好きなものを好きなだけ

映画やドラマ、読んだ本の感想を、なるべく本音で好き勝手に書いていきます。コメントの返事はあんまりしないかも。

七月大歌舞伎・大阪松竹座/渡海屋・大物浦ほか(2019年7月27日千穐楽)

去年の松竹座観劇から1年。今年も七月大歌舞伎を見に行った。

チケットも高額なので、今年は昼公演だけにしようと思っていた。けれど、千穐楽の夜の部に澤村藤十郎さんがご出演されると聞きつけ、急遽夜の部のチケットも取った。

 

澤村藤十郎さんといえば、やっぱり古畑任三郎だ。

私は澤村藤十郎さんの歌舞伎は見たことがなかったけれど、古畑任三郎の「動機の鑑定」は何度も何度も繰り返し見た。古畑任三郎のエピソードの中で1、2を争うほど好きな話だ。

一番印象に残っているのは、この話の大オチ。物の価値とは何なのか、ということを叩きつけられたこと。次に、骨董品という世界のおもしろさがあり、それを体現する澤村藤十郎さんの佇まいに惚れ惚れした。(ちなみに、この影響から北森鴻の冬狐堂シリーズや細野不二彦ギャラリーフェイクにハマっていったりする)

悪徳骨董業者の春峯堂主人は、悪いことばかりしているくせに、骨董品を見分ける目は確かだ、というキャラクターの説得力が澤村藤十郎には備わっていた。

思い返すと、堺正章の「動く死体」で狐忠信を知り、「若旦那の犯罪」で市川染五郎にどハマりし、「王様のレストラン」「バイマイセルフ」で松本幸四郎にハマった。私が歌舞伎好きになったのは確実に三谷幸喜のプレゼンの影響だ。

「動く死体」では舞台装置のすっぽんがトリックに使われているが、その影響で、私はずっと、歌舞伎ではすっぽんが頻繁に使用されると思い込んでいた。けれど実際は、狐や妖怪、人でないものが登場する時にしか使われず、なかなか生ですっぽんからの登場シーンを見ることがなかった。

そんな中で、今年の七月大歌舞伎では、中村時蔵が演じる葛の葉姫(実は狐)がすっぽんから登場することろを見ることができた。なんとも古畑任三郎に縁を感じる1日になった。

 

昼の部は、「色気噺お伊勢帰り」「厳島招檜扇」「義経千本桜 渡海屋・大物浦」の3本。

 

「色気噺お伊勢帰り」は、藤山寛美主演で作られた松竹新喜劇が元ネタだそう。歌舞伎の演目にしてはとても軽妙で笑いの多い構成だった。明るい話で、長屋のドタバタ喜劇。題材はとても好きだ。けれど、演出が苦手だった。いわゆる、笑いどころを提示したり、登場人物が笑わせようと行動する演出を笑えない自分がいる。

基本的には、藤山寛美がおいしくなる演出が前提にあるせいだろう。主役のキャラクターが一番くどかったのが残念だった。笑われるキャラクターと笑わせるキャラクターは違うと思うが、漫才ではなくお芝居の笑いでは、笑わせているとキャラクター自身がメタ認知しているようなものは白けてしまう。

登場人物が真剣に行動した結果、見ている側が勝手に笑ってしまう、そういう喜劇が好きなので、あまり心から楽しめなかった。

もちろん、観客の年齢層から考えて、わかりやすさも大事だと思うので、この演出が間違っているとは思わない。この判断はとても難しいところだと思う。現状、お笑い芸人が演じるコントであっても、登場人物のメタ認知に配慮している演出は非常に少ない。個人的には、笑っていいのかわからないラインが一番好きだが、それは攻撃性に転じてしまう。真面目な人を笑うことに他ならないため、多くの人には受け入れられない。笑いとわかりやすさの難しい関係性を、こんなところでも思わず考えてしまった。

 

けれど、中村芝翫の大工はかっこよかった。こういう世話物というか、日常っぽい役をやっている時の中村芝翫、大好きだ。しゃべっているのをずっと聞いていたくなるほど心地よい。

そういえば、私の初歌舞伎観劇は中村芝翫(当時の橋之助)だった、と思われる。というのも、当時、私は高校生で、歌舞伎には興味がなかった。ほとんど眠っていたので、今となっては何の演目だったのかも思い出せない。

ところが、その公演で、同級生の男子が面白半分、度胸試し半分で大向うのマネをして「成駒屋!」と叫んだのだ。もともとリズム感の良い男の子だったこともあり(現在彼は音楽家になっている)、成駒屋という掛け声が演目の邪魔をすることなく、バシッ!と決まったのだ。肝が冷えるとはこのことで、見ているこっちが冷や汗をかいた出来事だった。

その時、成駒屋というフレーズが頭の中にこびりついて耳から離れなくなった。私は今でも「成駒屋!」の声を聴くと、彼の度胸と、中座の三階席を思い出す。あの時、男の子が声をかけた先には、チャキチャキした江戸っ子のような人物がいたような気がしていて、あれは中村芝翫だったんじゃないかなあと思っている。

 

