験すると、日常がこんなにも愛しくなるのかと、これも驚きだった。
そして、自分にとって大切なものが何なのか、自分が好きなものは何なのか、そんなことだけがぐるぐると頭の中をめぐっていた。
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The Black Eyed Peas - I Gotta Feeling (Official Music Video)
ミスターガラス(スプリット・アンブレイカブル)
<ネタバレしてます>
もともと、ヒーローには興味がなかった。
日本の少年漫画はもちろん、日本にもファンが多いと言われるアメコミにも興味がなかった。
私が小学生や中学生の頃にやっていた夕方のアメコミアニメは苦手だったし、ティム・バートン監督のバットマンシリーズも苦手だった。
だから、ヒーローモノには一生縁がないだろうと思っていた。
それが覆ったのが2000年公開、Mナイト・シャマラン監督の「アンブレイカブル」だった。
「アンブレイカブル」はスリラーやサスペンスに見せかけた、アメコミヒーローの誕生物語だ。
物語の種類(ジャンル)が実は違っていた、というのがネタバレのオチなんだけれど、これが当時とても評判が悪かった。
少なくとも私の周辺で、この映画を好きだと言っている人はいなかった。
作中内で展開する物語のオチではなく、その外側、小説で言えば叙述トリックにも似た手法の騙し方を、おもしろいとは思えなかった人が多かったのだろう。
その意見はよくわかる。
そういう、どんでん返しが見たくて見ると、肩透かしをくらう人がいるのも想像がつく。
でも、私はどんなヒーローモノよりも、この「アンブレイカブル」が大好きだった。
それは、この物語が、<ヒーローがこの「現実に」存在したらどうなるだろうか>という思考実験を私に与えてくれたからだ。
かつてこれほど、現実的なヒーロー像を私に提供してくれた物語はなかった。映画でも漫画でも、異次元の力を持つヒーローは最初から存在を許されていた。
そこはスルーするのがお約束。特に語るべきところではなく、ヒーローが悪とどう戦うかに焦点が絞られていた。
でも、アンブレイカブルは、そういうヒーローの存在そのものを問う話になっている。
とにかく私にはこの物語が新鮮に映り、大好きになった。
そこから5年後。
アメコミ映画の金字塔とも言える最高傑作、クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズが始まる。
ノーラン監督のバットマンシリーズは本当に素晴らしいと思うし、私も大好きなんだけれど、アメコミ映画というジャンルに「現実感」という最高のスパイスを持ち込んだのは、「アンブレイカブル」なんじゃないかとずっと思っている。
「アンブレイカブル」がなければ、ノーラン監督のバットマンもなく、X-MENのリブートもなかったんじゃないか、そんなふうにさえ思う。
次元が変わる、とはまさにこのことで、これまで荒唐無稽で非現実的な演出だったアメコミというジャンルを一変させてしまい、ここまでの市場規模に拡大させたのは「アンブレイカブル」なくして、ありえなかったと思う。
ノーラン監督のバットマンにおける現実感と、シャマラン監督の現実感は似ているようで、違う。
ノーラン監督は、ゴッサムシティという架空の犯罪都市が「現実にあったとしたらどうだろうか?」という点に、徹底的なリアリズムを持ち込んだ。
街に住む人々の感情や、行動原理、映像的にももちろん、重力を無視しない演出だとか、爆破できっちり建物が壊れるところなどもそうだ。そして、ブルースの使う車や武器などにもリアリティが宿っている。善悪という哲学的なテーマで主人公が苦悩する姿も素晴らしかった。アメコミの演出を最大限、リアルにしたらノーラン監督のような映画になると思う。
でも、シャマラン監督は違う。
彼の作品は、どこまでいっても「現実にヒーローを持ち込む」という姿勢だ。私達が住む「現実の世界」に「ヒーローがいたら」というラインを絶対に崩さない。これはすごいことだ。
なぜなら、現実の物語には制約が大量に含まれてしまうから。
異能の者を描く時、その根拠を宇宙人説や、とにかく不思議な力として片付けてしまうのは簡単だ。そこにはそれ以上の理由は必要ない。そういうものだと言ってしまえば、とりあえず脚本上の問題はなくなる。
けれど、それにどこまで「現実的な」説明を付け加えるか、その一点に腐心した作品が、シャマラン監督のこのシリーズなんだろう。
それは、あたかも、別の現実を作り出す作業のようだ。
別の空想を作り出すことは簡単だが、別の現実を作り出すことはとても難しい。現実とは、誰もが「納得しうる」ものでないとダメだからだ。
たとえば、ヒーローが活動すれば、それにともなって傷つく人々がおり、世界が変容してしまう。それをすべて考慮しながら、現実に落とし込むには、脚本上の制約があまりに多すぎる。
それなのに。
それなのにだ!!!!