二幕目、三幕目は時代物で、源氏と平家のお話だった。

時代物は苦手で、どうしてもお芝居に入り込めない。けれど、片岡仁左衛門の碇知盛。見ないわけにはいかない気がした。

結果的に、演技はすごいと感じたけれど、話がどうしても納得できなくて、私にはまだ早い演目だと思った。

この碇知盛について、あーだこーだ言えるほどの知識も見識もないので、感想を書くのもおこがましい気がした。ただ、妙な意地で、おもしろいと思ってないものをおもしろいと言うのも違うと感じる。だからこの演目の感想は保留。

劇場では、壮絶な知盛の最後に、涙する人もいた。正直な感想としては「マジで泣くの? なんで??」だ。

いつか、自分がこのお芝居の良さやおもしろみがわかった時に、もう一度考えてみたい。

 

夜の部は、「芦屋道満大内鏡・葛の葉」「弥栄芝居賑」「上州土産百両首」の3本。

 

芦屋道満大内鏡・葛の葉」は安倍晴明の出生がモチーフになったお話。陰陽師安倍晴明、狐の妖怪。こういうの、大好きだ。

昔の人にとって、安倍晴明というキャラクターは、前日譚が作られるほどメジャーな存在だったんだろうか。それとも、浄瑠璃や歌舞伎で演じられるからこそ、メジャーな存在となっていったんだろうか。

晴明の母親が狐だという話は、どこかでチラッと聞いたことがあったけれど、こんな風に江戸時代に戯曲化されて、さらに現在でも歌舞伎で上演されているとは知らなかった。

晴明の母親、葛の葉姫(狐)を中村時蔵が演じていた。本物の姫と、狐が化けた姫、二役の早変わりが見どころのひとつ。それは事前の予習で理解していた。けれど、一番の見せ場は、障子に歌を書くシーンだった。

舞台に4枚の障子が設置され、そこに葛の葉姫がお芝居をしながら、筆で和歌を書いていくのだ。

「え……本当に、今書くの!?」と驚いた。

途中、子どもをあやしながら、左手に持ち替えながら、そして最後には両手で子どもを抱え、筆を口にくわえて歌を書き終わる。

なんだか見ているだけでドキドキした。このドキドキ感は一体何なんだろうと不思議に思った。ライブ感、生感、今そこで行われている、そういう演出は色々とあるけれど、「筆で字を書くこと」は妙に刺激的だった。

 

続く二幕目は「弥栄芝居賑」。

芝居仕立ての口上で、役者が一堂に会して挨拶をする。仁左衛門さんのちょっとした言い間違いがあり、開場が笑いにつつまれる。舞台で芝居をしている時の仁左衛門さんは、それこそ鬼気迫る勢いだけれど、こういう時の仁左衛門さんは本当におちゃめな人だと感じる。失礼を承知で言えば、とっても「かわいらしい人」だ。そんな一面を見られるのも舞台ならでは。ありがたや~!という気分。

そして、澤村藤十郎さんがせり上がりで登場すると、劇場中が大きな拍手で包まれた。私も思い切り拍手した。「関西歌舞伎を愛する会」の前進である「関西歌舞伎を育てる会」発足に尽力したのが藤十郎さんだということを、私はこの日までまったく知らなかった。

私が今日、のんきに地元で歌舞伎を見られるのも、こういう努力があってこそ。本当に微々たるものだけれど、行ける時は歌舞伎を見に行こうと決意を新たにした。

 

…とか言っておきながら。

三幕目の「上州土産百両首」を見ることができなかった。朝から座り続けていたせいか、暑さのせいか、どうにも体調が悪くなって早々に撤退。めちゃくちゃおもしろそうなお話だったのに(スリの師匠と弟子が再会して、追う側と追われる側になっている、というような人情話)、見ることができなかった。来年あたり、衛星劇場で放送してくれないかな…と淡い期待を抱いて帰宅。ああ…見たかった…。

 

去年の七月大歌舞伎でも思ったけれど、やはり年々、観劇が苦しくなっていっている。映画館レベルでも体力が続かない時がある。まして歌舞伎の観劇は、頭フル回転なので大変。座席も小さいので、大柄な私にはツライ。こういう時、骨から小さくなりたいと切実に思う。座席にすっぽりきれいに収まっているおばあちゃんを見ると、本気でうらやましいと感じる。というわけで、なるべく良い席で見られるよう、仕事をがんばるしかない。うへぇ。

 

次は京都・南座

ずっと見たかった「東海道四谷怪談」だ。

関西では26年ぶりの上演らしい。昼に行くか夜に行くか、ちょっと迷うところ。

 

アクアマン


『アクアマン』 予告編 (2018年)

 

ネット配信が始まったので、視聴。

前回のワンダーウーマンでも思ったけれど、DCも完全に明るいノリの映画に移行したんだなと実感した。

私はスーパーマンの「マン・オブ・スティール」がとても好きだったので無念としか言いようがない。

いや、アクアマン単体で見た場合、これはこれで明るいアメコミ映画として良いと思うんだけど、MARVELと同じ路線なのは単純に残念。

小難しい話が好きなら、SF映画を見たり、本でも読んでろってことなのかもしれない。

実際、アクアマンの興行収入は良かったらしいので、今後のアメコミ映画は、MARVEL、DCともに派手アクションにノリ重視のストーリーになっていくんだろう。

 

アクションシーンを見ると眠ってしまうタイプなので、アクアマンを見ている間、3回寝落ちした。私は苦手だけれど、スティーブンセガールの映画のような豪快さがあって、ハマる人はハマる映画だと思う。

 

アクションシーンは、映画の楽しみのひとつだと思うけれど、どうにも受け付けない。楽しみ方がわからないというか、眠くなる。

これは、私がスポーツ観戦を一切しないという話と似ている気がする。人が体を動かしている姿に対して、共鳴や共感が異常に欠落していると思われる。

スポーツ好きな人に会うと、必ずそのスポーツの良さを聞いてみるんだけれど、なぜか共感することはない。

子どもの頃からスポーツをしなかったせいなんだろうか。うーん…。

NCISシーズン16 24話(シーズンフィナーレ)

<ネタバレしてます>

 

か、帰ってきた…!!!!!

 

ジヴァ・ダヴィードが帰ってきたぞー!!!!!

 

というわけで、とても嬉しいジヴァの復帰に、ラストシーンを何度も何度もリピートしてた。

なんだか落ち着いた声のジヴァ。もともと、コート・デ・パブロの声は低めのしっとりした声だったけど、改めて彼女の低い声で「Hello,Gibbs」というセリフが聞こえた時、なんだかぐっときてしまった。

 

ああ、ジヴァがいる!ジヴァがいるぞー!!!という気持ち。

NCISでは、初の復活キャストになる。ほとんどのキャラクターは死んで降板なので、ジヴァの死体が上がらなかった時から、いつかはこんな日がくると信じていた。たとえ、コートの復帰がなくてもジヴァというキャラクターは作中で生きてると思っていたので、コートの出演が決定しているのは本当に嬉しい。

トニー役のマイケル・ウェザリーは、別の主演ドラマに出演中とはいえ、同じCBSの番組。もしNCISの最終回があるならマイケルだって出演するはずだと、これも頑なに信じている。

なんてったって、トニーにはジヴァとの愛娘がいるからね。いつか彼らの3ショットも見せてくれるはず。NCISはそういう国民的お約束展開のドラマだと信じている!

 

いや~。それにしても嬉しい。

現段階で、コート・デ・パブロの出演がレギュラーなのかゲストなのかは公表されていないけど、ゲストでも十分だ。時々、顔を出してくれるぐらいでかまわない。

そして何より、ジヴァというキャラクターが出演するということは、NCISが国内の事件解決ではなく、国外の陰謀に巻き込まれていく展開になるだろうことを示唆している。これが楽しみ。

ジヴァは、NCISの重要なキャラクターでありながら、モサドという故郷がある。どっちも大切だという部分が、物語の展開をおもしろくさせていた。信用できないキャラクターなんだよね。でもそこがいい。

何より厄介事を持ち込ませたら天下一。次々に面倒なことを持ち込めるキャラクターだから、物語が大きく動いておもしろくなる。

一話完結の事件もいいんだけれど、シーズンを通しての敵や、克服すべきトラウマっていうのがないと、どうも中だるみしてしまう。

シーズン6から続いていたギブスとギブスの父親の確執は、とても見応えがあって大好きだった。今はギブスの家族問題が続々と解決していっているので、ジヴァの厄介事が楽しみだ。

 

今回の24話タイトルは「Daughters(邦題:最愛の娘)」。

複数形というのは、もちろん、この話のメインだったフォーネルの娘と、そしてギブスの娘(と同等の存在である)ジヴァのことだ。

にくいね、こういうタイトル。

邦題も「最愛の娘」。フォーネルさんの娘のことだと思うよね、普通。そしたら最後の最後にジヴァが出てくるんだから。

ああそうだよ、ギブスがジヴァのことを娘のように愛してるって言ってたなぁ、なんてことを思い出しながらしみじみしちゃった。

 

アビー役のポーリー・ペレットの降板は本当にショックで、しかも降板理由がマーク・ハーモンからのいじめや暴力だと本人が発言。何が本当かはまったくわからないけれど、こういう状態になってしまったこと自体が残念だった。

そんな中でのコートの復帰。こんな嬉しいニュースはない。

NCISがあと何年続くかはわからないけれど、グランドフィナーレには一人でも多くのキャストが続投、そして復帰した状態であることを願わずにはいられない。

 

 

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2019年6月のあれこれまとめ。

今月の読書。

・哲学入門 バートランド・ラッセル

・図説・標準哲学史 貫成人

・答えのない世界に立ち向かう哲学講座 岡本裕一朗

・中動態の世界 國分功一郎

・暇と退屈の倫理学 國分功一郎

・世界の建築家 解剖図鑑 大井隆弘

・図説 英国の住宅 ChaTea紅茶教室

・江戸の骨は語る 篠田謙一

・そろそろ、歌舞伎入門 ペン編集部

・歌舞伎名演目 世話物 松竹株式会社

・歌舞伎キャラクター絵図 辻村章宏

市川染五郎と歌舞伎を観よう 小野幸惠

・映画の文法 実作品にみる撮影と編集の技法 ダニエル・アリホン

・スタン・リー マーベル・ヒーローを創った男 ボブ・バチェラー

・映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話 マイケル・オンダーチェ

 