ミスターガラスがおもしろいんだから、度肝を抜かれた。
展開も、最大限にどんでん返しを加えていたと思う。たぶん、この制約の中でできる最上の脚本だと思う。
物語をおもしろくするために、びっくりするような展開を付け加えることはできるだろう。でも、シャマラン監督には「現実のヒーロー」を描くというとんでもない制約がある。
だから、物語は自由に動かすことはできない。自由に動かせば、これまで積み上げてきたリアリティが無に帰してしまう。そういう中で、この脚本を書き上げることは並大抵のことではない。物語は、ある意味、当然の帰結とも言える展開で幕を閉じる。
それなのに、1秒たりとも目が離せないのだから、すごすぎる。
演出面でもいろいろな工夫はあった。
個人的に気に入っているのは、惨殺シーンが引きのカットで撮られているところだ。
ビーストが暴れまわり、警察官を食い殺すシーンも、遠くの映像でしか映らない。映画の演出上、寄りのカメラで撮影して、臨場感を出すことは簡単にできる。ビーストが迫ってくる画面を見せれば、びっくりするし、簡単に怖がらせることができるだろう。
でも、現実に目の前で事件が起こった時、当事者以外の人間には、それがまるで「映画のワンシーンのように遠くの出来事」に映ることの方が「現実感」があるのだと思う。
何かの異変があった時、その場にいる当事者は、その全貌を目撃することは絶対にできない。切り取られた現実しか、私達は見ることができない。
その「映画みたいな映像」こそが「現実的」であり、そんな簡単に残虐なことが起こることこそが「恐怖」だと思うのだ。
ただし、ビーストが傷つくシーンは寄りのシーンで、鮮明な赤い血が映り込む。これは、ビーストの現実を映した映画なのだというメッセージなんだろう。
それから、いかにも壊れそうな「オオサカタワー」という名称。もう、すっかり騙された。絶対に壊れると思って疑わなかった。
そんなふざけた名前のタワーは壊れされるから、こんな名前なんだろうな、アメリカ人は日本のこと、それぐらいの知識しかないよね、なんてめちゃくちゃ舐めた見方をしていた。
それなのに、壊れない。マジか。壊れないのか!?
オオサカタワーをフェイクに使うというセンスがやばすぎた。
かくして、フィラデルフィアにオオサカタワーなる塔が爆誕してしまうという、アホみたいな話とヒーロー物語のギャップがいい。
そして、最終決戦の場が、オオサカタワーではなく病院の庭先だというのもとても良かった。ダンは小さな水たまりで溺れ死ぬ。なんて、映像的に矮小な終わり方だろうか。
でも、そこがシャマラン監督がこだわる「現実感」のような気がした。
映画はとても不思議なもので、大きな世界を描けば描くほど、世界は小さく感じられていく。
でも、小さな一コマを描くと、なぜか世界は大きな広がりを見せる。
世界とは、私たち人間が感知できるほど小さくはないのだろう。私はそう思っている。
カメラに収まるぐらいの世界には、世界のリアリティはない。
だから、病院の庭先の小さな水たまりで、無敵のヒーローが溺れ死ぬなんて世界、どんなに広いんだろうと実感せざるを得ない。
無限の広がりを感じさせる終わり方だったと思う。
悪の側が強くなければ、物語はどんどん矮小になっていく。だからヒーローモノでは、悪は強くなければならない。強さのインフレを起こさないための工夫が素晴らしいと思う。
映画としてのおもしろさを問われれば、見る人を選ぶ映画だと思うし、多くの人がおもしろがれる話ではないだろう。
けれど、こんな話を作ろうとしてくれる監督は、この世にそんなに多くない。
シャマラン監督が、この誇大妄想を映画にしてくれて、私は本当に嬉しくてたまらない。