 

昨年読んだ斎藤環さんの「オープンダイアローグとは何か」とコラボしていた記事を読み、ようやく國分功一郎さんの「中動態の世界」を読んだ。

読んでみて、え!?言語の話だったの!?ととても驚いた。そこから派生した人間の脳や行動の話ではあったんだけど、私は「中動態」という単語そのものを知らなかったので、そういう話なのか!とびっくりしてしまった。

そもそも、ロマンス諸語というものをあまり理解していなかったし、西洋の言葉たち(フランス語やスペイン語やドイツ語などなど)が、どういう親戚関係なのかもイマイチわかってなかったため、能動態とか受動態とか以前の問題だった気がする。作者の國分功一郎さんは、海外留学もして、そこで仕事もするぐらいなので、英語はもちろん、ロマンス諸語にも精通してるんだろうなと思う。

でも、英語もおぼつかない私にとっては、そもそも受動態や能動態という分類を意識せずにしゃべっていて、実感としては遠い話だった。ただ、言葉が脳を縛っていく構造は理解できるし、言葉が完全でないというのもよくわかる。

英語という言語が、常に主語、つまり「誰がその行為をしたのか」を問い続ける特性のために、本来主語がないはずのものまで、誰かの責任にしてしまっているのじゃないかと、大きく言えばそんな話だった。

哲学本をちょこちょこと読んだあと、建築本に手を出し、歌舞伎関連のビジュアルブックなども読んだ。

ようやく演目も覚えだし、解説なしでも、初回でなんとなく理解できるようになった。ほんの1年前は、まったく言葉が理解できなかったことを思えば、やはり同じ日本語。習得できるもんだなと思う。

そんなに歌舞伎を見たことがなかった20代の頃から、市川染五郎さん(現・十代目松本幸四郎)が書かれた歌舞伎の本を読み、いつか本物の舞台を見に行こうと思っていたことが、懐かしく感じられる。昨年の襲名興行を機に、ガチで歌舞伎を見に行くぞ!と決意したことは本当に良いきっかけになったと思う。

 

そして、6月末にはX-MENダークフェニックスの鑑賞準備のため、X-MEN映画の総ざらいをした。アメコミ熱が再燃して、スタン・リーの本や映画編集の本などに手を出した。分厚い本だったので、まだ途中だけれど。さらに、勢いでDCコミックキャラクター辞典を購入。全然知らないキャラクターばっかり載っていて、どうしたもんかと思いつつ、見ているだけでも幸せなのでいい。

MARVELキャラクター辞典はプレミア価格になっていて、とても手が出せない。でもいつかはほしい。

あとは、新古書を見に行った際に見つけた、深海生物の図鑑を買ったり、世界の文様図鑑を衝動買いしたりした。

あらかた読み終わったら、7月中には京極夏彦先生の新刊を買いたいと思っているけど、いつになるんだろうか。

京極シリーズを読み出すと、姑獲鳥の夏から全部読み返したくなるので少し躊躇している。でも、もうすぐ夏。姑獲鳥の季節だ。

 

 

今月のドラマ。

春ドラマがのきなみ最終回を迎えた6月。

最後まで完走視聴したのは、「きのう何食べた?」と「緊急取調室」だけだった。

もう散々語られているので、「きのう何食べた?」について自分が言うことは何もない気がする。とにかく素晴らしいキャストとスタッフと企画だったなと、しみじみしている。DVDを買う予定で、グッズも可能な限り通販したいと思っている。

ドラマの収益化が難しくなってきた昨今、こうして直接的にグッズで課金させてくれるのは、とても嬉しい。課金とオタクは相性が良い。「きのう何食べた?」は、グッズ展開もとても素早くて、ほしい時にさっと売り出してくる方法は素晴らしいなと思った。

「緊急取調室」は安定感のあるドラマで、ちょっとオーバーな演技もふくめて毎週楽しく見ていた。やりすぎやろ!とつっこむのも楽しみのひとつ。ただ、部署が解散する・しないの展開は、別にいらなかったような気がした。そういう緊張感がないと見てくれないの?

そんなことないと思うんだけどな~と、無責任な感想を吐き出してみる。

 

海外ドラマは、スーパードラマTVで始まった「クリミナル・マインドシーズン12」を視聴中。ホッチ役のトーマス・ギブソンがトラブルで降板したシーズン。ホッチがいなくてどうなるのかと思っていたけれど、まあこれはこれでアリかもしれない。クリマイは女子キャラクターが魅力的なので、エミリーやJJがいなくなった時の方がショックが大きかった。シーズン15で終了と発表されているので、あと3シーズン、じっくり楽しみたい。

FOXで放送中の「NCISシーズン16」は、今週がシーズンフィナーレ。あの方の大復活があるのか、ないのか。もうそれだけでドキドキしている。トニーもアビーもいなくなったNCISに、ぜひ戻ってきてほしい。

あとは、サブスクが更新されていて、「SUITSシーズン7」もすべて見終わった。実は、シーズンフィナーレだけはどうしても我慢できず、昨年すでに本国の放送で見ていた。ちゃんと日本語字幕で見られたのは良かった。ドナちゃんが会社のCEOになろうとする展開でしたが、うーん。やっぱりドナちゃんは秘書がいいと思います!!!

あとルイスが相変わらずおもしろくて、この人、隣にいたら大迷惑だけどドラマだと笑えるなあって不思議な気持ちになった。

 

大好きだったビックバンセオリーが、本国でフィナーレを迎え、楽しみにしていたドラマがひとつ、またひとつと終了していって、寂しい。SUITSもクリミナル・マインドも終了が発表されていて、次にハマれる連続ドラマがまだ見つかっていない。

NCISも、ギブスがそろそろ体力限界にきてそうなので、終了も視野に入っているのかなあと思ったり。フレンズの復活があるかも?なんてニュースも流れているけど、本当だったらこんなに嬉しいことはない。ないとは思うけど、あるかも、と思いながら今日もがんばって仕事に行きます。

パティシエ探偵ハンナ チョコチップクッキー殺人事件


Murder She Baked A Chocolate Chip Cookie Mystery

 

 

可愛いお菓子と恋愛とサスペンス。

なんだ、この軽いテーマは!と思わず課金して見てしまった「パティシエ探偵ハンナ」。

サブタイトルもチョコチップクッキー殺人事件や、カップケーキ殺人事件と、なんだか可愛い。気軽な気持ちで、お菓子を頬張りながら見られるサスペンスドラマ。う~ん、イイ!

 

ミネソタ州の田舎町で、クッキー屋さん兼カフェを経営しているハンナ。ハンナの店には、ご近所のおしゃべりおばあさんや、警察官など、様々な人が通ってくる。そこで仕入れた噂話をもとに、好奇心旺盛のハンナが殺人事件に首を突っ込んでいくという、おさわがせミステリー。

ハンナの相棒には、町にやって来たばかりの訳あり刑事・マイクと、ハンナとお見合いデートをした歯科医のノーマン。

二人の間で揺れ動く少女漫画設定!ネタバレですが、最後まで見てもまだどっちともくっついていません。まじか!魔性の女ハンナ!

 

毎回、お菓子にまつわるエピソードや、お菓子がらみの事件が起こるのがおもしろい。ハンナの信条は「人がクッキーを選ぶのではない。クッキーが人を選ぶ」という、よくわからないセリフ。

でも、なんか可愛い。

クッキー店の描写も可愛くて、出演者がお菓子をほおばったり、ハンナがお菓子づくりをしているシーンが印象的だった。

相棒の刑事・マイクとは、最初はいがみ合っているのに、気がつけばめちゃくちゃ惚れられてしまうという王道展開。なんじゃそりゃー!とつっこみながら、最後まで見てしまった。

歯医者のノーマンも都会的で悪くないと思うけどね。

 

ミステリーと恋愛ドラマのバランスがよくて、あまり不快な気持ちにならない話だった。こういうの好きだなぁ。

 

ジャンルはテレビ映画で、劇場公開しているわけではない。いわゆる2時間ドラマってジャンル。

こういうドラマが日本で見られるなんて、ちょっと感慨深い。

というのも、私の海外ドラマデビューは1994年のフレンズで、かれこれ25年ほど前になる。その頃はyoutubeもなく、アメリカのテレビ情報はほとんどなかった。テレビ俳優の様子を見られるのは、アカデミー賞の中継ぐらい。それもメインではなく、付き添いや来賓席にいる。チラッと映り込むテレビスターを必死にコマ送りで探すという、時代だった。

 

そもそも、テレビ放送枠が限られていたので、本当に限られたドラマしか日本で放送されず、見られないものがほとんどだった。

フレンズやフルハウスのような国民的なビッグタイトルか、ERなどの医療ドラマみたいに、確実に当たりそうなものしか放送されてなかった。

それを思うと、「パティシエ探偵ハンナ」なんて、かる~い2時間ドラマに日本語字幕がついて見られる日が来るなんて。ちょっと感動的だ。

今後もこういうドラマの配信が増えていくといいなあと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

X-MEN:ダークフェニックス


映画『X-MEN: ダーク・フェニックス』本予告【最大の脅威】編

 

仕事帰り、初日のレイトショーで見てきた「X-MEN:ダークフェニックス」。

本国のアメリカでは先々週に公開されて、オープニングの観客動員数がかなり少なく、収益は見込めないだろうというニュースが流れていた。日本でも、試写会のレビューがあまり盛り上がっておらず、これは危ないかもなあ…と不安な気持ちを抱えながらの鑑賞。

 

結果的には…うん…そうか…という感じだった。

私はX-MENが好きだったのか、ブライアン・シンガー監督が好きだったのか、よくわからなくなった。それは本来、分割されるべきものではないのかもしれない。

というわけで、X-MENの映画全体を語りつつ、今回のダークフェニックスについて書いていきたい。

 

まず、私がX-MENの何に一番惹かれていたか、という点。

 

アメコミ映画は、大きくわけでMARVEL原作とDCコミック原作がある。そのどちらも、映像化がさかんで、現在の映画業界ではアメコミは一大産業になっている。

 

MARVELは「アイアンマン」や「キャプテン・アメリカ」などが活躍する「アベンジャーズ」を制作している。アクションが派手で、勧善懲悪的な世界観があり、とにかくヒーローが活躍するタイプの映画だ。興行収入がすこぶる良く、現在の映画界でトップに君臨する作品群だ。

一方、DCコミックは「バットマン」や「スーパーマン」が活躍する「DCユニバース」。クリストファー・ノーラン監督に代表されるような、ダークでクライム・サスペンス色が濃い映画が多い。善悪が渾然一体となっていて、哲学的なテーマが見え隠れする。しかし、興行収入はイマイチで、バットマン以外はコケまくっている。

 

本当に大きなざっくりとした流れで言うと、MARVELはエンタメ系映画で、DCコミックはノワール系映画だと私は思っている。

 

X-MENシリーズは、MARVELに属していながら、DCコミック映画的な世界観を持つシリーズで、特異な位置にある映画だ。それはこのシリーズが、映画界でMARVEL帝国を築く前に制作された映画だったからだろう。

2000年に制作されたX-MENは、アメコミ映画が今ほど「当たる」と思われていなかった時代の映画だ。監督はブライアン・シンガー。「ユージュアル・サスペクツ」の監督で、未だにオチでびっくりする映画と言えば、この作品の名前があがるほど人気のある映画だ。

系譜で言えば、ブライアン・シンガーは明らかにDCコミック系の監督に近い。フィルムノワールを撮るのがうまいタイプの監督だと私は思っている。一緒くたにするのはどうかと思うが、クリストファー・ノーランやデヴィット・フィンチャーのような監督と属性は近い。

 

彼らのようなクライム・サスペンスやフィルムノワールを得意とする監督の特徴は、人間の脳領域の話を映画に混ぜ込んでくることだ。

今見ている現実は本物か、また本物の定義は何か。

自分は何者か、自分という人間は存在するのか。存在とは何か。

一貫して、哲学的で本質的なことを問いかけ続けるという軸がある。

90年代後半から2000年代にかけて、彼らが作り出す映画が大流行した。本来ならば、低予算で小難しい話になるはずのテーマを、エンターテイメントと融合させたのが、アメコミ映画のいち側面だと私は解釈していた。

 

X-MENは、そういうエンタメ系と哲学系の間の存在だった。ノーラン監督やシャマラン監督ほど難しすぎない、エンタメ系でもあるというバランス感覚が好きだった。

シャマラン監督の作品は、ストーリーの本筋に哲学的要素が食い込んでくるが、X-MENはストーリーには食い込まない。ただ、キャラクターの内面には、そういう匂いがついている。このバランスがいい。

深掘りしようと思えば掘れるキャラクター設定でありながら、それをスルーしても作品自体は楽しめるエンタメ性がある。観客に様々な楽しみ方を提供してくれる作品だ。

 

今回のダークフェニックスは、これまでのシリーズを担当してきたブライアン・シンガーの手を離れ、サイモン・キンバーグが監督をした。それが、どれほどの影響があったのかは、観客の私にはまったくわからない。製作や脚本、演出や監督、誰の意図がどこまでどのように反映されているかはわからないため、サイモン・キンバーグ監督のせいだと言ってしまうのは違うのかもしれない。

 

ただ、ブライアン・シンガーではなくなった結果、X-MENのキャラクターの中に存在していた一貫性が消えてしまっていた。

 チャールズは、これまでの彼とは思えない言動で人を傷つけ、最終的にはあっさりと改心する。改心することが悪いのではなく、あれだけ信念があり、エリックと対立していたチャールズが、そんな適当な理屈で考えを変えることがおかしい。善でも悪でもかまわないが、確固たる信念がないというチャールズはありえない。

ダークフェニックスが始まって1時間ほどは、これは新しいパラレルワールドで、チャールズが闇落ちする話なのか!?と期待したほどに、別人になっていた。

闇落ちなら闇落ちで、それを描ききればおもしろくなっていただろう。正義感に満ち溢れたプロフェッサーXの暴走を、逆にマグニートーが説得するという展開だったら、たまらない。

人の心が読めるプロフェッサーXが、人の心がわかりすぎるゆえの慢心から、人の心に真摯に向き合わないという欠点を持っていたとしたら。そう考えただけでもゾクゾクする。そういう展開にだって十分もっていけたはずだ。

ジーンの幸せを勝手に決めつけ、記憶を封じる。それにジーンが怒るという展開も、チャールズの闇落ちというラインで話が進めば納得できる。しかし、チャールズはただただバカな選択をしたというだけの適当な行動原理が見え隠れしていた。ご都合主義と言われても仕方がない。しかも、作中ではジーンの記憶を封じたとはっきり言っているわけではなく、過去に「何か」を封じたというような、非常に曖昧な説明で終わっている。

それが記憶なのか、ジーンの別人格なのか、それすらはっきり説明しない。そこが曖昧だと、ラストでジーンを説得する言葉が生きてこない。ジーンが何に怒っていたのかも、いまいち共感できない。それはチャールズが「何をしたか」をはっきり具体的に説明しないせいだ。

 

ラストに、チャールズがジーンを愛していたがゆえに嘘をついた、と納得するジーンだったけれど、その理屈で納得するなら、序盤にキレすぎだろうと思ってしまう。

エリックに至っては、ジーンを殺すぞ!から一転、守るぞ!に変わるのが早すぎる。「気が変わった」ってセリフがあったけれど、あれはあまり笑えない。本当に気まぐれに見えたからだ。レイブンを殺されて怒ってたんじゃないの???あれは何だったの???という気持ちになった。

 

物語の展開の犠牲になるキャラクターがいるのは仕方がない。すべてのキャラクターの一貫性を保つことは難しい。けれど、それは、主役やメインのキャラクターの一貫性を確保するための犠牲であって、すべてのキャラクターの一貫性が崩壊していてはいけないと思う。

これまでのシリーズでも、エリックは毎回、敵役を担っているために行動原理の一貫性が保たれていなかった。けれど、それはチャールズの引き立て役という側面があるからだった。良いことではないけれど、物語の制約上、仕方がないと思える範疇だった。

今回のダークフェニックスは、チャールズはもちろん、ジーンさえも一貫性がない崩壊した思考回路になってしまい、誰も得をしていない。

 

ブライアン・シンガーなら…と、どうしても考えてしまう。彼なら、もっとキャラクターを生かしてくれたんじゃないだろうか。けれど、セクハラ問題で訴訟を抱えているという残念なニュースも入ってきているため、もう彼が作る映画は見られないかもしれない。作品と製作者は別だという意見もよくわかるが、やはり事件が事件だけに(未成年へのセクハラは罪が深すぎる)簡単に復帰するのも間違っていると思う。もちろん、彼がそういう事件を起こしていないなら話は別だけれど。

 

あまりにモヤモヤしてしまい、どういう話なら納得できるだろうかと考えてしまった。

まず、チャールズの嘘について。

ジーンの父親が死んでいると嘘をついていたけれど、どうせなら、父親がジーンを何度も殺そうとして、それを阻止するために嘘をついた、ぐらいの重さが欲しい。

チャールズが隠したかった記憶は、「父親に何度も殺されかけた娘」という記憶だった、ぐらいの方がチャールズらしいと思う。

 

次に、上記をふまえて、ジーンの怒りの理由。

チャールズの愛は理解したうえで、それでも父親と話し合い、理解する時間を奪わないで欲しかった、と怒る。父親も生きておらず、再会が間に合わない方が良かったと思う。再会できたはずだったのに…というところでジーンの怒り爆発。

 

宇宙人の話は、あんまり大きくなくてよかったはず。出てこなくても話は成立する。

だって、これはジーンの心の問題という話だから。

 

細かいことを言い出すときりがないけど、ナイトクローラーが祈りの言葉を口にするシーンがないのもどうかと思った。

怒ってもいいし、牙を剥いてもいいんだけれど、怒った瞬間こそ祈りを唱えて神に許しを請うて欲しい。彼はそういうキャラクターだろう!

 

ここまで書いておいて、アレなんだけど、それでもキャラクターを無視して、映画として見た場合には60点ぐらいはある映画だと思う。

VFXが美しいし、とりあえず飽きずに見られるストーリーにはなっている。

 

ちなみに、ファースト・ジェネレーション、フューチャー&パストは名作なのでおすすめしておきます。

 

 

 

マイビューティフルガーデン(イギリス映画)


『マイ ビューティフル ガーデン』予告編

 

「図説 英国の住宅」という本を読んでいたら、冒頭にこの映画が紹介されていた。

 

2016年のイギリス映画「マイビューティフルガーデン」。

病的なほど几帳面な主人公・ベラは、元捨て子で修道院育ちの変人。植物の無秩序さが怖すぎて、一人で暮らす家の庭の手入れがまったくできないでいた。

隣に住む偏屈な老人・アルフィーは横暴な男だけれど、庭だけはとても美しい。植物を愛するアルフィーは、ベラの無秩序な庭に対して苛立っていた。

そこへアパートの管理人がやってきて、ベラの庭を見て呆れ果てる。1ヶ月以内に庭を元に戻さないと退去させると言われたベラは、なんとか庭の手入れをしようと、アルフィーの助言を受けながら、無秩序な植物と格闘することになる。

こんな展開の話だ。

 

少女漫画の王道、ハートフルな映画だった。

展開には、だいぶご都合主義かなと思うところもあったし、ラスト間際の詰め込みすぎは残念だったけれど、おおむねおもしろい映画だった。

もう少し本格的なガーデニングの話がある方が、個人的にはいいなと思った。恋愛模様がメインの話だったので、少女漫画好きにはおすすめの映画。

特に、ベラと恋に落ちるビリーが作っているロボットが、とても可愛い。ベラがビリーのロボットを見て、物語を紡ぎ出すシーンがあるんだけれど、その作り込みもけっこうクオリティが高くてびっくりした。ガーデニング描写より、そっちの方に力が入っていたように思うので、ガーデニング目当てで見ると肩透かしをくらう。

でも、ガーデニング入門として、気分を盛り上げるためならいいのかなという感じだった。

1ヶ月で庭を復元、という課題設定がちょっと無理があるのが残念。期限を半年に引き伸ばして、ガーデニングメインの映画にしたら、マニア受けした気がする。それぐらい、役者さんやモチーフはよかった。

 

そういえば2年ほど前、NHKのBSでやたらとイングリッシュガーデンやガーデニング関連の特集番組の再放送があって、かなり見ていたんだけれど、もしかしたらこの映画の公開と関係があったのかも、と今さらながら思い至った。

 

英国人の庭への熱狂っぷりも、なかなかすごい。切り花を飾るぐらいしかしない私からすると、そんな面倒な庭付きの物件、さっさと引っ越せばいいのでは……なんて無粋なことを考えてしまう。

 

でも、そこは「英国の住宅」冒頭でしっかりと解説されいた。

英国における庭の重要性と英国人の庭(もしくは家)に対する考え方は日本とはずいぶん異なっている。日本人も、そうとうな草花好き・庭好きだと思うけれど、また違った庭への熱狂が感じられた。

 

英国人は、家と土地を切り離して考えておらず、家は土地から生えているものだと表現するらしい。安易に家を取り壊すことはせず、少しずつ修繕しながらより良い家を作っていくのが英国流。

住人が良い家を作り上げ、さらに次の住人へと引き継ぎ、家の価値を高めていこうと考えるのだそう。湿気が多く、あまり長期間の使用に耐えられない木造日本家屋とは、考え方が違う。

 

私は、日本の刹那的とも言える建築も大好きだ。

たとえば、伊勢神宮式年遷宮では、20年ごとに社殿をそっくりそのまま作り変える。社殿の新築化が行われるのだ。おそらく多くの外国人は、作り変えた社殿は、はたして本物の社殿と言えるのか、という疑問を抱くだろう。

私はこれを知った時、当たり前のように「神様も新築の方が気持ちいいだろう」と思った。依代という考え方が、自分の中にもしっかりあるんだなと感じた瞬間だった。

また、京都の上津屋橋(通称:流れ橋)を知った時も衝撃的だった。川が氾濫して、何度も橋が流されてしまう場所だったため、増水すると橋板が外れて浮かび上がるという設計になっている。

どうせ流れるんだから、流れる前提で橋にしよう、というとんでもないアイデア。こういう考え方は、できそうでできない。

自然現象を、コントロールするのか、それともそこに身を任せるのか、そういう考え方の違いが端的に現れている。どちらが良いという話ではなく、風土が文化に影響を与えるという点がとてもおもしろい。

 

 英国では、すべての土地は英国王室のものであると考えるらしい。そこから貴族が”借りて”、さらに庶民が貴族から”借りる”ということなんだとか。

土地の権利はフリーホールド(永久所有権)とリースホールド(借地権)に分かれる。リースでも90年~999年なんていう幅があるようで、日本の借地とイメージが違う。売り出す時は、土地と家とリースホールド、すべてまとめて売りに出される。リースホールドがこれほど長い期間であるのは、それだけ建物も長く使えるということなんだろう。

 

また、街並みにも一定の基準があり、道路に面して玄関が作られる。日本のように日当たりによって玄関や庭の位置を変えるわけではないのだという。

それによって、景観に統一感が出て、庭と庭が横につながり、小さな森を形成していく。そこに野生動物が住みやすい環境ができあがるという効果があるそうだ。

 

こういう前提を知って映画を見ると、なるほど、隣人の偏屈老人が、ベラの荒れた庭に文句を言う気持ちもわからなくはない。庭は個人の楽しみである以上に、地域社会への貢献でもあるのだ。

 

「地域社会への貢献」。

都会に住み慣れた現代人には、聞くだけでも苦しい気持ちになる言葉だ。こんなことを言われたら、引っ越しするしかない、きっと数年前の私なら間違いなくそう言っていた。

でも、近頃思うのは、「せねばならぬことがある」という状況は、人を幸せにもするということだ。

地域の行事には一切参加せず、冠婚葬祭もろくにせずに生きてきた合理主義の権化みたいな家庭に育った私は、こういう面倒事が、ひどく羨ましい瞬間がある。

私は確かに自由だ。隣に住む人の名前すら知らない。それでも生きていける。それは悪いことじゃない。けれど、そういう私の生活の優先順位の一番上には、たいてい「仕事」が大きくのさばっている。

これは怖いことだ。

だんじりがあるから仕事を休みにする岸和田の友人を見て、私は心から羨ましいと思う。仕事よりも優先させることがある、それが当たり前な世界はきっと豊かな世界だ。

 

 自分の庭を懸命に手入れすれば、それが誰かの役に立つかもしれないというのは、不自由にも見えるけれど、素敵な世界でもある。

これがファンタジー的であったとしても、そういう世界を目指すというのも悪くないな~なんて思う映画だった。

 

 

 

図説 英国の住宅 (ふくろうの本)

図説 英国の住宅 (ふくろうの本)